人生一度の大落書き
神社から早めにばあちゃんちに帰って、天登はまず自転車でホームセンターへ行った。
買ったのは、水性のペイントスプレー黄色と強力落書き落としスプレー。
アクリルスプレー、ラッカースプレーといろいろ並ぶ中、天登としては消しやすいものがよかったので、近くで品出しをしていた若い店員さんに尋ねた。
脱色し過ぎて傷んだ髪のような茶髪を無造作に一つにくくったその女性は、
「なんで色落ちるほうがええん? とれんほうがよくね?」
と言いながら、水性のほうを薦めてくれた。
「3日保てばいいんです。4日めには消したい」
そう、4日後の夕方、天登はまた寝台特急に乗って東京に帰る予定なのだから。
ホームセンターのある県道からばあちゃんちへの帰り道。
田んぼの中の一本道の舗装道路はあの用水路と交叉する。
みいちゃんと出会った十字。天登の心から離れてくれない十字架だ。
キキッとブレーキを軋ませてばあちゃんのママチャリは用水路の岸に停車した。
天登はみいちゃんが来た方向、下流側からコンクリート製の橋を見下ろす。右手には黄色のスプレー缶。攪拌のために上下に振りながらカラコロカラコロと鳴らしている。
パコっと蓋を開けてシュッと橋のたもとに噴いてみた。
「よし」
そして、縁結びの神社で何かを決意してきたこの高校生は、おもむろに橋の上にでかでかと、「みいちゃん!」と書いたのだ。
ちょっと噴きつけ過ぎて小さい「ゃ」が潰れたけれど、大した問題じゃない。
その後のほうが大問題だ。
天登は橋からばあちゃんちに続くアスファルトの道路上に、090から始まる自分のケー番を、空からでも見えるほど大きく、書き連ねたのだった。
「バカか、おまえ。個人情報だろっ!」
悪友たちの声が天登の耳に聞こえてくる。
誰からどんなイタズラ電話が入るかわかったもんじゃない。悪用されるかもしれない。
みいちゃんなんて近くにいそうもない。みいちゃんの祖父母が見たとしても、孫娘に伝言してくれるとも思えない。
それでも、書いてしまったのだ。
かかってくる電話は、十割がた、器物損壊罪を問う警察からだろうに。
[良い子の皆さんは真似をしてはいけません!!]
ペイントスプレーと落書き落としスプレーを庭の物置に入れてから、天登はまた自転車を駆った。
行く先はカフェ。
一本道は通らずに、数日前、窓や戸口を閉められた集落の間の道を縫って疾走する。弓なりに曲がって県道に出て、左にちょっと行けばもう本屋だ。
異常に喉が渇いた。天登は品行方正で通っている。不良の真似事をしたこともない。
つるんで悪さする暇があったら、家事やらバイトやらしていたほうが自分の生活を楽にすると早くから悟ってしまっていたから。
季節的に早い気がしたが、アイスコーヒーを頼んだ。
ストローで一口飲んで、アイス専用に酸味がきつくないブレンドにしているようだと天登の頭の片隅には浮かんだが、「悪いことをしてきた」というドキドキは酷くなるばかり。
カフェインを摂取すれば落ち着きようもないだろうが、炭酸飲料を胃に流し込みたい気分でもない。
いつものおねえさんはカウンターの中で他の客のカプチーノを作っていた。
セミロングのさらっとした髪に薄化粧。高い頬骨の横顔に片えくぼ、天登には口紅の色の名なんてわからないが、淡く塗られたしっとり感に目を惹かれる。
口に残った甘みを消すためにブラックをもう一杯もらおうかと天登が悩むうちに、キッチンになっているらしい奥から、最初の頃見かけたおばさんがクラブサンドの盛り付けを持って出てきた。
「ありがとう、おかあさん」
おねえさんが発音した。それを聞いた瞬間に「お義母さん」と漢字が浮かんだ。
(あの若奥さんだ!)
じいちゃんのお葬式に手伝いに来てくれていたお姑さんと若奥さんなんだと、天登は気がついた。
カプチーノとクラブサンドを、営業マンらしき人に給仕してからおねえさんがカウンターに戻ってくる。
目が合ったので、ほとんど自分の気を紛らわせるために、天登は話しかけた。
「僕の祖父のお葬式に、手伝いに来てくださってましたよね」
「え? ここらお葬式多いからどれだろう? もしかして、2年くらい前? 本藤のおじいさん?」
「あ、はい」
「本藤さんのお孫さんなんだあ……」
しみじみと言われてしまったけれど、天登はどうとも返しようがなくて会話は終わってしまった。
そこへカツカツいう硬めの足音がしてローヒールを履いたおねえさんとその後をスニーカー履きのホームセンターの茶髪娘が入ってきた。
「「ほな~、いつものぉ」」
「はいはい」
3人は歳が近いのだろう、仲良しっぽい。天登から2席離れたカウンターに並んで座った。
ローヒールのおねえさんはバッチリ化粧もして、おそらく、カーディーラー勤め。
ふたりの「いつもの」はちぐはぐで、サイフォンがコロンビア系のいい香りをくゆらせている間に、若奥さんは大きなコーヒーマシンから出てきたココアにチョコパウダーをかけた。
「お待たせにゃあ!」
「「「ぶっ」」」
困ったことに天登までシンクロして吹き出してしまっていた。
茶髪さんはカウンターをバンバン叩きながら笑い、「いい加減こっちの言葉覚えてや!」としかめっ面をしてまた笑う。
ローヒールさんは「ほなちゃん、何でもにゃあがつくわけじゃないって」と肩を震わせて笑っている。
天登と言えば、カウンターに隠れるところで腹を押さえて俯き、必死で笑いをこらえていた。
「ほな」っていうのは若奥さんの名前らしいと思いながら。