【第2話】モラトリアム再び
~登場人物~
【小峰慎志】
主人公、25歳独身。仕事が長続きせず職場を転々とする。
【山方哲也】
慎志の友人で同じアパートに住む25歳の青年。毒舌である。
【浅野純太郎】
最近、慎志たちのアパートに引っ越してきた28歳のIT系会社勤務の男。
優しく穏やかな性格で頼りがいもあることから、慎志と哲也から”先生”と呼ばれている。
あれから半年が過ぎた。
僕はまた仕事を辞めた。
飲食チェーン店の正社員として副店長のポジションで働いていたが、役職を失うことを勿体無いとは思わなかった。
人手不足で抜擢されただけなのだ。
待遇はそこまで上がらずに、やる事と責任だけ大幅に増えた。
仕事を辞めた理由は例に漏れず、労働環境と人間関係に疲弊して将来が見通せなかったからだ。
サービス残業の多さも、仕事を辞めた一因だ。
仕込み作業や雑務の数々、膨大なタスクがあって、定められた勤務時間では終わらない。
他店に応援に行った時も、社員はみんな退勤カードを切ってまた仕事に戻っていった。
荒波を立てたくないのか、誰もが異を唱えずにそれが当たり前のような雰囲気が出来上がっていた。
上司の店長は怒鳴るような人ではなかったが、ネチネチと常に嫌味を言ってくるタイプだった。
陰湿な人だと思っていた店長も、仕事での付き合いでなければ決して相性が悪い相手ではなかったと思う。
本部の人から詰められている姿を何度も目にしたし、いつも店にいて疲れた顔をしていた。
ぶつぶつと壁に向かって独り言を呟きながらパソコンで事務作業する姿が印象的だった。
背筋の曲がった店長の後ろ姿を見ながら、僕はああはなりたくないなと何度も思ったものだ。
そういや人手不足でその穴埋めの為に仕事に追われていた時。
客の吐いたゲロ掃除をしている僕を見て、あんな社会人にはなりたくないとバイトが陰口していたっけな。
あれはわざと僕に聞こえる声で言っていたのかな。
でも…僕が店長を見てああはなりなくないと思ったように、僕もバイトからああはなりたくないと思われていたわけだ。
パート従業員の管理も大変だった。
指示通りに動いてくれない者への扱いや、欠勤対応など。
やる気だけでも見せてくれればまだ許せるのだが、何を言っても面倒くさそうな態度の者は一定数いた。
部下を持つ上司の怒鳴りたくなる理由も、自分が指示する側の立場になってよく分かった。
厄介な従業員も、パートアルバイトという立場で責任の意識が弱かったのかもしれない。
しかし今考えてみれば、僕も彼らに求めすぎていた節がある。
僕自身だって何でも言われた通りに出来る有能な人間ではないのだから。
でも採用面接の時に人柄は全然問題なさそうに見えたのに、実際に働き出してから態度が豹変する者も結構いて驚いた。
かつて僕は仕事で、仲の良かった同期や優しかった上司が手のひらを返したように態度を急変させるのを目の当たりにして困惑した事が多々あった。
まったく…世の中は人間不信になりそうな事ばかりだ。
都内で最後の仕事を終え、電車で自宅のある最寄り駅まで帰ってきた。
いつものように閉店間際のスーパーで値引きされた総菜弁当と発泡酒を買う。
この時間では珍しくレジには長蛇の列が出来ており、会計待ちの客で混んでいた。
複数レジがあるのだが、稼働しているレジが一つしかない。
人手不足かな、そう思いつつ僕もレジに並んだ。
僕の前に並んでいる人が苛立って地団駄を踏んでいる。
気持ちは分かる。
仕事帰りで疲れているんだから、誰だって早く帰りたいのだ。
待たされた腹いせか、僕の前の人が会計を終えた際、店員に小言で暴言を吐いたのを耳にしてしまった。
接客業というのは報われない気がする。
経験を積んで慣れていったとしても、それなりの頻度で遭遇する横柄な振る舞いの客によって、せっかく培った仕事への自信とやりがいを崩されてしまう。
お客様は神様なんて時代ではない。
神様や王様扱いされたいなら黙ってもっと単価の高い店に行ってくれと飲食店で働いていて何度も思った。
さて、そんな僕も明日からは働いていた飲食店に行かなくていい。
これからどうしようか。
とりあえず離職票が会社から届いたらハローワークで失業の手続きをしよう。
雇用保険を納めていたので、失業手当をもらう条件は満たしている。
自己都合退社だから失業手当をもらうまでには待機期間がある。
失業手当の支給が開始されたら、支給期間の3か月の間、しっかり休養して羽を休めてもいい。
それとも早めに再就職して、早期就職手当を狙ってもいい。
どのみち遅かれ早かれ、また就職活動をするのか…面倒だな。
退職したというのに、手放しで喜べないのはそのせいなのだろう。
モヤモヤした感情だけが残っている。
転職を繰り返す度にこうだ。
仕事を辞めた解放感よりも、また続かなかったという自己嫌悪と転職活動をしなければならないという億劫な気持ちが強かった。
アパートまで帰ってくると、何やら言い争うような声が耳に入ってきた。
「だから契約できないって言ってるだろうが!しつこいな」
テツが玄関前で背広を着た男と言い合っている。
「ですからテレビがあればN○Kと放送受信料の支払い契約をしなければなりません」
「“契約”とは双方合意の下で取り交す約束事の意味だろ?個人の意志を無視して契約しなければならないってのは矛盾してるだろ!意味として破綻してるじゃねーか」
「これは放送法という法律で決まっていることです」
「テレビが普及した頃の大昔に定めた時代遅れの決め事のことか?」
「放送法に従い、テレビの受信料支払いの契約をするのは国民の義務です。訴えられてもしりませんよ?」
「今度は脅しか?そういう恐喝じみた発言は問題だな。だったら税金みたいに強制的に徴収してくれねーかな。なんで契約なんて手続きを踏ませようとするんだ?お前らの言う契約義務とやらを一方的に押し付けられても理解できねえよ」
「まぁ、仮に訴えられて罰金だと裁判で言われようが、俺は金を払わんがな。刑事罰則じゃねーし」
「はぁ…あなただけ払わないのは不公平でしょう」
「じゃあ例えばだが、周囲の人間が誰かをいじめていたとしたら、その理由や根拠を調べもせずにお前もいじめに参加するのかよ?」
「いじめと一緒にしないで下さい」
「こんな意味の分からない金の徴収なんて、いじめと変わらねーわ。契約しろだの金払えだの、お前らがまずやるべき事はN○Kの放送受信料契約について俺たち個人に制度の必要性を説いて納得してもらう事だろう?」
「ではもう一度説明します」
「俺は納得しない。だからサインも出来ないし契約もできない。テレビを持っているかどうかとか、受信設備の設置目的がどうとか、それ以前の問題だから。ってか、もういい加減帰れよ!扉開けてると部屋に蚊が入るんだよ!」
テツに気圧されたのか、背広の男はしょんぼりして帰っていく。
「ったく、あんなヤクザまがいの仕事して、情けねぇ野郎だよ」
「テツ、N○Kの放送受信料の契約してなかったんだ」
「お、慎志か。当たり前だろ、納得できないものに金払うわけねーじゃん。本当に徴収が必要なら契約っていう手続きなんか踏ませないで国が税金みたいにして強制的に徴収すればいいんだよ」
「そっか…」
「お前はN○Kと放送受信料の契約して金払ってるのかよ?」
「うんまぁ…事情は良くわからないけど、とりあえず契約義務だって言われたから、それが普通だと思ってた」
「お前は何も疑わず自分で考えずに受け身で生きてるのか?」
「え?」
「意思がないんだな」
意思が…ない?
「まあいいや、それより上がって行けよ、先生もいるぞ」
テツの部屋にお邪魔する。
僕は今日が飲食店勤務最終日だったことを伝えた。
「で、また仕事辞めてきたのか」
「うん、無職になったよ」
「何で辞めたんだい?」
「あ、先生こんばんは。仕事量多くてサービス残業ばかりだし、そのくせ待遇は悪くて責任だけが重い。上司も庇ってくれないし、横柄な客は多いし、将来が見通せなくて疲れてしまいました」
「相変わらずお前は忍耐力が無くて甘いな。なんの仕事したってそんなもんだから」
「働きやすい環境は自分で築いていくもんだ。求めてばかりのお前は駄目な奴の典型だ」
「そう言われちゃったらそれまでなんだけど…。どうせ僕は根性なしだよ」
相変わらずテツは辛辣だが、事実なのだろう。
僕がどれだけ仕事を辞めた理由を正当化しても、言い訳にしか聞こえないのだ。
仕事から逃げたという意識。
何をしてもうまくいかない、つまらない。
でもそれは面白くない現実があるのではなく、面白くないと思ってしまう僕の視点があるだけ。
「まぁまぁ、仕事の辛さは当の本人しか分からないんだから。外野がそう責め立てるのは厳しいんじゃないかな」
先生はそう言ってかばってくれた。
そうそう、この人は先生こと、浅野純太郎。
数か月前に僕の隣の部屋に引っ越してきた、僕やテツより三歳年上の人生の先輩だ。
ついこの間まで毎夜、喘ぎ声でうるさかった女性は何か事情があったのだろう、すぐに引っ越してくれた。
空き室となっていたところを代わりに先生が入居してきたのだ。
彼はIT系の仕事に務めているといい、すぐにトラブルに対応できるようにノートパソコンの入ったカバンを常に背負っている。
体系はふっくらしており、いつも額には汗が浮かんでいる少し変わった人だ。
何故、僕らに先生と呼ばれているのか。
それは僕にとって、高校時代の担任だった先生に似ているから。
そしてテツにとっては、中学時代の担任だった先生に似ているから。
そんな偶然の理由で、僕とテツは浅野さんを“先生”というあだ名で呼んでいる。
先生も、その呼び名を苦笑いしながらも快く承諾してくれた。
「それで、これからどうするんだい?」
「とりあえず休んで、英気が養われてからまた就職活動しようと思います」
「お前、ダメダメだね。そーいうのは、会社辞める前に溜め込んだ有給休暇を消化しながら就職活動して、空白の期間は作らないようにして転職するもんだ」
「まぁまぁ、もう過ぎたことだし。それぞれ事情も都合も異なるんだから。そうだ、もし良ければうちの働いている会社を小峰氏に紹介しようか?小峰氏はまだ若いし、未経験でも募集しているから」
「先生やめときなって!こいつ転職しまくりで辞め癖がついてますから。後になって先生の顔に泥塗りますよ?」
「でも今の時代、石の上にも3年という言葉も古いから。小峰氏は今までブラック企業ばかり当たっちゃって運が悪かったんだよ」
「先生、ありがとうございます。でも僕は最近思うんです。仕事でミスばかりで、何の仕事をやっても長続きしない。会社のせいじゃなくて、本当は僕自身が社会不適合者で欠陥のある人間だから駄目なんじゃないかって」
「その通り!」
「こら山方氏!そんなこと言っちゃ駄目だよ。小峰氏は自分を責めないで」
「そんな事無いでしょ?おい慎志、履歴書とかすごい事になってるだろ?」
「うん…実は履歴書の職歴欄がもういっぱいなんだよ。一つの会社に入社と退社で二行使うから、もう職歴欄だけで18行も使っちゃう」
「そんなの期間だけ書いて一行にすればいいよ。いや、勤務期間が数か月くらいの短いのは省略しても構わないよ。載せるのも社員歴だけで良い。」
「それで正社員歴も全て契約社員だった事にすればいい。全て契約満期終了による円満退社って形で」
「先生それは危険ですよ。厚生年金の支払い歴とか会社に提出する年金手帳の履歴とか調べられたらすぐばれますよ」
「大丈夫。そんなの調査する会社なんて一握りしかないから。とにかく、小峰氏は悲観的にならずに前向きに就職活動頑張ってね。応援してるから。待遇よりも仕事内容を見て続けられそうな職種を慎重に選んだら良いよ」
「はい!先生ありがとうございます」
「先生は優しいねぇ~」
自宅に戻って晩飯を済ませ、シャワーを浴びてきた。
さてと、歯を磨いて寝る準備をしよう。
布団を敷いて横になる。漠然とした不安に囚われた。
次の仕事はどうしようかな。年齢や転職回数で選べる選択肢も減ってくるだろう。
僕のやりたい仕事、僕に向いてる仕事は…。
…。
いや、結局ないものねだりを僕はしているのだ。
“天職”なんて、そんなものは幻想。
どんな仕事に就いても、自分が順応するしかない。
自分が職場に合わせて変わるしかないのだ。
どこの職場にだって理不尽なこともあるし、気難しい相手はいるのだ。
華やかさなんてまやかし。殆どが地道な作業の積み重ね。
でもとりあえず給料がどのくらいあれば良いのか考えてみよう。
・・・
・・
まず家賃が共益費込みで45000円。
電気代が東京電力で月、160kWで4000円。
ガス代が東京ガスで月、15㎥で3000円。
水道代が2ヶ月で15㎥で3500円。
携帯スマホ代が3500円。
食費が月に40000円。
消耗品雑費が月に10000円。
他にTVの受信料やアマゾンプライムで2000円。
家電の買い替えや賃貸更新費の積み立てとして5000円
通勤の交通費は次こそはしっかり支払われる会社に就職しよう。
保険には入ってないし、車も持っていないから…
収入は120000円くらいあれば良いはずだ。
これを手取りにする必要があるから月に150000円稼ぐのが最低ラインだ。
それ以上は貯金できる。
忘れてた。
それと大学の奨学金返済だ。
14400円…これが地味に痛い。
大学での経験を僕は社会に出て何も活かせていなかった。
ただ、大卒という学歴を手に入れただけ。
その学歴も今のご時世、貴重とは思えない。
一部の大手企業を除けば学歴なんて有利に働かない。
大切なのは学歴よりも、学生時代をどう有意義に過ごしたか、そして何が出来るかだ。
社会人に必要な事は学校の授業で習った知識でも教養でもなかった。
必要なのは我慢、忍耐、そして狡猾さだと思った。
~高校三年生の頃の回想~
「慎志、高校卒業後の進路はどう考えているの?」
「将来やりたい事が、まだ見つかってないんだ。だから就職や専門学校は考えてないよ。とりあえず仲の良い周りの友達が大学を希望してるから、僕も大学に進学を考えてる」
「慎志はどこの大学を志望してるの?」
「家から通える洋東大学とか、細亜細大学、文化大東大学とか考えてるよ」
「私立大学で受験科目が国公立より少ないんだ」
「そんな理由なの?学部の希望は?文系?理系?」
「数学や物理苦手だから文系に進学するよ。学部はまだ未定」
母がため息をつく。
何かを示唆するような深いため息だった。
「学費はどうするの?」
「えっと、あの、頑張って受験勉強して、希望の大学に合格して入学できたら出してくれる?」
「…」
「あなたの周りの友達には、学費を親が工面してくれる子もいるでしょう。でもうちは学費を払ってあげられない。経済的な理由もそうだけど、もう自分の事は自分で面倒をみなさい。私もお父さんも、高校卒業後はそうだったから。大学の受験費用や入学金、必要な物。そういった一時的なお金だけは出してあげる」
「学費はアルバイトをしなさい。勿論、それだけじゃ賄えないだろうから奨学金制度を利用しなさい。困ったら言いなさい。アルバイトばかりで学業に支障が出たら本末転倒だから。大学受験に合格して大学生になっても、4年間を遊んで過ごさないように」
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大学4年間の学費が4百万円ほど。毎月5〜6万円の奨学金を借りていた。
アルバイトして稼いだお金を生活費と学費に回していたけど、卒業時には奨学金返済という250万円強の借金を背負った。
毎月の定額返済に設定しているから、予定だと返済終了は37歳。
それだけの価値ある大学生活だったかどうか。
自分の経歴を否定したくないが、無駄に過ごした4年間だったのではないか、そう思う事がある。
目的意識もなく、淡々と過ごした。
内容なんて構わずに、単位の取りやすい講義ばかり選んでいた。
空いた時間はニコニコ動画ばかり見てた気がする。
結局、僕は大学で何を学んだというのか。
もっと有効な大学生活4年間の過ごし方があったんじゃないのか?
奨学金の意味、借金を背負う事をもっと自覚していれば良かった。
大学生活は楽しかったが、学んだ講義の内容も、もう忘れてしまったし、友人たちとも今となっては関わることもない。