【第27話】ふたりの始まり
~主な登場人物~
【小峰慎志】(28)
物語の主人公。埼玉の所沢市にあるアパートに住んでいる青年。
就職したどの会社でも仕事が長続きせず、辞めては転職を繰り返す。
メンタルの弱さは自覚済みで、そんな自分を何とかしたいと日々悶々としている。
結婚を意識した女性に浮気され捨てられたり、海外放浪旅に出たり。
色々あったが、紆余曲折を経て新しい職場、株式会社マホロバ・ビルサービスに就職。
建物の維持管理を生業とする会社で、試行錯誤しながら日々働いている。
【細渕信彦】(35)
慎志が勤める会社マホロバ・ビルサービスの先輩社員。
設備部の巡回課の課長ポジションで、慎志の教育担当となり仕事を教える。
性格は穏やかで優しい。
【月原千春】(25)
埼玉の川越市にある一軒家に両親と住んでいる女性。
電車で通勤し、東京都内で働いている。
髪は短く身長は若干小柄だが、性格は男勝りなところがある。
電車の中で初めて会った慎志を痴漢呼ばわりして一悶着あったが誤解が解ける。
その後、慎志と同じラーメン好きなのが高じて、休日一緒にラーメン屋巡りをしている。
【団野団子】(25)
既婚者で東京の練馬区で旦那と娘と暮らしている。
電車で通勤し、東京都内で働いている。
慎志を痴漢だと言い張る千春の誤解を解いてくれた本人。
千春は学生時代からの友人で、性格は社交的。
錦糸町ビルで階層をフロア丸ごと借りていた居酒屋テナントが撤退した。
次に入るテナントは不動産関連のベンチャー企業だとオーナーから聞かされている。
スケルトン工事業者はオーナーが懇意にしている古い付き合いの業者で、管理会社の我々にも非常に礼儀正しく、騒音や搬出作業に人一倍気を使う良い人たちだった。
しかし次の入居工事業者がくせ者だった。
工程表を事前に出す決まりなのだが、連絡無しで墨出しするから鍵を開けろだの、ビルの図面よこせだの、いきなり現場にやって来た。
入居工事の作業工程表を催促するとオーナーに提出したというが、オーナーに確認するとまだ受け取っていないという。
嘘をつく業者は大抵ろくでもない。
こういう言い方はしたくないが、業者の人相は無愛想で、身なりもだらしない作業着の着こなしだった。わざとこちらを不快にさせているのかと疑ってしまうような態度に辟易した。
しかし相手が誰であれ、やることはやってもらわないと困る。
ビル管理会社としては入居工事の進捗把握や他テナントへの配慮もしなくちゃいけない。
業者に資材運びは搬出用エレベーターしか使わないでと周知徹底していたのに、僕やオーナーの目の届かないところで一般用エレベーターで大きな資材を運んでいた。しかも養生をせずにだ。
案の定、一般用エレベーター内の壁は傷だらけになっていた。
業者に注意するとやっていないと言い張り、揉めに揉めた。
こちらは毅然とした態度で業者が傷つけた証拠を揃えて責任者と話し合った末、ようやく相手が折れた。
再発防止の徹底と傷つけた部分の修復義務を業者に伝え、エレベーターの壁紙に使われているシートの型番を教えた。
するとあろうことか、100円ショップで売られているエレベーター壁面に似ている柄のシートを購入してきて、それを替わりに貼る始末だ。
もう開いた口が塞がらなかった。
オーナーと入居予定テナントにも、要注意業者として懸念を逐一話しておく。
それから入居工事業者を監視するつもりで頻繁に錦糸町ビルに立ち寄った。
ビルに常駐できれば一番なのだが、そういう現場ではない。
とにかく監視してるぞ!という印象を与えて釘を刺す。
ある日、入居工事現場を確認しているとフロアの奥にペットボトルの山があった。
中身が入っているので空のゴミというわけではなさそうだ。
「やけにお茶のペットボトルが転がってるな」
そう、最初はお茶だと思った。
しかしペットボトルは全てラベルが剥がされており、まさかと思った。
業者にトイレは指定した共用部のトイレを使ってくれと伝えてあるが、別階にあるので少し距離がある。
業者は面倒だからといってペットボトルにおしっこをしているのではないか?
キャップがついておらず、立てかけられたペットボトルがあったので、近づいてみる。
ほのかに漂うアンモニア臭。
ため息しかでない。
これも注意して、報告上げないとな。
問題ばかりの入居工事業者だが、ついに決定的な大騒ぎを起こしてしまう。
ある日、業者の様子を見に入居工事現場を訪れた時だった。
業者はパーテーションや支柱骨の加工作業をしており、粉塵がフロア全体に舞っている。
煙たいな、そう思い天井を見上げた瞬間、背筋が凍った。
天井に備えられた煙感知器。
火災が発生した際に煙を感知して、建物内に火災を知らせる為の消防設備だ。
その煙感知器が、養生も非連動操作もされていない状態で赤く点灯している。
まずい!!発報する!!
「ピィイイイイイイー!!」
時既に遅し。
館内に大音量の警報が鳴った。
その場にいた皆が何事かと作業を止め狼狽する。
フロアに響く地区音響。
しかしそれも束の間。
一台だけ反応していた煙感知器が、やがて複数台同時に反応する。
建物全体に警報が鳴る全館一斉鳴動。
「火事です!火事です!火災が発生しました!速やかに避難して下さい!」
警報も火災を断定とした真に迫ったアナウンスに切り替わった。
誰もがパニック状態だった。
僕も一瞬だけ頭が真っ白になったが、自分がこの場にいたのが幸いだったと即座に行動に移った。
すぐに管理室へいって警報を停止。
全館に誤報だったことをマイク放送する。
「こちら管理室です。只今の警報は誤報です。火事ではありません!」
それでも後の祭りだった。
テナントから苦情の電話が殺到した。
僕は謝り続けるしかなかった。
酷い目にあった。
だが、それ以来、入居工事業者は大人しくなった。
こちらの話にちゃんと耳を傾けるようになったのだ。
やはり人間というのは注意されるよりも痛い目にあった方が学ぶのだ。
それにしても大分、関係各所から怒られてしまった。
悪いのは業者であって僕ではない…と言いたいが、そうは言えないの立場だった。
業者と同じで僕も仕事のレベルが低かったのだ。
会社で錦糸町ビルの火報についての報告書を作成し、オーナーに送信する。
報告書というか、始末書みたいなものである。
「やぁ、大変だったね」
僕の肩を叩き、慰めてくれる細渕さん。
僕が既に関係各所で絞られたのを知っているのだろう、細渕さんから怒られることはなかった。
「細渕さんって仕事で元気でない時とか、へこんだ時ってどうしてます?」
「んーそうだな。外回りのついでに喫茶店とか入って、コーヒーでも飲んで一息つくかな。そして次の現場に行く前に半沢直樹のメインテーマを聞く」
「半沢直樹?」
「あれ知らない?世代じゃないのかな?池井戸氏の小説が原作のTBSテレビでやってたドラマ。2013年くらいかな?堺雅人が演じる銀行マンが悪事に立ち向かうやつ。とにかく爽快なんだよ」
「そうなんですか。面白そうですね」
「視聴率が記録的に高かったんだ。当時はみんなリアルタイムで見てたな。それで話を戻すけど、ドラマのメインテーマ曲がまた良いんだ。気が引き締まる」
ニコニコして語る細渕さん。
「そうだ、ドラマのDVD持ってるから小峰君に貸してあげるよ」
「ありがとうございます」
「暇な時にでも観てね」
ーーーーーーーーーー
「ってなわけで半沢直樹のドラマDVD貸してもらったんだけど、面白くて一気に見ちゃったよ」
「あの、倍返しだ!ってやつでしょ?」
月原さんは半沢直樹を知っていた。
月原さんとまたラーメン屋に来ていた。
今回は透き通るような色のスープが特徴的な淡麗系のラーメン。
脂肪分の少ない和風だしと塩がメインの、素材の風味を生かした洗練された味わい。
美味しい物を食べてる時が一番幸せだ。
「この前、仕事で大変だったんだよ。業者がさ〜」
僕は月原さんに錦糸町ビルでの火報の事を話した。
普段ズボラな態度の彼女だが、僕の愚痴を聞いて同情してくれた。
「災難だったわね、ドンマイよ!ドンマイ!!」
「本当だよ、もうやってらんないよ」
「じゃあ、憂さ晴らしにビールでも頼んじゃおっか?」
「え?昼間っから酒飲むの?」
「休日なんだからいいっしょ!!」
月原さんの提案でふたり一緒にビールを頼んだ。
「ぷっは!うまいわ~」
「月原さんって、おっさんみたいだよね」
なかなか出会ったことのないタイプの女性だとつくづく思う。
「おっさん!?どこが!!」
「その、ジョッキビールを一気に飲み干すようなところ」
「え?あ~、飲まなきゃやってられないのよ!私だって仕事で色々あるんだから!」
「月原さんは何の仕事してるんだっけ?」
「大学の事務よ。総務課で色々と雑用もやらされてるわけ。ちょっとさ〜、私の仕事の愚痴も聞いてよ〜!」
僕だけじゃない。みんな仕事で色々と不満が溜まっているのだ。
異性の月原千春さんと共有する時間。
男女の友情は成立しない、とネットやテレビで聞いたことがある。
でも人それぞれだと思った。
大学生の頃、同じ学部の女性友人と講義がよく被り、大学内で一緒に過ごすことが多かったが、恋愛感情は一切湧かなかった。
相手を好きになるのは、何かきっかけが必要なんだと思う。
実際、休日をラーメン屋巡りして一緒に過ごす月原さんに対して恋愛的な感情の意識はない。
そう、あの時までは。
ーーーーーーーーーー
「あれ、千春じゃない?」
「団子!」
ある休日の夕方、いつものように月原さんとラーメン屋で食事をした後の帰り。
商店街の一角で月原さんの友人と偶然出くわした。
あ、あの人は…。
「あの以前、痴漢と間違われた時は助けてくれてありがとうございました」
僕は開口一番にお礼を言っていた。
相手は僕が月原さんと初めて会った電車で痴漢呼ばわりされてしまった時に、誤解を解いてくれた恩人だった。
「ああ…あの時の人ね。名前は分からないけれど、また会うなんて」
「小峰慎志って言います」
「はじめまして…じゃないけど、自己紹介はしてなかったもんね。私は団野団子です。千春の元同級生です」
「ところで…」
団野さんがニンマリ笑う。
「千春と一緒だなんてどういうことかな~。はは~ん、あなたたち出来てたのね?」
「そんなんじゃないよ!彼ラーメン好きでさ。ほら、私もラーメン好きじゃん?だから彼と一緒にラーメン屋に行くのは都合が良いの。私一人じゃラーメン屋入りづらかったからさ」
月原さんが弁明するが、団野さんは苦しい言い訳として受け取ったようだ。
「へぇ~、でもふたりを見てるとなんだか彼氏彼女って雰囲気出てるよ?もう恋人同士で良いんじゃない?」
団野さんはからかうような笑顔を崩さない。
月原さんはすぐに言い返さず、妙な間を挟んでから納得するように言った。
「ふむ…まあ…いっか」
「えええ…」
僕は戸惑ってしまう。
そんなに適当でいいのか。
団野さんは幼児の女の子を連れていた。
可愛らしい目で僕と月原さんを交互に見ていた。
「娘の凛よ。ほら挨拶しなさい」
「こん、にち、わ」
女の子がたどたどしく挨拶する。
でもそれが愛らしい。
「凛ちゃん!久しぶり!私のこと覚えてる?ママの友達よ!前見た時よりだいぶ大きくなったね〜!」
そう言って月原さんは女の子と同じ目線まで屈んだ。
鼻息も荒い。
凛ちゃんを愛でるように、いや、舐め回すように見ている。
「月原さんって、子供好きなんだ」
「うん大好き!一時期は保育士になろうかと真剣に悩んだこともあったもん」
「ちょっと意外だな」
それからしばらく月原さんは団野さんと世間話を交わす。
凛ちゃんもふたりの様子を伺いながら、時折会話に入る。
僕はしばらくの間、蚊帳の外だった。
それでも退屈ではなかった。
月原さんと団野さんとその娘の凛ちゃん。
仲良く会話を弾ませて笑い合う姿は見ていて微笑ましかった。
「ごめんね、ついつい長話しちゃった」
「全然大丈夫だよ」
「それじゃあ彼氏の小峰さん、千春のことヨロシクね!」
手を繋いで帰る団野親子。
それを優しさと羨望の眼差しで見送る月原さん。
「ところでさっきの話だけど…」
「私たち、付き合ってるってことで良いんじゃない?」
月原さんは何も臆する事なく、よく通る声で言った。
「嫌?」
月原さんが僕に面と向かい、顔を覗き込んできた。
僕の目と月原さんの目が交差する。
僕は恥ずかしくなってしまい、月原さんを直視できなくなり横を向いた。
「いや、そんな…そんな適当でいいの?」
「何か不都合でも?」
「えっと、その、やっぱり気持ちって大事だと思う。月原さんは僕の事が好きなの?」
僕の発言は傲りだったかもしれない。
しばらくの間。
引かれてしまったか。
「う~ん、そうかもしれない」
小声でポツリと、月原さんは呟いた。
僕の耳には彼女の言葉がしっかり届いていた。
胸の奥で眠っていた温かい何か、その芽が出た感覚があった。
気づけばふたりとも、頬が紅い。
これは夕暮れのせいじゃない。
「小峰さんは私のこと好き?」
今度は月原さんが僕に聞いてきた。
照れ隠しできず紅潮して、返答に窮する。
僕って…ちょろいな…。
「う〜ん、どうなんだろう。展開がいきなり過ぎて良く分からないや」
「なによそれ!」
「ただ…いきなり月原さんのこと、意識しだしたかもしれない」
僕は直接的な言い分を控え、誤魔化した。
「…まあ、いいわ」
言葉に反して、月原さんの表情は清々しかった。
ふたり並んで帰路につく。
「ちなみにさ、月原さんってどんな男が好き?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「いや、だってさ、その…僕の彼女になったんでしょ?だったら彼氏として、彼女がどういう男性が好みなのか参考までに聞きたいじゃん」
「う~ん」
月原さんは悩みながらも答える。
「不貞腐れない人…かな」
そう答えた月原さんの横顔。
遠い目をしていて、少しだけ寂しそうな、乾いた笑みを浮かべていた。
過去に何かあったのだろうか。
「気持ちを切り替えられないで、ずっと不機嫌を引きずる人って、めんどくさいもん」
「そりゃそうだね」
「小峰さんは?どんな女性が好き?」
「僕?僕は…」
考える間、僕も遠い目になっていたと思う。
思い出すのは過去の恋愛。
深く傷ついた、悲しく切ない記憶。
「浮気しない人…が良いかな」
「なにそれ、当たり前じゃん」
間髪入れずにそうツッコミを入れる月原さんに、僕は黙って苦笑を浮かべることしか出来なかった。
かくして僕らは唐突ではあるが正式?に交際することになった。
人生って、いつどこで、どんな展開になるか本当に分からないものだ。
それが面白いのだろうけど。
それからはお互いに名前で呼び合うようになる。
ふたりのデートは今まで通り、ラーメン屋巡りが多かった。
それでも恋人同士となったので食事以外でも一緒に出かけた。
映画館で映画を見たり、ショッピングしたり、行楽地へ遊びに行ったりした。
交際の日々はあっという間に過ぎていった。
彼女が出来たのは嬉しいことだ。
本心からそう思っている。
ただ、どこかで嬉しい感情に距離を置こうとする自分がいた。
原因は過去の恋愛の傷跡、呪いのせいだと思った。
付き合っていた人に浮気され、挙句の果てに捨てられてしまった過去。
僕は女性という生き物が心の底で何を考えているのか、全く分からなかった。
だから千春に対して、のめり込むような恋愛をしようとは思わなかった。




