水位調節小屋とばあちゃんの便箋
自分の足で歩いてみると、地図で見た感覚より近いところに用水路の水位調節の小屋が現れた。
確かに見覚えがある。あの夏休み、朝になってここまでは、探しに来たんだった。
天登が小4の夏休みだった。あの十字のところで、「みいちゃん」と自称する女の子に出会った。一緒に蛍を眺めて、そして、彼女は水路に沿って迎えに来たお父さんとこっちの方向に去っていったんだ。
共に過ごした時間は5分もない。でも「みいちゃん」には、他の女子が目に入らなくなるという呪いをかけられた。恋という名のやっかいな呪い。
あの時掴まれた腕を今でもじっと見つめてしまうほどに。
「このままじゃ、何人女の子泣かさなきゃいけないか、わかったもんじゃない」
天登は、この場所に来て、もう会えない相手だとただただ納得したかった。みいちゃんは探し出せやしないんだと。
悪友たちには「嫁取り」だなんて言ったが、彼女が地元の子なのかあの夏里帰りしていたのかもわからない。自分を憶えているとも思えない。
心に棲んでしまったみいちゃんを追い出して、諦めて吹っ切る。
それがこの春休みの天登の目標。
それでも心の片隅に、「もう一度だけ会いたい」という思いがくすぶる。
水位調節小屋の角で水路は直角に南行し、先でまた東に曲がる。
「どっちから来たんだよっ?」
用水路を離れあぜ道を南に進むと田んぼが切れたところで県道に出る。道沿いにはスーパー、コンビニ、本屋、カーディーラー、ホームセンターなどが並ぶ。
用水路に沿ってもっと東に歩くとまた田んぼだが、その先は民家で、弓なりになった道を左に折れ歩き続ければ、泊まりにきた本藤家、祖母の家に帰り着くことができる。
「いいんだ、この春休みで終わりなんだから。もう諦める。天の川の精だと思えばいい。自分の名前のせいでちょっと運命みたいに思っただけ」
(髪がサラサラだったのは憶えていても、顔がどうだったかなんてわからない。可愛かったと思ってるだけ。美化してるだけ)
天登は用水路沿いに東の集落に出て、祖母・本藤キエの家へとぶらりと歩いた。
終業式があった昨日の晩に、横浜駅から寝台特急に乗った。
もちろん「ノビノビ座席」という寝台券の要らない一番安い席だ。だが思ったよりゆったりで、自分の身長でも丸まれば横になって眠ることができた。
天登は今朝10時、駅に迎えにきていたばあちゃんを見て驚いた。ずいぶん小さくなっていたのだ。
ばあちゃんには2年前、じいちゃんの葬式で会っているのに。先月60歳になったばかりのはずだ。まだ十分若い。
うちも叔父さん一家も東京で、ばあちゃんに独り暮らしさせているのが後ろめたい気がした。
ばあちゃんが縮んだのは、この2年で自分の背が急激に伸びたせいだと思いたい。
天登の母親・有田ちず子は東京郊外の大手スーパーの店長で、仕事はやり手だが、日常生活はボロボロだ。その分天登の家事スキルは格段に高いわけだが、17歳の息子にまで構ってはいられない。
天登が「金はある、ばあちゃんには電話で話をつけた」というと、「わかった。おばあちゃん元気づけてあげて」と返ってきた。
「自分の母親だろ、たまには孝行しろよ」
「だからアンタを派遣するのよ。できない娘よりできる孫のほうが嬉しいって」
とお気楽。
とりとめのない回想をしながら家に帰ると、ばあちゃんは台所にいた。作ってくれた昼飯の洗い物ならもう済んでる時間なのに。
「タカ、あんた夕食何食べたい? いつも一人じゃし、採れた野菜ばっかり食べちょうよ。高校生は肉がええか?」
「あ、オレ、作るわ」
「ウソやろ、ちず子の息子が料理できるんか?」
ばあちゃんがニヤニヤ笑う。
「あの人の息子だからできるんだって。ばあちゃん、食べれんものある? まずは親子丼とかどう?」
「ええねぇ、そりゃ楽しみや」
「じゃ、自転車貸して。スーパーまで行ってくるし」
「でもあんた、他にしたいことがあるんじゃないね? 観光とか冒険とか」
「別に……」
「ちょっとこっち来ぃ」
ばあちゃんは卓袱台に移動してお茶を淹れ、飲みもせずに水屋の引き出しから便箋を数枚取り出した。
「先月あちこちのご近所さんから還暦のお祝いもらったんよ。でもあんたが来る言うたからお返しまだ配ってなくてね、頼まれてくれんね?」
「ご近所回り? オレこっちの言葉はわからんって」
ばあちゃんは天登の発言をスルーして、下のほうの古そうな便箋を引っ張り出す。
「でこっちに、わかる限りの孫の名前を書いてみた」
「は? 孫?」
「農協やら婦人会やらで会う人会う人に、うちは孫は男ぼうずだけで、孫娘がほしかったにゃあって言うて回った」
「にゃあってばあちゃん……」
「こっちの方言やから真似するしかなかろ? ウチは元々広島じゃけぇ」
天登はぶっと吹き出していた。
ばあちゃんは小さくなったが、根本変わってない。あの夏、「庭木に黒蜜塗ってカブト捕まえよう!」と笑ったばあちゃんだ。
(オレが『みいちゃん』を探しに来たこと気付いてんのかよ。もう何年も前から、ご近所さんに聞いてくれてる!)
古びた便箋にはご近所さんの番地、子供の名、孫の名、東京とか大阪とかどこに住んでるかが、歯抜けに書かれていた。孫・男、孫・女となっている部分もある。
相手が話してくれた範囲で書き留めたということ。
(これを取っ掛かりに、お祝い返しを配りながら情報収集しろってか!)
天登は便箋とばあちゃんの笑顔を交互に眺めるばかりだった。