【第32話】対局!結婚承認戦の行方
~主な登場人物~
【小峰慎志】(30)
物語の主人公。埼玉の所沢市にあるアパートに住んでいる男性。
人生の荒波に揉まれ色々あったが、現在は都内で建物管理を生業とする会社に勤務。
交際している月原千春と婚約したが、彼女の父親から反対されている。
【月原千春】(27)
物語のヒロイン。埼玉の川越市にある豪邸で両親と暮らしている女性。
東京都内の大学で事務の仕事をしており、身長は若干小柄、性格は男勝りなところがある。
交際している小峰慎志と婚約したが、父親から反対されている。
【月原篤】(56)
千春のお父さん。気難しく頑固な性格で言動も厳しい。
表情は岩のように厳顔で、険しい目つきをしており、亭主関白。
娘の千春と慎志の結婚に対して、否定的な態度を示す。
将棋が趣味で、結婚を認めてほしいなら対局して勝つことを慎志に課した。
【月原万葉】(51)
千春のお母さん。清楚で淑やかで可憐。
物腰も柔らかく、上品な印象の振る舞いと見た目をしており、大和撫子。
娘の千春と慎志の結婚に対して、心の底から喜んで祝福している。
しかし夫の篤が真逆の態度なので心配している。
【安田源造】(42)
慎志が勤める会社マホロバ・ビルサービスの先輩社員。
設備部の営繕課の課長ポジションで、何かと慎志に絡んでくる。
性格は短気で厳しく、職人気質で気難しい。
将棋が趣味で、めっぽう強い。
「おい、仕事サボってるのか?」
定時を過ぎても机で本を読んでいた僕は安田さんに咎められる。
「今日の仕事は全て終わらせました」
「なら帰れ、ダラダラ職場に残る奴はオレは嫌いだ」
「分かりました」
僕は帰宅ラッシュの時間を避ける為、会社で待っている間に将棋の本を読んでいた。
でも安田さんに注意されたからもう帰ろう。
席を立つ。
「ん、待て。何の本を読んでる?」
「…将棋の本ですが」
仕事と関係ない本なので、安田さんに怒られると思った。
しかし…。
「小峰は将棋が指せるのか?」
「まぁ一応は。弱いですけど…」
「熱心に本を読んでいたようだが、強くなりたいのか?」
「はい。訳あって、どうしても勝たなくちゃいけない相手がいるんです」
僕は真剣な表情で安田さんを見る。
遊びで将棋を勉強しているわけではないのだ。
「そうか…」
安田さんは僕の目つきから切羽詰まった何かを感じ取ったようだ。
「倉庫に将棋盤がある。取ってこい」
「え?」
「オレが将棋を教えてやる」
まさかの展開。
僕は安田さんと会社に残り、将棋を指すことになった。
安田さんと対局して将棋の指導をしてもらう。
「馬鹿か!何でそこに指す?」
安田さんは僕の指す一手一手の問題を事細かに指摘してくる。
「おい小峰!ちゃんと考えているのか?まったく中身のない奴だな!」
安田さんのパワハラ、いや、スパルタ指導。
安田さんから指南されてはっきり分かる。
安田さんは将棋がめっぽう強い。
気付けば2時間が経ち、ふたりで21時過ぎまで会社で将棋を指していた。
「今日は終わりだ。明日以降も定時過ぎて仕事が片付いているなら会社に残れ。オレが将棋の面倒を見てやる」
「あ、ありがとうございます」
僕は駄目だしされまくってヘトヘトになり、返事をするのがやっとだった。
その日から安田さんに将棋を見てもらうのが仕事後の日課となる。
安田さんと会社に残って対局しては、怒涛の指導を受ける日々。
「どうすれば強くなれるんですか?」
「とにかくいっぱい指せ。量をこなせ。量から質は生まれる」
まるで放課後に夜遅くまで部活動に励んでいる学生のようだなと思った。
千春の父、篤さんに将棋で敗れてからおよそ一か月。
この期間、みっちり安田さんに教わった。
自分でも実力が身に付いている実感があった。
なので休日に時間を作ってもらい、再び千春家に訪れ篤さんに対局を申し込んだ。
結果は前回と同様に、僕のボロクソ負けだった。
圧倒的な力の差。
篤さんは本気で指しておらず、遥かな高みから僕の力量を推し量っているような余裕すら感じた。
しかし僕の落胆とは裏腹に、篤さんは対局後に驚いた様子を見せた。
「この短期間で、これだけ指せるようになるとはな…」
それは褒められている…と受け取ってもいい台詞だ。
でも僕は篤さんとの実力差が少しも狭まってない気がした。
対局すればするほど、篤さんの圧倒的な強さが鮮明に伝わってきて、遠い存在に感じてしまうのだ。
これじゃあ、いつ勝てるやら。
「お父さん、何気に楽しんでない?」
対局を見ていた千春が篤さんに言う。
僕には篤さんが楽しんでいるようにはまったく見えない。
相変わらず厳顔で険しい態度で接してくる。
しかし娘の千春は、父親の表情の微妙な変化に気付いたのだろう。
「何を言っている?わたしは忙しい!」
そう言って篤さんは千春の指摘をうやむやにするように、そそくさと立ち上がって部屋を出ていった。
「お父さん、慎志の実力が上がってちょっと嬉しかったんだと思う。で、いつお父さんに勝てそう?」
「正直な話…10年くらいかかるんじゃないかと…」
「ええええ!?」
千春はムンクの叫びのような顔をした。
帰り際、玄関で千春の母、万葉さんと出くわした。
ちょうど買い物から帰ってきたようだ。
「慎志さん、今日も夫と将棋で?」
「はい」
「どうでしたか?」
「コテンパンにやられました」
「そうですか…」
申し訳なさそうに顔を歪める万葉さん。
逆に僕の方が万葉さんにそんな顔をさせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「あの、慎志さん」
「はい?」
「夫は将棋の勝ち負けではなく、あなたの”本気”が見たいのだと思います」
「え?」
「またいつでもうちに来てください。今度は私も”加勢”しますから」
そう言って別れ際に笑顔を向けてくれた万葉さん。
”加勢”…とは何だろうか。
そして…”本気”というのは。
僕は今までの人生で、何かに本気で打ち込んだことはあっただろうか。
受験?勉強?就活?仕事?
一生懸命だったとは思う。
でもそれは本当に本気であっただろうか?
それこそ命をかけるくらい必死だっただろうか?
週明け、会社に出勤して早々に安田さんから対局の結果を聞かれる。
気にかけてくれていたようだ。
「どうだった?どうしても負かさなきゃならない相手とやらには勝てたのか?」
「いいえ」
「…そうか。じゃあ少し教え方を変える。これからは定石通りじゃねえ、諸刃の指し方ってやつを教えてやる」
「良いか小峰?将棋は指す人間の内面を映す。その人間の生き様がそのまま指し方に表れる」
「はい」
「時に大胆に、そして謙虚に生きろ。無鉄砲と大胆は違う。卑屈と謙虚も履き違えるな。それが将棋にも影響する」
そう言って現場へ向かう為に準備をする安田さん。
「あの…安田さん」
「なんだ?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「いつも遅くまで僕の将棋の面倒を見てくれて。仕事と関係ないのに」
「お前は馬鹿か」
そう言って安田さんは支度を済ませてオフィスを出ていった。
安田さん、照れてたな。
最初こそ、安田さんに馬鹿と言われるのはしんどかったが、今では馬鹿と呼ばれて喜ぶ自分がいた。
そして更に数週間が経つ。
ガムシャラだった。
将棋を指導してくれる安田さんにも僕の本気が伝わったようで、本業の仕事もそれくらい本気になれと怒られた。
それくらい僕は必死だったのだと思う。
そして…
僕は再び千春の父、篤さんに対局を申し込んだ。
千春と結婚する旨を伝えた日から2ヶ月が経っていた。
無我夢中で将棋に打ち込んだが、まだまだ篤さんには実力で遠く及ばないだろう。
それでも一矢報いてやろうという気概が僕を突き動かした。
休日の昼下がり。
千春の家に訪れる。
広々とした居間の真ん中。
将棋盤を隔てて篤さんと向き合う。
何度目の対峙だろうか。
「今日の君からは並々ならぬ闘志を感じる。それが虚勢でなければ良いのだが…」
篤さんは今まで通り、対局する前から勝ち誇った様子だ。
「僕は今日こそ勝つ気でやって参りました」
「フン、せいぜい食らいついてくると良い。わたしを失望させるような惨めな対局だけはしないでくれ」
僕らの対局に合わせて千春と万葉さんが居間に入ってくる。
千春は僕の隣に、万葉さんは篤さんの隣に腰を下ろした。
僕と篤さんが自陣の駒を並べ配置していると、万葉さんが口を開いた。
「あなた?いつまで意固地を張るのですか?」
夫の篤さんを非難する言葉。
「あなたのせいで千春と慎志さんはずっと停滞したまま。先に進めないんですよ?」
「なんだと?」
「もう黙って見ていられません。私は慎志さんの味方です。だから…」
万葉さんが篤さんの”飛車”を取り上げた。
「どういうつもりだ?」
「私も戦います」
「何だと?」
「あなたこそ何をしているのですか?いつまでも頑固になって。親として温かく娘たちを見守るのが私たちの役目でしょう?」
「万葉さん…」
僕は言葉に詰まった。
「慎志さんも娘も、あなたに結婚を認めてもらいたくて必死です。あなただって、私と結婚する時はそうだったじゃないですか」
え?
「な…!?余計なことは言わないでいい」
「お母さんがそうなら…私も!」
千春が篤さんの”角”を取り上げる。
「お、おい、千春まで勝手に駒を奪うな!」
「私も戦うの。お父さん1対3だから!」
「千春…万葉さん…」
「慎志さん、私たちも一緒に戦います」
「今日こそお父さんやっつけちゃって!応援してるわ!」
「ありがとうございます」
飛車角落ち。
圧倒的に僕の有利。
これなら…ワンチャンあるぞ!!
「とんだ茶番だな。まぁ良い、今回だけだぞ」
篤さんも女性陣のペースに飲まれ、この状況を汲むことにしたようだ。
「君なんぞ、飛車角抜きでも叩き潰せる」
篤さんの表情が一気に鋭くなった。
まるで覇気を発しているような気迫を感じた。
本気でくる!
でも僕だってこの日の為に精進してきた。
千春と万葉さんが気を利かせてくれて、破格のアドバンテージをもらった。
負けるわけにはいかない!
真剣勝負が始まった。
日が暮れる。
庭のある縁側から淡いオレンジ色の光が居間に射し込んでいた。
まるで夕焼けが部屋全体をセピア色の世界へと染め上げるように。
あっという間に時間は橙色に溶けて、勝機を信じて意気揚々と対局に臨んだ自分が遠くに霞んでいた。
まるであの自信は幻だったかのように。
「長考しても無駄だ」
「くっ…」
見守っていた千春と万葉さんも沈む夕陽のように肩を落としている。
盤面を見て、僕がどうあがいても負けるのを察したようだ。
彼女たちの期待には応えられなかった。
「参りました」
僕は深々と頭を下げた。
やはり篤さんの将棋の実力は相当なもので。
飛車角抜きのハンデを貰っても、惜しい戦いになるどころか、遠く及ばなかった。
この圧倒的な実力の差は数か月で埋まるわけがない。
「も〜う!お父さんのバカ!いい加減負けてよ!もう待てないんだから!将棋の勝ち負けなんて関係ないわ!私は慎志さんと結婚しますからね!」
顔を真っ赤にして父親に罵声を浴びせる千春。
篤さんは眉間にシワを寄せて目を瞑る。
少しの沈黙を挟んでから目を開き、娘に顔を向けた。
そこに険しい表情はなく、優しい父親の眼差しがあった。
「この子は私と万葉の間に生まれてきてくれた何よりも大切な命。かけがえのない存在だ」
「え?」
千春がきょとんとする。
僕も万葉さんも動かなかった。
「生涯でたどり着いた人生で一番の宝だと言っていい」
優しい父親の目が、瞬時にひとりの男の鋭い目つきとなり、僕をとらえる。
「だからこそ気安く渡せない。それは分かってもらえるな?」
篤さんの射抜くような目線を、僕は真正面から受け止めた。
「はい」
「君の将棋は危なっかしい。まるで地に足がついていないようだ」
「すいません。実力不足です」
「君の一手一手に焦りを感じた。娘との結婚を逸っているというより、もっと根本的なものだ。君は日々の生活で何か焦燥感のようなものを抱いていないか?」
焦り。
焦りならあった。
何故、自分はもっとうまく生きられないのだろうという焦り。
言うなれば”人生そのもの”に対しての焦り。
僕はそれをうまく説明出来る自信がなくて黙り込むしかなかった。
「君の将棋は悪手ばかりだった」
篤さんが思い出すように目を瞑った。
「しかし、その中の何手かは果敢じゃないと指せないものだった」
僕も千春も万葉さんも、ただ黙って篤さんの話に耳を傾けていた。
「何故わたしが君と千春の結婚を渋っているのか、分かるか?」
「それは…」
それは決まっているだろう。
「僕が不甲斐ない人間だからですか?」
「君が有能だろうが無能だろうがどちらでも構わない。無責任でなければな」
篤さんは顔を背け、縁側の方を向いた。
その表情は分からない。
外は暗くなっていた。
夕日が更に沈み、夜の帳が降りようとしている。
黄昏色の空が綺麗だった。
「娘のどこに惚れた?何故、結婚したいと思った?」
「それは…千春さんの事が好きだからです」
「抽象的すぎて返答になってないな」
「すみません。具体的に千春さんのどこに惚れたかは自分でもうまく説明できません」
「でも、気づけばいつも千春さんが僕の心の中にいて、とても愛しく感じるんです。千春さんとずっと一緒にいたい。一緒に人生を歩みたい。一緒に笑ったり、ふざけたり、時に怒ったりして共に時間を共有したい。彼女は僕にとって、かけがえのない存在になっていたんです。彼女じゃなきゃダメなんです」
「そうか…」
篤さんのその短い言葉に、僕は感慨深いものを感じた。
千春の父親として、娘への想いが込められている気がした。
再び沈黙。
でもその沈黙は重苦しいものではなかった。
僕は篤さんの次の言葉を待った。
「たとえ娘から嫌われようが、家から出ていかれようが、誰と結婚しようが、娘の父親がわたしであることは変わらない」
僕に向けられた言葉というよりは、それはまるで篤さん自身に言い聞かせているようだった。
「娘を不幸にしたら許さない」
篤さんが真っ直ぐに僕を見る。
穏やかな表情で。
「娘を裏切るような真似や酷く悲しませるようなことがあれば、わたしはいつでも娘を連れ戻す」
「え?」
「いいな?肝に銘じておけ」
「え?それって…」
それ以上は何も言わない。
篤さんはただ静かに目を閉じて、頷いた。
あ、ああ…認めてくれた。
「はい!ありがとうございます!!」
僕は頭を下げた。
頭を下げたことなら今まで何度だってある。
でも床に頭をつけたのは初めてだ。
「お父さんありがとう!」
千春が満開の花のように明るい顔になった。
「おめでとうございます!」
万葉さんもほっとしたように表情を綻ばせた。
「お義父さん本当にありがとうございます!」
「君にお義父さんと呼ばれるのは気持ちが悪いな」
「あなた!」
万葉さんが注意するが、篤さんの口元は笑っていた。
僕と千春は飛び跳ねるように立ち上がり、両手を繋いで喜び合った。
はしゃぐ僕と千春をよそに、万葉さんが篤さんに語りかける。
「慎志さん、あの頃のあなたに似てます」
「あの頃?」
「私たちの結婚を、私の親から反対された時。あなたは私の親を説得しようと何度も家を訪れて必死になってくれました」
「そんな事もあったか」
「慎志さんの一生懸命な姿が、あの時のあなたにそっくりです」
「よしてくれ」




