花怜の日常
澄んだ空気に満ちた蒼天の朝である。N国S県、T市。駅からほど近い場所に建てられたシックなマンションの一室にて、合歓垣花怜は朝食をとっていた。ダイニングテーブルの椅子にかけ、のろのろとパンを頬張る。寝ぼけ眼の花怜に、廊下から花怜の母である瑤子が話しかけた。
「じゃあ花怜。ママ先行くね」
「んー……」
瑤子は大げさに肩をすくめたが、花怜はパンを見つめたままだ。
「もうしっかりしてよ? 電車寝過ごして遅刻とかしないでね?」
「しないよお……」
目をシパシパさせながら答える娘に瑤子はため息をつく。
「常習犯だから言ってるの。どこでもすーぐ寝ちゃうんだから」
「今はそんなにないもん……」
もう一度ため息を残し、瑤子は玄関へと消えていった。靴を履きながら少しだけ大きな声で告げる。
「はいはい。気を付けてね。行ってきます」
「いってらっしゃーい……」
花怜はゆっくりとパンを咀嚼した。
数十分後、支度を整えた花怜はU駅に向かう電車の中にいた。座席に座り、静かに眠っている。電子パネルでは外国人シンガーの車内広告映像が流れていた。『初来日決定。全米チャートを席巻するアーティスト……』。花怜の意識の外で、文字が表示されては消えていった。
駅から少し離れた地域に花怜の職場はある。いくつかの倉庫が立ち並ぶうちの一つだった。数棟ある倉庫の脇のドアに「羽馬楠倉庫」と書かれている。花怜はこの羽馬楠倉庫の事務室に派遣社員として雇われている。24歳の頃に入社してから更新を続け、3年間勤めていた。
デスクがいくつか並べられた小さな事務室の隅の席で花怜はキーボードをたたいている。1日の入出庫に関わるデータ入力だ。慣れてしまえば簡単だった。不良品の受け渡し等のために一日数回倉庫へと出向かなければならなかったが、単調な作業の眠気覚ましになって丁度良かった。不便な立地の上ボーナスの出ない派遣業務だったが、上司も同僚も皆適度な距離感を保っていて心地よいと、そう感じていた。
花怜は小さくあくびをし、壁に掛けられた時計を見る。時計は丁度12時を指していた。花怜は座ったまま大きく伸びをする。その日花怜は午後休を取っていた。古い友人と出かける予定だったのだが、昨日のうちに体調不良を伝えるメッセージが届いていた。
花怜はデスク周りを片付けると同僚たちに挨拶しつつ事務室を出ていく。幸いにして花怜は何もない休日に不幸を感じるタイプではなかったし、マンガやライトノベルを読もうか、それとも映画でも見ようかとぼんやりと考えていただけだった。
ドラマティックではないが、不幸でもなかった。多くは稼げないがそこそこの収入があり、趣味もある。結婚については興味がなかった。今まで一度も彼氏というものがいたことがなかったが、女子校の在籍が長かったこともあり気にならなかった。そもそも花怜は他人に恋愛感情を抱いたことがない。だが別にそれでよいと花怜は思っていた。時流も花怜の考えを後押ししてくれたし、花怜の両親も特に結婚をせかすようなことはしなかった。
そんなこんなで花怜は今日ものんびりと生きている。