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【第1話】プロローグ~気だるい日常~

挿絵(By みてみん)




仕事が嫌で嫌で、仕方がなかった。

でも働かないと生活費を稼げない。

生きていくにはどうしてもお金が必要だった。


社会人というのは、生活の大半の時間が労働で占められている。

だから仕事が苦痛なら、人生そのものが苦痛になるといっても過言ではない。

これから先、何年、何十年と働き続けなければならない。

そう思うと気が滅入るのだった。


都内で仕事を終えて、濁った東京の夜の下、人混みに揉まれながら帰路につく。

何故、周りの人たちは平然としていられるのだろう。

どの職場でも仕事が嫌になり長続きせず、悩んでいるのは僕だけなのだろうか。

行き交う人々をまるで遠くの景色でも眺めるようにして見送る。

誰もが自分よりはるかにうまく生きているようで、羨ましかった。

僕はいつだって自分の置かれた状況に不満を抱き、被害者意識を持っていた。

自分がうまく生きられないのは社会や環境のせいだと、己を正当化してきた。

そういった思考癖がすっかり定着してしまい、常に不満を抱え日常を楽しめない。

言い訳ばかりの人生だった。


僕の名前は小峰(こみね) 慎志(しんじ)

しがない社会人だ。

都内の飲食店で働いている。

今日は月末で、給料が振り込まれた。

額面から諸々差し引かれて、手取りは通勤の交通費を含めてなんとか20万を越えた。

今月は残業が50時間をゆうに越えているはずなのだが、事情によりサービス残業扱いだ。

東京で働いていて、この収入はどうなんだろう。

大学を卒業して新卒で働いていた頃と額は変わらない。

あれから3年経ってる。

年齢も25歳になった。

なんの進展もない3年間だった。


僕はこの3年の間に転職を8回も繰り返し、今の会社は9社目だ。

職歴は新卒で太陽光発電パネルの営業職からはじまり、それからウォーターサーバーの販売、通販のコールセンター、引っ越し業者…配送、警備、清掃、食品工場…。

そして今の飲食店勤務に至る。

前職の退職理由は様々だったが、大方は労働環境と人間関係が原因だった。

怒号が飛び交うピリピリした環境、破綻して意味をなさない労働時間。

どの現場も目に見えないルールが幾重にも張り巡らされ、必ず苦手な人がいた。

特に一社目は酷く、精神的に追い込まれ、朝起きてから出勤したくなくて吐いてしまう事もあった。

助けを求めて駆け込んだメンタルクリニックで医者から適応障害の診断を受けて、逃げるように退職した。

今思えばパワハラや労働環境の問題で上司や会社と戦うことができたかもしれない。

しかし当時の僕は精神的に参っていて、疲弊して思考が回らなかった。

早く仕事を止めたい、それしか頭になく、怯えながら自己都合退社した。

二社目以降はそこまで酷くなかったが、似たような感じで仕事を辞めた。

僕は自分が思っている以上に根性がなくて、メンタルも貧弱で、打たれ弱かった。


ネットで学生時代の友人のSNSを見ると心が痛む。

みんな新卒で就職した会社に留まり、順調に社会人生活を謳歌しているようだ。

給料も上がり、高額な賞与を貰って自慢する者や、役職に就いて出世する者もいた。

車や家をローンを組んで買ったり、結婚の報告をするかつての同級生たち。

みんな幸せそうだった。

僕だけが置いてきぼりをくらい、もう合わせる顔もない。

自分が惨めになるので、飲み会などの誘いも仕事を理由に断り続けた。

そうしたら遂に誰からも誘われなくなった。



自宅の最寄り駅、埼玉県の所沢駅まで帰って来た。

僕の住んでいるアパートまでは駅から徒歩10分といったところだ。

駅前にある閉店間際のスーパーで、売れ残って半額シールの貼られた総菜弁当を買う。

百円ほどの発泡酒も晩飯のお供として買った。

疲れて夕飯を作る気になれないのはいつもの事だ。


自宅のアパートまで帰って来た。

二階建てのアパート“所沢ヒルズグランドコーポ”。

立派な名前だけど、築年数も随分経って老朽化が目立つ外観を鑑みるに、どう考えても名前負けしてるんだよなぁ。

うちのアパートは1階と2階に3部屋ずつの計6部屋からなり、部屋ごとに間取りが違う珍しい構造をしていた。

僕の借りている部屋は六畳一間のワンルームで家賃は月額42000円、共益費が3000円だ。

もうすぐ二年毎の更新費が迫っているが、引っ越しは考えていない。

僕の部屋は2階の中央に位置し、その真下の1階の部屋は…。

窓を見ると電気が点いている。

よし、“彼”はまだ起きてるな。部屋にお邪魔するとしよう。



「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」

僕の仕事の愚痴を一通り聞いた彼は、そう言い放った。

彼の名前は山方(やまがた) 哲也(てつや)といい、僕はテツと呼んでいる。

同じアパートの住人であり偶然にも年齢が一緒で、何回か挨拶するうちに仲良くなった。

そしてここは彼の部屋。

一緒に食事をしたい時や、話し相手が欲しい時など、お互いに部屋を訪れるのだ。

「そのセリフ、どこかで聞いたことある。何の受け売り?」

「村上春樹のノルウェイの森だよ」

村上春樹…大学生の頃は好んでよく読んでいた。

羊を巡る冒険や世界の終わりとハードボイルド、浜辺のカフカ、風の歌を聴け…など。

しかし今となっては一冊でもどんな話だったか思い出すことが出来ない。

社会人になってから学生の頃の記憶が急速に失われていく感覚があった。

忙しさを理由に、最近は本を読もうという気力すら湧かない。

「誰も僕の気持ちなんて分かってくれないから、自分で同情してあげるしかないんだ」

「お前、自分が可愛いんだな」

「え?」

「自分で可哀想な奴を演じて、被害者意識に囚われている。思い通りにいかないのを自分のせいに出来ないのは自己中でプライドが高い証拠だぜ」

「そ、そんなことないよ!」

「とにかくだ。いつまでもウジウジ悩んで、お前は暇なのか?目の前の今に集中して生きてたらそんな余裕なんて無いはずだが。あーだこーだ言ってないで、現状の不満が解消しないなら、切り替えてまた転職すればいいだけの話だろ?」

テツには僕の職歴など全て話している。

テツは口が悪くネチネチしている面もあるが、少し前まではもっと親身に話を聞いてくれたのに。

でも彼のような隣人がいるだけ僕はまだ恵まれているのかもしれない。


自分の部屋に帰宅し、シャワーを浴びてきた。

時刻は午前零時前、ちょうど日付が変わろうとしていた。

明日仕事行きたくないな…。

憂鬱な気持ちでため息をついてから布団を敷いて横になり、スマホを見る。

寝る前のボーっとした時間にスマホをダラダラと見てしまう。

そんな事してないで、さっさと寝れば良いのに。

SNS、他人のことなんてどうでもいいのに、つい見てしまうのだ。

幸せな人を見ると萎える。

でも逆に不幸自慢を見せられても萎えてしまう。

「…」

「お…この人、叩かれている。わっはっは…」

「…」

「…はぁ」

再びため息をつく。

自分の卑しさに嫌悪する。

僕は自分より薄幸な人を見つけて安心したいだけなのかもしれない。

他人の人生ばかり見て、自分の人生に向き合っていない。

日付が変わっていた。もう寝よう。

………。

……。

…。

「ァッ…ァ、アンッ…」

なに!?なに!?

隣の部屋から女性の喘ぎ声が聞こえてくる。

そういやつい最近、隣の部屋に若い女性が引っ越してきた。

玄関前ですれ違って挨拶された時は堅実そうな女性だなと思ったが。

これは…やってるな。

くそぅ…彼氏を家に連れ込んで、なんとうらやま…けしからん!

テツの部屋からは聞こえないだろうな。

参った…気になって眠れない。

布団から這い出て、喘ぎ声の聞こえてくる壁に耳を当てる。

盗見ならぬ盗み聞きだが、悪いのは隣のカップルだ。

こんな防音性能の乏しいアパートで構わず声をあげて致してるんだから。

「ァッ!ァ、アンッ!」

なんだろう⋯この猛烈な屈辱感は。

喘ぎ声を聞いていると悔しいが興奮してくる。

あ~!こっちまでムラムラしてきた〜!

致すか!?自分で致すか!?

いや、それだと何だか負けを認めたようで癪に障る。

僕は湧き上がった性欲を筋トレで発散することにした。

とりあえず腹筋から始めるか。

「いっちに、さんし…」


しばらくして隣から何も聞こえなくなった。

耳を澄ましても静寂しか返ってこない。

どうやら行為が終了したみたいだ。

こちらも筋トレを終えることにしよう。

結局、腕立て、腹筋、背筋を30回3セットもしてしまった。

上着を捲し上げ、鏡の前で腹筋を見る。

少し割れてきただろうか。

乳首に一本長い毛が生えていた。

引っこ抜く。

「痛っ!」

痛みで冷静になった。

何をしてんだろうな僕は。

さっさと寝よう。


物言わぬ静かな部屋で孤独を感じる。

狭いな、そう思った。

部屋じゃなくて僕の生きる世界がだ。

ではどうすれば世界が広がるというのか。

同じことをしていたら同じことしか起こらない。

何も変わらない。

でも何か変えようという気力も湧いてこない。

結局、僕はどこにもたどり着けないのだ。

有名になりたいとか、大金持ちになりたいとか、そんな夢があるわけじゃない。

でも子供の頃は将来、何にだってなれると信じていた。

デタラメな自信と全能感があったのだ。

それが今じゃこのザマだ。

淡々と”人並み”に生きられればそれでいい。

では”人並み”とはどのような基準を言うのか。

…分からない。

僕はどう生きたいのだろう。

僕の人生はこのままで良いのかな。

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