特別編:長野の余韻と、事務所の朝
■Scene1:静かな朝、釜山の空
翌朝。釜山はいつもと変わらぬ穏やかな空気に包まれていた。
カーテン越しに差し込む陽射しで目を覚ました私は、
ゆっくりとベッドから体を起こし、久しぶりの“仕事のない朝”を感じていた。
(事件がない朝って、こんなに静かだったっけ)
テーブルの上には、昨晩配っておいた長野のお土産の箱が一つだけ残っていた。
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■Scene2:母とキッチン、女優と母親の時間
キッチンでは母・梵夜がエプロン姿で朝食を用意していた。
私はスリッパを履いて、隣に立つ。
「お母さん、それ……?」
「信州そばよ。お出汁、少し工夫してみたの。
あなたの“旅の味”、家でも楽しめるようにね」
私は笑ってうなずいた。
「ねぇお母さん。私、あの景色――平沢峠の八ヶ岳とか、滑り台の下の遺体とか……忘れられないかも」
「忘れなくていいの。
覚えてることが、あなたの“優しさ”になるんだから」
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■Scene3:事務所の玄関、早くも届く手紙
食後、事務所へ立ち寄ると、ポストに封筒が数通。
・長野県・内藤刑事からの「ありがとう」の一筆
・竜岡城の滑り台近くの保育士さんからの“子供たちの絵”
・観光地で出会ったファンからの「また来てね」カード
どれも温かく、優しくて、私は少しだけ目頭が熱くなった。
(……誰かの記憶に、ちゃんと残ってるんだ)
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■Scene4:秘書・ジウンとの静かな仕事始め
デスクに戻ると、秘書のジウンが既にスタンバイしていた。
「今日のスケジュールは、ドラマのリハーサルと、雑誌の撮影準備です」
「探偵業は?」
「当面、依頼は保留中です。……ただし、SNSでは“再開おめでとう”が1万件以上」
私たちは顔を見合わせて、笑った。
「世界は、意外と見てるんだなあ」
「それは、“あなたが動けば何かが起きる”って信じられてる証拠ですよ」
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■Scene5:兄と姉、ふとした昼の会話
昼食を終えた頃、兄・泰亨と姉・信恵が戻ってきた。
「姉貴、長野でめっちゃチーズ食ったでしょ。
帰ってきたら、冷蔵庫がとんでもないことになってた」
「だって、清水牧場のは本当に美味しかったのよ!」
「……それにしても凛奈。今後の予定は?」
私は少しだけ考えた後、口を開いた。
「たぶん、また誰かが困ったら、動くと思う。
その時は――“私”が、“キムチと一緒に”」
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■Scene6:夜の静けさ、光を灯して
夜。
一日の終わり、事務所の屋上に立ち、空を見上げた。
満点の星。野辺山の電波観測所の空を思い出す。
(小さくなっても、キムチさえあれば)
私はそう呟き、胸ポケットに小さなパックを入れた。
「凛奈、夜風冷たいよー」と姉の声。
私は笑ってうなずいた。
探偵と女優――
どちらの顔も、今日の私にはちょうどいい。
(でも……たぶん、また何かが動き始めてる)
そのとき、ポケットのスマホが小さく震えた。
画面には見慣れない発信元。
韓国・釜山中心街の、ある芸能関係者からだった。
エピローグ:静寂に、微かな波紋
長野の風はもう届かない。
でも、あの星空で交わした約束は、胸の奥に灯っている。
静かな朝を終えた少女探偵に――
新たな“ざわめき”が、そっと忍び寄っていた。




