天の川のコーヒーゼリー
天登はまず、ワークトップの上で炎を上げているアルコールランプを消火した。
足元には尻もちをついているほなさんと、その横にサイフォンがひとつ、フラスコもロートも無惨に割れていた。
「火傷ですか?」
蛇口の水を出しながらほなさんに訊いた。首を横に振ったので蛇口は閉めて、傍らにあったパイプ椅子に座らせる。
「怪我は?」
返ってきた答えはとんちんかんだった。
「ひいおじいちゃんのサイフォン割っちゃった……」
ほなさんの顔色は至って普通で手からの流血もない。
サイフォンを割ったことが一番ショックなようだ。
天登は流しの横に置いてあったゴム手袋を借り、サイフォンのスタンドだけは流しに拾い上げ、後のガラスは新品のゴミ袋に雑誌を入れその中に拾い集めた。
キッチン側からおばさんが出てきて、「ほなみ、大丈夫か?」と声をかけた。そして、怪訝な顔で天登を見ると、
「あれ、まあ、すまんこってす、お客様にこんだことしてもらってにゃあ」
と頭を下げた。
天登は急に恥ずかしくなって、「いえ、バイトでいつもしていることなので、ケガなくてよかったです」と言って席に戻ることにした。
本屋の店長さんも上がってきた。
「大丈夫か、倒れたんか? 下と代わるか?」
ほなさん、ほなみさんは「ごめん、ちょっと失敗した。サイフォン割っちゃった」とうなだれた。
「みぃーこが大丈夫ならいいよ、物は壊れるんだから」
店長さんは眼鏡の奥でニコッと笑ってから安心したように下に降りていった。
(みぃーこ? 今店長さんみぃーこって呼んだ? でもお姑さんは「ほなみ」って……)
天登は混乱したが、元気を取り戻したほなさんは客席側に出てきて、
「失敗しちゃいました、驚かせてごめんなさい。ご注文の品少々遅れますがお許しください」
と頭を下げた。
一旦キッチンに入り誰かの軽食を持って出てきたかと思ったら、ほなさんは天登の横で止まった。
「助けてくださってありがとうございます。ご注文の品、遅れてしまいますので申し訳ないですがこれを食べていてください」
「え? これって、コーヒーゼリー?」
「はい、お店からのサービスです」
背の低い口広のマティーニグラスに漆黒の闇のようなゼリーが凝っている。
今時のゼリーにしてはシンプルな装飾。ムースもクリームものっていない。
その分、表面は渋い光沢を湛え、その真ん中辺りに、時計の文字盤の1時から7時の方向へと、キャスターシュガーが白い流れを作っていた。
その上にケーキの飾りに使う星型が3つ、不等辺三角形にあしらわれている。白い流れの上に黄色い星。向かって右にピンク、少し下がって左に青。
天登は自分には可愛すぎるなと思いながらスプーンを刺そうとしたら、接客に忙しいはずのほなさんが後ろから、「お砂糖部分にミルクを垂らして伸ばして食べてみてください」と声をかけた。
ブラックばかりでなく、ラテやコーヒー牛乳でも好きな天登は言われるままにミルクをかけてみた。
味はさすがに美味しかった。ここのカフェの基本のブレンドコーヒーに、少し洋酒が入っている。砂糖の甘さも飛びぬけないで大人味。
ガタン。
次の瞬間、天登はカウンター席の椅子を荒々しく引いて立ち上がっていた。
振り向いてゆっくりとほなさんと目を合わせる。
客席の合間に居たほなさんは、丸いトレーを抱きしめ、判決を待つ被告人のような顔をしていた。
「ごめんなさい、注文、キャンセルしてください……、失礼します」
天登は会釈をして足早に階段を下り、本屋を出て、裏に伸びる田んぼのあぜ道に向かった。
泣きそうだったからだ。
突然すべてがクリアになった。
ゼリーの上の不等辺三角形、見たことがあると思った位置関係。
キャスターシュガーが作る、キラキラもやもやの中に光る大きな星は、白鳥座のデネブだ。そして右が織姫、左が彦星。
自分が垂らしたミルクの跡は、名前のとおり、ミルキーウェイ。
あれはあの日見た天の川。
ほなさんがみいちゃんであり、みぃーこちゃんだ。
本屋の店長があの時呼びに来たお父さん。
ほなみという名前でどうして「みぃーこ」なんて愛称つけたか知らないが、みいちゃんに間違いない。
(そして同時にオレは大失恋。そう、みいちゃんへの恋だけじゃない。いつのまにかほなさんにも惹かれていた。若奥さんでも気になってしかたない。その想いすべてが、失恋なんだ……)
天登はふらふら歩いて用水路の水位調節小屋で立ち止まった。
左手、用水路沿いをまっすぐ進めば、自分が書いた「みいちゃん!」という黄色い文字に出会ってしまう。
(恥ずかしい、情けない、目も当てられない……)
小屋の壁に腕をついて顔を隠したら、天登の躰全体が小刻みに震えていた。
(今まで振ってきた女の子たちに呪われたかな……みんな、辛かったんだろうな……)
(ばあちゃんと話して、あの字を消して、今日の電車で東京へ帰ろう、そしてケー番変えて、それで、大丈夫、それで、いい……)
「有田くん! どこ? 有田くん、有田天登くん!!」
ほなさんの声が天登の耳に届いた。追いかけてきたらしい。
(男らしくしなくちゃ、最後くらい、しっかり。オレはみいちゃんを探してた。ほなさんだとわかった。小4の夏休みのあの日、みいちゃんに会えて嬉しかった。蛍をみせてくれてありがとう。どうかご主人様とお幸せに……)
うっすらと滲んでいた涙を手の甲で拭って、天登はほなみさんの声がするほうに向いた。