【第30話】プロポーズは突然に
~主な登場人物~
【小峰慎志】(30)
物語の主人公。埼玉の所沢市にあるアパートに住んでいる男性。
人生の荒波に揉まれ色々あったが、現在は都内で建物管理を生業とする会社に勤務。
月原千春と交際している。
【月原千春】(27)
物語のヒロイン。埼玉の川越市にある豪邸で両親と暮らしている女性。
東京都内の大学で事務の仕事をしており、身長は若干小柄、性格は男勝りなところがある。
小峰慎志と交際している。
【細渕信彦】(37)
慎志が勤める会社マホロバ・ビルサービスの先輩社員。
設備部の巡回課の課長ポジションで、ひとり立ちした慎志とも仕事でよく関わる。
【岩本健】(31)
慎志が勤める会社マホロバ・ビルサービスの社員。
設備部の常駐課に所属し、有楽町ビルの常駐係員として働いている。
手が震えている。
会社にて、僕は渡された源泉徴収票を見て高揚感に包まれていた。
支払金額の欄には…400万円と記されている。
年収400万円ってことか!?
「おお…すげぇ…」
思わずひとり呟く。
「どうしたの?」
そわそわしていると細渕さんから声をかけられた。
「僕の年収が400万円に到達したんですよ!歴代1位の高年収です!」
「そ、そうなんだ…良かったね」
「この源泉徴収票は記念として一生取っておきます。帰りに100円ショップで額縁でも買って部屋に飾ろうかな」
僕の話を聞いて苦笑いする細渕さん。
「でも、それだけ稼げたのは安田さんのおかげかもね。時間外労働で残業代になる仕事を小峰君に結構振っていたから」
確かに…年収400万円は残業代がないととても届かなかった。
「ただ、これからはどうなるか分からないよ。会社が残業を減らす方針で動いているから。長年働いていても、うちは昇給なんて年に1000円上がったら良い方だし、そもそも業界全体が他業種より給料水準低いし」
「そうなんですか…」
残業がなくなるのはそれはそれでプライベートの時間が増えてありがたい。
ただ毎年昇給で基本給が1000円ずつ上がるとするならば、10年でようやく1万円アップである。
う~ん。
「うちの会社で給料上げたいなら人事に施工部への転属希望を出すと良いよ」
施工部か…。
施工管理は続けられる自信がない。
現状の施設管理でギリギリのメンタルで何とか働いているのだ。
「ちなみに小峰君はうちの会社に入って、何の資格取った?」
「えっと、電気工事士と危険物乙四です」
「施設部で今後も頑張っていくなら、ビル管理士の資格取得を目指すといいよ」
「ビル管理士?」
「正式名は建築物環境衛生管理技術者といって長ったらしいんだけどね。建物の維持管理で必要な資格なんだ。この業界では資格を取らないと給料アップは難しいから、難しい資格だけど挑戦してみる価値はあると思うよ」
「ふっふっふ、細渕さん。それって遠回しに自慢してません?」
背後から声をかけられ、僕と細渕さんは振り返る。
「岩本君!?」
「細渕さんはビル管理士だけでなく、もっと難しい電験三種やエネルギー管理士の資格も持ってますからね。小峰さんに自慢してるんですよ」
初めて見る男性だ。
風貌から察するに年齢は僕ぐらい。
僕と目が合う。
「どうも初めまして、入社して五年目になるかな?設備部常駐課、有楽町ビルの岩本和也です。小峰さんの事は細渕さんから聞いてますよ。巡回課で頑張ってますね」
「あ、どうも初めまして」
人懐っこい笑顔の岩本さん。
仲良くなれそうな雰囲気がある。
細渕さんとも親しいみたいだ。
「べ、別に自慢なんかしていないよ。小峰君に資格取得を勧めてるだけ。それより岩本君、どうしてここに?」
「制服がボロボロになったんで新しいの貰いに来たんです」
「そうだったの。どう?有楽町ビルは?仕事は順調かい?」
「平和ですよ。待機時間が多くて勤務時間に資格の勉強が出来ますし」
「ええ、そうなんですか?」
僕は羨ましく思った。
仕事中に資格の勉強が出来るなんて。
それで給料が貰えるなら万々歳じゃないか。
常駐課の仕事現場はそんな感じなのだろうか?
僕が食い気味で話を聞いている様子を見て、岩本さんが得意気になる。
「何なら延々とゲームやネットサーフィンしてる人だっていますよ」
「…おっほん!」
細渕さんが咳払いをする。
「あ~あはは、まあそんなわけで小峰さんも常駐課どうですか?現場に当たり外れありますけど、うちのビルは当たりですよ」
マジか…良いな常駐は!
仕事終わり、繁華街を通り抜けて駅へ向かう。
途中、宝飾店の前で僕は足を止めた。
4°F。有名なアクセサリーブランドだ。
何気なくショーウィンドウに飾られたジュエリーを眺める。
そういや、もうすぐ千春の誕生日だ。
サプライズでいきなりお揃いの指輪なんかプレゼントしたら千春は喜んでくれるだろうか。
でも千春の指のサイズが分からないや。
誕生日プレゼントは何にしよう。
そんな事を考えながら帰路についた。
さて今日は早く帰れたし、たまには晩御飯、自分で作ろうかな。
冷蔵庫にジャガイモとニンジン、シラタキ、冷凍庫に豚肉があったので肉じゃがを作った。
「うん、うまい。上手に出来た」
もし千春がこの肉じゃがを食べたら何て言うだろうか。
美味しいと言ってくれるだろうか。
テレビをつける。
適当にバラエティ番組を見る。
芸能人が身体を張ったボケをかましている。
「あはは!この番組面白いな」
もし千春と一緒にこのテレビ番組を見ていたら何て言うだろう。
面白いと言って、高らかに笑うんだろうか。
同じ時間を共有できたら…。
この間のドイツ人の件。
僕を選んでくれた。
なら、将来の伴侶としても、僕を選んでくれるだろうか。
千春のいない生活はもう考えられなかった。
もし別れることになったら、きっとすごい悲しいんだろうな。
毎晩、千春を忘れる為にやけ酒を飲んで、半年、いや1年経っても、彼女を失ったショックから立ち直れないかも知れない。
いかんいかん…しおらしくなってる。
勝ち気で気性が強くて男勝りで、大雑把なところもあるオテンバ娘の彼女。
でも好きになった。
最初は絶対に好きになるようなタイプの女性じゃないと思っていたのに。
人生って分からないな。
壁に貼ってあるカレンダーを見る。
千春の誕生日が迫っていた。
プレゼントはどうしよう。
再び悩んでいるとあっという間に時間は過ぎていった。
千春と出会って交際してから、時間はあっという間に過ぎていった。
時間…。
そういや、いつかのデートで腕時計が調子悪いから新しいの欲しいって言ってたな。
じゃあ、お揃いの腕時計なんてどうだろうか。
「よし!決めたぞ!プレゼントはお揃いの腕時計だ!」
ーーーーーーーーーー
千春の誕生日はお互い都内で仕事だったので、退勤後にお台場で待ち合わせした。
レインボーブリッジ、東京湾を隔てたビル群の夜景が綺麗だ。
ユニコーンガンダムやフジテレビの建物を見て回る。
ダイバーシティを散策して、お洒落なステーキ屋で晩御飯を食べた。
食後、海浜の公園でふたり一緒に東京湾を眺める。
遠くに見える何棟もそびえ立つタワーマンションの光がイルミネーションのようだ。
あんな場所に住んでいるのは一体どういう人たちなんだろうか。
それにしても夜風がひんやりして心地良い。
しかし熱を帯びた頬を冷ますまでには至らない。
これから千春に誕生日プレゼントを渡すわけだが、何故自分がこんなに火照っているのかよく分からなかった。
「千春…」
「んー?」
”お誕生日おめでとう!”
その言葉とともに僕は彼女にお揃いの腕時計をプレゼントするはずだった。
なのに口から出た言葉は…
「結婚しよう」
「え?」
「え?」
僕は自ら口に出した言葉に仰天した。
無意識の暴走。
僕はどういうわけか、プロポーズの言葉を口走っていたのだ。
何いきなり結婚を申し込んでんねん!!
そう自分で自分をツッコんだ。
静寂。
周囲には誰もいなかった。
風も止んでいた。
二人だけの世界だった。
お互い、見つめ合う。
千春の困惑した瞳。
ほのかに潤んで輝いている。
淡い宝石のようだと思った。
僕は思い直した。
これでいい。
これでいいんだ。
もう一度、勇気を振り絞ってちゃんと言おう。
「千春…」
「はい」
出会ってだいたい2年くらい。
共に過ごした時間は僕にとっては勿論、彼女にとっても大切な月日であったと信じたい。
ふたりの思い出の日々は僕の独りよがりではないこと。
僕にとっても千春にとっても、お互いのことを無二の存在として認識していること。
僕らは目に見えない赤い糸、そして強い絆で結ばれている。
そんな確信がある。
だからプロポーズするのだ。
「千春」
もう一度、愛しい人の名前を呼ぶ。
空気が変わった。
千春もそれを感じ取っていた。
ありのままの想いを伝える。
「僕は君のことが好きだ。これからもずっと一緒にいたい。千春と一緒なら、これからどんな事があっても乗り越えて行けそうな気がしゅる」
しまった!大事な時に噛んでしまった。
滑舌を意識して続ける。
「僕の人生で、千春が一番大切な人になっていたんだ。もう千春のいない人生は考えられない。千春じゃないと駄目なんだと思う」
嘘じゃない。僕が想っている正直な気持ち。
「だから…」
片膝を地につく。
鞄から取り出す腕時計が入ったケース。
スマートに取り出せず、少し引っかかって、ぎこちなくなってしまった。
慌てるな、ゆっくりでいい。
きっと今、世界は僕と千春だけのものだから。
「僕とお揃いなんだけど…」
ケースを開ける。
中身は腕時計。
千春が欲しがっていたもの。
以前、セイコーの腕時計を身に着けていたから。
サイズの違うお揃いのセイコーの腕時計を買った。
セイコーだけに、このプロポーズが成功する事を信じて。
「僕と、結婚して下しゃい」
まーた噛んだ!
なんで大事な時に僕はやらかしてしまうんだ!
仕方がない!ええいままよ!
ケースに入った腕時計をまるで婚約指輪のように見立てて差し出す。
僕のプロポーズの言葉で世界が止まった気がした。
心臓だけが唯一、抑えきれないほど激しく脈打っている。
沈黙、静寂。
ふたりの視線は交わり続ける。
僕は今、どんな目をしている?
まっすぐ君だけを見ているかい?
千春、君の目はまっすぐに僕を見ているよ。
その瞳の奥に宿っている光の正体は…。
ふたりとも動かない。
静止した世界のようだけど、実際には時間が流れている。
一秒一秒が克明に時を刻んでいた。
経過していく時間は、僕の身体にのしかかってくる。
どうした?
どうして何も返事をしてくれない?
熱意を込めて告げたプロポーズの言葉。
その残響が端の方から冷めていくのを感じた。
千春から目を少しだけそらした。
違った、何かが違ったのか?
僕は勘違いしていたのか?
僕は千春を誰よりも大切な存在だと想っている。
この世で一番愛している。
ずっとそばにいたい。
でも、千春は僕に対してそこまでの想いは抱いていなかったのか?
僕は俯いた。
駄目か?
駄目なのか?
僕は…。
僕は選ばれない!
「65点」
「え?」
点数を言われ、顔を上げる。
千春の目には涙が浮かんでいた。
瞳の奥に宿っていた光の正体は涙だった。
「夜景、ふたりっきり、まぁロマンチック。誕生日にプロポーズも良い感じ。プレゼントは婚約指輪じゃないけど、お揃いの腕時計は悪くない。私、ちょうど腕時計欲しかったし」
千春の声はくぐもっていた。
「だけど、目をそらしたし、モジモジしてるし、大事な言葉噛んでるし、ちゃんと聞こえなかった」
「ごめん」
「でも…」
ふたりの間に夜風が吹く。
「もう一度しっかり私の目を見て噛まない言ってくれたら特別に100点にしてあげる」
「分かった」
もう一度チャンスを与えられた。
生涯最後のプロポーズの言葉になるだろう。
だからちゃんと堂々と!
噛まずに言う!
返事が返ってくるまで、千春から目を逸らさない!
再びふたりの間に夜風が吹いた。
この風はどこから来たんだろう。
そしてどこへ行くのだろう。
きっとこの風は…。
僕と千春、ふたりを未来へと導いてくれる!
「僕と」
「結婚して下さい!」
「はい!」
千春が満面の笑みで返事をくれた。
細くなった目から涙がこぼれ落ちていた。
彼女は笑いながら泣いていた。
どうしようもないほど愛しい表情。
それを見て僕は救われた気がした。
それを見て僕は報われた気がした。
あ…ああ…。
僕は選ばれたのだ。
千春は僕を選んでくれたのだ。
こんなに嬉しいことはない。
「ありがとう!やった!やったぞー!!」
腹の底から声を出した。
僕の歓喜の叫びは海浜から東京湾へと響いていった。
そして千春を抱きしめる。
強く、強く。
千春からは良い匂いがした。
大好きな人の匂い。
「痛い、痛いって!」
そう言いつつも千春も嬉しそうだった。
パチパチ…。
僕らから少し離れた所々から、拍手の音が聞こえる。
いつの間にか、僕のプロポーズを見守っていた人たち。
彼らは僕と千春を祝い、拍手を送ってくれたのだ。
ありがとう。ありがとう!
僕は自らの人生、そしてこの世界に心の底から感謝した。




