【第29話】交際いざこざ、ドイツ人事件
~主な登場人物~
【小峰慎志】(29)
物語の主人公。埼玉の所沢市にあるアパートに住んでいる青年。
人生の荒波に揉まれ色々あったが、現在は都内で建物管理を生業とする会社で働いている。
ひょんなことから、同じラーメン好きの月原千春と交際する事になった。
【月原千春】(26)
埼玉の川越市にある豪邸で両親と暮らしている女性。
東京都内の大学で事務の仕事をして働いている。
髪は短く身長は若干小柄だが、性格は男勝りなところがある。
ラーメンが好きで、小峰慎志と一緒にラーメン屋巡りをしている内に交際に発展する。
高校生の頃は吹奏楽部の部長をやっていた。
【ダニエル】(40)
日系ドイツ人で長身のイケメン。ドイツに住所がある。日本語ペラペラ。
月原千春の高校生時代の学校の音楽の先生で、吹奏楽部の顧問もしていた。
所属する交響楽団の日本公演の為、来日中。
【浅野純太郎】(32)
小峰慎志と同じアパートに住むIT系会社勤務の男。
学生時代の担任に似ているからという理由で慎志から"先生"と呼ばれている。
慎志のことを名字で”小峰氏”と呼ぶ。
眼鏡をかけ、ふくよかな体系をしているが、それは優しさが詰まっているから。
穏やかな性格で頼りがいもあることから、慎志から尊敬されている。
ある土曜の昼下がり。
僕と千春はオープン前日のラーメン屋に並んでいた。
明日の日曜、有名な二郎系ラーメン屋の新店舗が開店する。
その人気っぷりは凄まじく、前日に開店当日の整理券を配布しているのだ。
僕らは明日オープンするラーメン屋の整理券を貰う為に並び、無事に整理券を入手することが出来た。
時間指定で、ちょうどお昼頃の時間帯だ。
「新店の二郎系ラーメン楽しみだわ!開店初日はオープン記念で当日限定のスペシャルラーメン仕様なんだって!」
「それは嬉しい。…ところで、千春は二郎系ラーメン食べたことあるの?」
「ないわ!」
得意気に言うのは何故だろう。
「二郎系って量が多いから、僕は千春が食べきれるか心配だよ」
「大丈夫!マシマシ言わないから!」
マシマシは僕でも言わない。
それでも千春は完食に自信があるようだ。
「ついに私も二郎系ラーメンデビューね。いつかは経験しなければならないと思っていたのよ!胃袋の準備は万端よ!」
付き合って一緒に食事を重ねて思うのは、千春はその小柄でほっそりした体型の割によく食べる。
二郎系ラーメンが初めてでも、”並”の量なら食べ切れるだろう。
千春と談笑しながらすぐ近くにある航空公園を散策する。
航空公園は日本の航空発祥の地として知られている憩いの場所だ。
それなりに広く、週末の土曜ということもあって、大勢の人たちで賑わっていた。
すぐそばに併設されている文化センターを通った時だった。
「チハル?」
向かい側からやって来た黒コートを着た長身の男が、すれ違いざまに声をかけてきた。
顔の彫りが深く、鼻が高い。
青く透き通るような眼が印象的だった。
風貌を見るに日本人ではなく欧米の人のだろうか。
「え!うそ?ダニエル!!」
千春が驚いて飛び跳ねた。
ダニエルという男、千春の知り合いらしい。
ふたりの視線が交差し、互いの表情には驚嘆と歓喜の感情が浮かび上がっていた。
「ダニエル、さん?」
「学生時代の恩師よ!」
「恩師?この人が?」
「彼は日系ドイツ人なの!私が高校生の頃の音楽の先生でね。私が所属していた吹奏楽部の顧問もやってたの!部を全国大会に導いてくれたのよ!」
「そうなんだ…」
「当時の部員はほとんど女子で、みんなダニエルに憧れていたわ」
興奮冷めやらぬ千春。
相手のダニエルも偶然再会した教え子に心躍っている様子だ。
微笑ましい光景なのだろうが、ちょっとモヤモヤする。
「チハルにまさかこんな所で会えるなんて、運命的なものを感じるよ」
「でもどうしてダニエルは日本にいるの?確か私たちの代が卒業するのと同時期に、日本での教師の仕事を辞めてドイツに帰国したんじゃなかったの?」
「実は日本でボクが所属する交響楽団の公演があって、来日しているんだ。今日もつい先程までそこのコンサートホールで公演をしていたんだよ」
ダニエルはすぐ近くの文化センターの催物案内板に掲示されていた楽団のポスターを指さした。
「そうだったんだ!コンサート見たかったな〜!」
千春が残念そうに言った。
「公演が終わって、それでちょっと外に抜け出してみたら、まさかチハルに会えるとはね…」
そしてダニエルは、ようやく千春の隣りにいた僕と目を合わせる。
「こんにちは、もしかして千春の旦那さんかい?」
「えっと…」
「違います!」
千春が即答で否定した。
まあその通りなのだから彼女の反応は当たり前なのだが。
「そうか。チハルはまだ結婚していないってことだね」
ホッとするダニエル。
何故ホッとするんだ、ダニエル!
「ダニエルは奥さんと元気でやってる?」
「それが…一昨年に離婚して、互いにそれぞれの道を歩むことにしたんだ」
「そうなんだ…」
聞いちゃ悪かったかなと、千春が少し気まずそうにする。
「それにしてもチハル、素敵な大人の女性になったね。綺麗だ」
さらりと言う。
リップサービスなのか、これがドイツ人の女性に対しての自然な振る舞いなのか、よく分からなかった。
千春は照れ隠しで控えめに笑っているが、本心から嬉しそうだ。
「ダニエルも相変わらずかっこいいね!」
「独り身になった後、しばらくして所属する交響楽団の日本での公演が決まった。日本と言えば、かつて日本の学校で音楽の先生と吹奏楽部の顧問をしていた。その時の事を思い出したんだ」
ダニエルは優しい微笑みで語り続ける。
「そういや可愛い教え子たちの中でも、吹奏楽部の部長として一際頑張っていた女の子がいたな。きっと今は素敵な大人の女性になっているんだろうなって…。そんな事を考えながら来日したんだ」
千春は頬を紅く染め、目を輝かせながらダニエルの話に耳を傾けている。
おいおい。
「そしたら何という奇跡だろう。今こうしてその女の子に会えた。チハル!ボクは君と再び出会えた幸運に胸が震えているよ!」
大袈裟だなと思った。
ダニエルの瞳は潤んでいる。
千春の瞳も潤んでいた。
両者が見つめ合う姿に漠然とした不安を覚える。
僕はこのモヤモヤした感情が嫉妬であると気付いた。
ここはダニエルに、僕が千春の彼氏であることを告げた方が良いかな。
口を開けようとしたその時だった。
「あ〜そういえば、確かまだ当時の写真を持っていたはず」
ダニエルが思い出して、持っていたカバンを探る。
黒い生地カバーの分厚い手帳を取り出した。
ページに挟んでいた1枚の写真を取り出して、こちらに見せてきた。
僕はその写真を見て背筋が凍った。
楽器を持った制服姿の女子生徒たちが集合して歓喜している場面。
おそらくダニエルが吹奏楽部の顧問をしていて、コンクールで優勝した時のものだろう。
なんと、写真の中にいる学生時代の千春が、ダニエルに抱きついていたのだ!
「この写真、まだ持っていたんだよ」
「これって県大会で優勝して全国大会進出が決まった時の!懐かしい!」
「チハルは部長として本当に良く頑張っていたね」
僕に対して悪びれもせずに写真を見て懐かしむ千春。
僕はショックで黙り込んでしまった。
それからも思い出話に浸る千春とダニエル。
僕は疎外感を感じ、いないのも同然だった。
「明日は休みかい?」
「えっと日曜だから休みだけど…」
「明日の午後、次の公演スケジュールで関西へ向かうんだけど、正午過ぎまでは自由時間なんだ。良かったら、ボクと一緒にランチしてくれるかい?」
「え?」
「東京の友人から美味しいフレンチレストランを教えてもらったんだ。君を連れていきたいし、ふたりっきりで色々と話がしたい」
「え、えっといや、それは…」
明日、日曜の昼時。
千春と新店の二郎系ラーメン屋へ行く時間と被っている。
「是非、付き合ってほしい」
終始笑っていたダニエルの表情が真剣なものになる。
千春が困った顔をして僕の方を向いた。
その時だった。
「ダニエルさーん!」
交響楽団のスタッフらしき人が、こちらに駆け寄ってくる。
「勝手に外に抜け出さないで下さいよ〜!まだ撤収作業中でやることあるんですから~!」
「おっと申し訳ない。チハル、ボクはもう行かなきゃいけないから、連絡先だけ教えてくれるかい?」
ダニエルに急かされて、千春は僕の目の前で電話番号を交換する。
「ダニエルさん!早くして下さい!」
交響楽団のスタッフから催促が飛ぶ。
「それじゃあチハルまたね。落ち着いたら電話するよ」
そしてダニエルはスタッフと共に去っていった。
「まさか学生時代の恩師と再会するだなんて!しかもランチに誘われちゃった!」
満更でもない千春の態度。
「行けばいいじゃないか?」
「え?」
「僕との予定は取り消しで良いよ。ラーメン屋なんていつでも行ける」
「でも…」
「さようなら」
僕は居た堪れなくなって、千春を置いてその場を去ろうとした。
「ちょっと!どうしたのよ?何でムキになってんの!?」
「ダニエルのことが好きなんだろ?」
「はぁ?」
僕は苛立ちにまかせて捲し立てる。
「あいつの方が僕なんかより富も名声も上だろう!?千春のご両親も、あの人が彼氏だったら安心なんじゃない!?」
「はぁ?慎志なに言ってんの?」
チハルの表情がみるみる怒気に染まっていく。
しかしそんなことは気にしてられない。
「ってか、僕の前で連絡先交換なんかしてさ。穏やかになれるわけないだろ!ましてや学生時代に憧れていた男なら尚更だよ!」
「待ってよ!ダニエルは私より10歳以上も年上なんだよ!そんなんじゃないってば!」
「10歳差のカップルなんて普通にいるじゃないか!加藤茶なんて40歳以上、嫁と離れてるんだから!不自然でもなんでもないよ!」
「ねぇ嫉妬してんの?そういう不貞腐れた態度やめて!」
千春は何故、怒って言い返してくるのか。
怒る理由があるのは僕の方だろう。
僕は千春に何を言われようが、怒りに任せてそのままひとりで帰宅した。
アパート前の自動販売機で飲み物を買っていた先生と出くわした。
「お、小峰氏。今帰りかい?」
「先生こんばんは」
「もし良かったらなんだけど、カレー作りすぎちゃって、食べに来る?」
「え?良いんですか?是非!」
先生の部屋でカレーをご馳走になる。
以前もご馳走になった。
「先生の作ったカレー相変わらず凄い美味しいです」
「そう?ありがとう」
先生と晩御飯を一緒にするのは久々だった。
カレーを食べ終えた後は、そのままふたりで晩酌する。
僕は一度、自分の部屋に戻って買い溜めしていた酒缶を先生の部屋に持ってきた。
今夜はやけに酒が進む。
「小峰氏、結構飲むね~」
「先生、ちょっと聞いて下さいよ~」
僕は酔いに任せて千春とダニエルの件で愚痴を吐いていた。
「学生時代の部活の恩師とやらに目を輝かせちゃって、僕の目の前で連絡先まで交換しちゃって…酷いですよね!?」
僕はアサヒスーパードライ500mlの四缶目に手を出す。
既に僕はかなり出来上がっていた。
「小峰氏、そのへんにしといた方が良いのでは?」
「どうせ僕なんかより、あのダニエルって男の方が良いんです。楽団所属で何の楽器か分からないけど演奏できるし、長身でイケメンだし、眼が青いし、ドイツ人ってかっこいいし…」
缶ビールを口に流し込んで僕は続ける。
「明日、彼女と昼に新店のラーメン屋に行く約束してたんですけど、彼女はダニエルに誘われたランチに行くと思います。だから僕は明日は1日中、家で失恋ドラマでも見て過ごそうかなと思います」
「いや、ちゃんと彼女さんとの待ち合わせ場所に行ったほうがいいよ」
酒に酔った影響で睡魔に襲われる。
時刻は23時を回った。
遅くまで先生を付き合わせてしまい、申し訳ない。
しかし自分の部屋がすぐ隣なのにも関わらず、帰りたくなかった。
今は誰かと一緒にいたい。
「明日は日曜なので先生も休みですよね?」
「うんそうだけど」
「泊まっていいですか?」
「え、なんで?どうしたの?まぁ…別に構わないけど」
「ありが、とう、ございまっす」
僕は呂律が回らない。
先生は優しい。
いつだってそうだ。
いつの日か、恩返し出来たらいいのだが。
先生はクローゼットに仕舞ってあった掛け布団を引っ張り出してくれた。
先生はベッドで、僕はすぐ横の床で横になる。
「それじゃあ電気消すよ?おやすみ」
「おやすみなさい」
消灯後、睡魔があるのになかなか寝付けなかった。
酔っぱらって泥濘とする意識の中、頭に浮かんできたのは千春の顔。
お淑やかとは反対で、勝ち気で気性が強くて…。
おてんばで、ツンデレみたいなところがあって、たまにお茶目で気遣ってくれて…。
彼女は一体、僕の何なんだー!!
あー!!
恋ってなんだ!愛ってなんだー!
そもそも僕と付き合ったって、千春に何のメリットもないんだ。
卑屈で、卑怯で、自分勝手で、優柔不断で、打たれ弱くて、根性がなくて。
おまけに嫉妬深い。それが僕だ。
自己肯定感は低いくせに自尊心だけは高い。
こんな僕なんか、どうせ誰からも愛されないんだー!!
切ない。
どうしようもなく切ない感情に襲われる。
たまらなく寂しい。
僕は起き上がって先生のベッドに潜り込んだ。
「ちょ、ちょっと小峰氏!?」
「一緒に…寝たいです」
すぐ隣に横たわる先生。
先生の吐息も聞こえる距離。
先生は照れてしまったのか、僕に背中を向ける。
「先生の背中って、広いですね」
「ひぃい!!」
何だろう、何かに目覚めそうだ。
先生の背中に手を当てる。
温かい。
人差し指でなぞる。
肩の方から腰の方まで。
「うほっ!うほっ!あわああああ!」
「先生って敏感なんですね」
「何!?何なの!?小峰氏どうしちゃったの!?」
先生の背中に顔を埋める。柔らかくて気持ち良い。
安心したのか、そのまま意識が沈んでいった。
翌朝、目が覚めると僕はベッドで、先生は床で寝ていた。
カーテンの隙間から部屋に差し込む陽光。
そうだ。先生の部屋に泊まらせてもらったのだ。
先生が起きる。
「おはよう」
「おはようございます…」
気だるい。脳がクラクラする。二日酔いだ。
昨日の夜は先生に何か失礼な事をした気がするが、よく思い出せない。
「家近いのに泊めて頂いて、ありがとうございました」
先生に礼を言う。
「別にいいよ。それより以前、小峰氏に言ったこと、もう一度言うね」
先生が改まる。
「人は誰もが育った環境も性格も才能も違う別々の生き物なんだ。だから他人と比べたって意味ないさ。そのダニエルって人ともね。人生に優劣なんてない。小峰氏は小峰氏だよ。誰でもない特別なひとりなんだから、自分で自分を否定してはいけないよ?」
「…はい」
「自分に自信を持って。彼女さんと一緒に過ごした日々を信じて。今日は彼女さんとラーメン食べに行くんでしょ?ちゃんと約束した待ち合わせ場所に行きなよ?それが宿泊代金」
「…分かりました」
帰り際に玄関から出ていく時、僕はもう一度、先生に大きな声で礼を言った。
「先生、ありがとうございました!」
千春との待ち合わせ場所にやって来た。
近くにあったベンチに座り、千春を待つ。
約束の時間になっても千春は現れなかった。
やっぱり来なかった。
今頃はオシャレなフレンチレストランで、ダニエルとランチしているのだろう。
そう思いつつも僕はベンチで待ち続けた。
待ち合わせ時間から10分が過ぎる、20分が過ぎる。30分が過ぎた。
僕は俯いて目を閉じた。
これで分かったじゃないか。
僕は”選ばれない”のだ。
いつだって。
これからは一人で生きていこう。
…。
……。
「やっほー!」
「おーい!聞いてる!?」
顔を上げると目の前に千春がいた。
「あ…千春…」
「ごめんごめん!遅れちゃった。でもまだラーメン間に合うよね!」
「どうして来たの?」
「どうして来たって…どういうこと?」
「だってダニエルに誘われたんでしょ?」
「てゆーか、ライン送ったのに既読ついてないんだけど!ちゃんと見なさいよ!」
「ごめん」
「めんどくさい男ね」
千春が肩を竦める。
「あーあ、優雅なフレンチが次郎系ラーメンになっちゃった」
「ごめん」
「ダニエルには予定があって行けないって伝えたわ。それと私には嫉妬深い彼氏がいることもね」
「ごめん」
「あーあ、なんで慎志と付き合っちゃったのかしら。もったいないことしたわ!先にダニエルと再会していれば…」
「ごめん」
「冗談よ。何回ごめんって言うつもり?」
「もし千春が迷惑なら…別れても、いいよ?」
「はぁ?」
左右から両手で顔を押さえつけられる。
僕の顔は潰れそうだった。
千春は小柄で腕も細いのに、どこからこんな力が湧いてくるのか。
「慎志は私と別れたいわけ??」
「別れ…たい…」
千春と付き合うことになった当初、のめり込むような恋愛はしないなと、そう思っていた。
女性という生き物が本心で何を考えているのか全くわからなかったから。
かつて心の底から信じ切って、愛していた女性に裏切られたから。
だけど気付けば千春は僕にとって、世界で一番かけがえのない存在になっていた。
「別れたいわけ、ないじゃないか!」
千春の手を払った。
感情が溢れ出す。
「僕は千春のことが好きなんだから!!」
「…」
「…」
「だったらいつまでも拗らせないで!余計なことも言わないように!」
「…はい」
「まったく。ただね、今回みたいに不貞腐れた態度ばかり取ってたら、慎志のこと嫌いになるからね!」
「…わかった」
「もういいわ。それより時間押してる!早く二郎系ラーメン食べに行きましょ!?」
「あ、ラーメン屋の整理券、家に忘れた」
「しっかりしなさい!このポンコツ!」




