第1章 秘められし謎
ある晴れた春の昼下がりのことだった。ひとりの女性が買い物に向かっていた。
今日は風もなく、穏やかな気候のため、彼女は春らしい明るい色の服を着ていた。冬物からようやく薄手の春物へと変えたばかりだ。
長かった冬に終わりが近づいているかと思うと、どこか気分が浮ついているのかもしれない。
桜も芽吹き始めているし、特に気温の上がった今日は、思わずスキップを踏みたくなるような陽気だ。
春はそこまできている。いや、もう春といっても過言ではないだろう。
実質、彼岸が過ぎたこともあり、時折吹く風は冷たいものの、もはや新しい季節に移り変わっていることを肌で感じさせられた。
そんな折りのことだった。彼女の持つ携帯電話から着信を告げるメロディーが鳴った。彼女はすかさずバッグから携帯電話を取り出すと、電話に出る。
「もしもし、月成ですけど」
「香織か? 今どこにいる?」
「あ、お父さん。近くのスーパーに買い物に行くところだけど……」
「そうか、すまないが、今から合流してくれ。奴らに動きが見られた」
電話は父からだった。だが、いつもの落ち着いた様子ではなく、どこか慌てているというか、切羽詰まったような声だった。香織はのんびりとした口調で答える。
「分かりました。じゃあ、例の場所で待っています」
香織は電話を切ると、慌てて駆けだした。
待ち合わせの場所は、近くの駐車場だった。ここなら、車がきて止まっても迷惑にならない。
もっとも、止まるといってもほんの一、二分程度のものだが……。それでも、場合によっては長く止めざるを得ない。
とにかく、父から招集がかかったということは、それなりに大事が起こったに違いない。
一台の車が近づいてくる。父の乗った車かと、香織は顔を上げて目を凝らす。だが、違う。シルバーのワゴン車ではなく、黒塗りの普通車だった。
車から二人の男が降りてくる。見慣れない男だ。だが、香織の直感が警戒心を強める。
「月成香織さんですね?」
「何者?」
「王の血を引くものはどこだ?」
ヴァルキュリオンだ。香織はすぐに彼らの正体に気づいた。誰を狙っているのか――いや、どちらかというと、まだ探しているだけなのかもしれない。
ヴァルキュリオンの外見は、人とは変わらない。彼らの多くは好戦的である。主に人の血肉を求め、食すのが一般的だ。
もちろん、中には例外もいる。必ずしも人の血肉を食べねばならないということではない。
人と同じ米や麦といったものをはじめとして、魚、緑黄色野菜を糧とすることも出来る。もちろん、牛肉や豚肉、鶏肉などの肉類を食べもする。
とはいうものの、多くの彼らは、人類を食料としか思っていないし、それこそ最高の食事だと思っているのだった。
「王の血を引くもの? なんのことかしら。私にはさっぱり」
香織はとぼけて見せた。軽い調子を装っているが、いつ争いになるのか分からない。だがら、いつでも対応できるように身構えていた。
「とぼけると身のためにならんぞ」
「調べはついているんだ」
男の探している人物に、香織は心当たりがあった。
だが、もちろん易々と差し出すつもりはない。なによりも、血を分けた自分の息子を差し出すほど、落ちぶれてもいない。
「知らないわ。人違いじゃないの?」
香織の言葉に、男たちは苛立ちを覚えた。
「嘘をつくんじゃない!」
「どうしても言わないのなら、力ずくでも……」
言わないのなら実力行使も。男たちはそう決めている。まるで威嚇するように手をバキバキとならす。
男たちはジリジリと間合いを詰めながら、再度回答を求めた。だが、答えは同じ。いよいよ持って力まかせに吐かせようと、男が香織の手をとった。
その瞬間、石が飛んできて男に当たる。男は怯んだ。その隙に香織は男の手を振り払って石の飛んできた方に向かって全力で駆けた。
「まて!」
男たちは香織の後を追いかける。だが、その先に立っている初老の男性を目の当たりにすると足を止めた。
「貴様は……」
「月成のジジイ」
月成弥太郎。香織の父であり、ヴァルキュリオンハンターの最高指導者である。
若い頃はたった一人で一度に十人ものヴァルキュリオンと対峙し、勝って生き延びたほどの男である。今では生きた化石とまでいわれており、その数々の武勇伝はすでに伝説と化している。
ハンターたちの間ではもちろん、ヴァルキュリオンたち間でも広く名の知られた男だった。
「ちっ。仕方がない。引け」
片方の男がいうと、もう一人の男も追いかけるのをやめて、すでに引き上げる準備をしていた。
「今回は貴様に免じて引いてやる。だがな、近いうちに必ずや王の血を受け継ぎし者を浚いに来る。覚悟して待っていろ」
捨てぜりふを残し、男たちは去っていった。
「香織、怪我はないか?」
「うん。大丈夫。ありがとう、お父さん」
香織の言葉に、弥太郎は「いいんじゃよ」と頷いた。
二人は弥太郎の乗ってきた車に乗り込んだ。運転席に座った弥太郎は、すぐに車を出した。車は甲州街道を西に向かって走っていく。
「ところで、徹は今どこに?」
「友達の家に行ってるわ」
「そうか。まあ、今の様子からすると、無事じゃろうな」
「だといいんだけど……」
「しかし、奴らの動きも活発化してきおる」
「そうみたい。それで、彼らの方は?」
「新屋敷たちはよくやっておるよ。お前も最近こそ本部に顔を出さないが、いつでもきてくれといってくれておる」
「そう。なんだか、早速お世話になりそうね」
香織の問いかけに、まじめな顔した弥太郎はそうだねと相づちを打つ。
「これから先、戦いは激化していくじゃろう。香織や徹の力になりたいと言っておったよ」
「そう。ありがたい事ね」
「うん。これから、合流のための打ち合わせにいく」
「なあ、香織」
「なに、お父さん」
「お前もずいぶん苦労してきたな」
「何言出すの、急に……」
「それも、もうすぐ終わりだ」
「そうよね。終わらせてみせる。あの人のためにも」
二人は頷き合った。お互いの意思を確認するように目を合わせてからである。
二人はくらい表情だった。だが、それもつかの間のこと。
やがて希望を見いだしたのかのように徐々に明るさを取り戻していった。
自分たちの未来、そして、最愛の息子の未来を案じながら、二人を乗せた車は都会から少しずつ遠ざかっていった。
少年は今、追われていた。自分がなぜ追われているのか、はっきりいって分からない。体中が埃や泥で汚れていた。
白かったブルゾンも、今では灰色に染まり、ジーパンなどには泥がついてシミができていた。
少年の名は月成徹。まだまだ遊びたい盛りの十八歳。大学に入学を控えた春休みのことだった。
見知らぬ男に後をつけられ、襲われたのは友人の家から帰る途中の事とだった。どうにも視線を背中に感じるのだ。だが、振り返っていくら探しても姿は見えなかった。
少し前から誰かにつけられている事に気づいた。確かに誰かがいる。振り向いても人の姿を見いだすことはできなかったけれど、確かに気配だけはそこにあった。
透明人間なのだろうか。いや、そんな分けない。お化け? それもあり得ない。忍者の類か。現代の世に? 徹の脳裏を過ぎったそれらの可能性は、どれも現実離れをしていて、あり得ないと否定していった。
正体が分からないものにつけられているというのはいい気がするものではない。(正体が分かったからといって、後をつけられても嫌なものは嫌だが……)
とにかく、どうにか正体の分からぬなにかから逃げ出したかった。次第に徹は足をはやめ、適当な路地で道を曲がって走り出す。徹はうまく追っ手を撒こうと必至だった。
いくつかの路地を曲がり、時にはフェイントをかけたが、いっこうに視線がはずれる気配はない。
徹は苛立ちを覚え、さらにスピードを上げて駆け出して行く。二つ目の路地を曲がったとき、徹は思わぬ光景に一瞬躊躇して足を止めた。
行き止まりだった。少年はようやく観念した。もう逃げられない。唯一の進路をふさぐように一人の男が立ちはだかった。
「月成徹様でいらっしゃいますね」
唐突に背後から名を呼ばれた。徹が振り返ると、そこには一人の男が立っていった。タキシードを着たその男は、にこにこと笑顔を浮かべている。
年の頃は三十後半といったところだろうか。どうやら徹の父のことを知っているようだった。
「やはり。あのお方に似ておられる。いや、生き写しといっても過言ではない。もっとも、あの方は十数年前にお亡くなりになられましたが」
「あんたは誰だ? 初めて会ったと思うのは、俺の気のせいかな?」
「これは大変失礼いたしました」
男はそういって深々と頭を下げた。やわらかな物腰の中に、どこか品格が感じられる。
そう、テレビドラマや映画でよく見る貴族の紳士のようなかんじだ。徹の知っている人の中に、こういった物腰の男はまずいない。
なんどか会ったことのある祖父や母の知人や仕事仲間、取引相手などもこういったタイプの人はいなかったからだ。
「私はディムと申します。以後、お見知り置き下さいませ」
やはり、聞き覚えはない名前だ。徹は警戒を怠らないように気を引き締めた。ディムを中心に円を描くようゆっくりと右回りに歩き始める。男はそんな徹の動きに合わせ、体を動かし、常に正面を向くように向きを変える。
徹は隙があればいつでも逃げ出せるように周囲に気を配る。彼以外には周囲に気配はない。
「じゃあ、なぜ俺の名を?」
問いかけながら、徹は背筋が寒くなるのを感じた。いやな予感がする。
その答えを聞いたらいけないような、そんな気がしてならない。徹はゆっくりと右足を後ろに下げた。いつでもすぐに逃げられるように。
「あなた様のお父上を知る者です」
「父さんを?」
徹は怪訝な表情を浮かべた。父のことを知っているといわれても、そのことに違和感を覚えた。祖父や母の知人にもいないタイプ。逆に警戒心が強くなっていく。
徹には父の記憶がほとんどなかった。
幼い頃に亡くなったからだ。かすかに覚えているのは、父の笑顔と膝のうえに抱かれたことくらいだろうか。
だが、それも四つか五つくらいのことである。十八になろうという今、思い出すこともなくなっていた。
「私はあなた様をお迎えに上がりました。もうすぐ十八歳の誕生日をお迎えなされる。その日、あなた様は月成徹の名を捨て、我々の王となられるのです」
徹は後ずさる。この男が何を言っているの到底理解できなかった。王、何のことだ?
日本という国は、天皇の居る国だ。欧州に数多く見られる王国の制度とはある意味近いかもしれないが、残念ながら国王という概念は日本にはない。天から使わされた皇。神話の時代にさかのぼり、神々の血を引くとされる天皇それが欧州でいうところの王様にあたる。
気でも違ったか、よほど妄想癖が強く、現実と妄想の境目が分からなくなっているのか、きっとどちらかに違いない。
「さあ、我らが王よ、いざ共に」
「ふざけるな。突然現れて王だとか言われても、誰が信じるか」
徹は一歩、二歩と後ずさる。
「あなた様は人間ではない。我らの種族を束ねる長の子」
「そんなこと、信じられるか。どいてくれ、俺は家に帰るんだ」
「私の言うことが信じられないようですね。いいでしょう、思い知らせてあげますよ」
ディムが手を振りかざす。徹の体の自由が利かなくなった。
ディムが手を振り上げれば徹の体は宙に浮く。上へ下へ右に左に、ディムが手を振った方向に徹の体はすっとんだ。
右に左にとばされて、徹は体のあちこちを壁にぶつけた。ようやく解放され、地面におろされたとき、そのまま前に倒れ込んだ。
壁が壊れるほど強く打ち付けられていた。だが、徹はすぐに立ち上がることができた。こんな仕打ちをしたディムをキッと睨みつけながら、逃げ出す隙を探している。
「どうですか、これでも人間だと言い張るのかです?」
「なに?」
「お前は今、コンクリートの壁が壊れるほど強く体を打ち付けられた。なのに骨一つ折れていない。それどころか、もう立ち上がっている。普通なら打撲か……いや、骨折していてもおかしくないはずなのに」
言われてみれば確かにそうだ。体のあちこちが痛むが、不自由なく動かせる。
どこも骨が折れているとは言い難い。これがきっと数分もすれば痛みなど消えてしまうだろう。
徹は尋常ならぬ打たれ強さに驚きを隠せなかった。
もしかすると、自分が知らないだけで、身体能力も並はずれているのかも知れない。
だが、今までそんなそぶりを見せた試しがない。
学校の体育の授業でも、運動神経は悪くなかった。クラス、あるいは学年でトップの成績だとまではいわないが、いつも十番目くらいの成績だった。そう、決して悪い方ではなかったが、飛び抜けて良かったわけでもない。
ケガなども高いところから落ちたりと、骨折をするようなことこそなかったが、今までも人並みのけがくらいはしてきたはずである。もっとも、今日みたいな目にあったことはなかったが……。
気づく要因がなかったのも確かではあるが、徹は他の誰とも違う部分はなかったし、もちろんそれを疑うこともなかった。
今日、突然常人ならぬ打たれ強さを生まれ持っている事を知ったからといって、これまで積み重ねてきたことをすべて捨て、このことだけを信じるなどできるはずがない。
「たしかにそうかも知れないが、だからといってこれが証拠になるとでも? もしかしてたら塀が老朽化してたかもしれないじゃないか」
徹は動揺する気持ちを抑え、あくまでも信じないぞという強気な態度でそういった。
「あくまでも、私のいうことを信じないというのですね?」
「ああ。誰が信じるものか?」
「さすがにお父上にそっくりなだけのことはある。我々を裏切るおつもりか。ならば力ずくで連れて帰るのみ」
そういってディムはゆっくりと構えた。
本気だ。徹はその目を見て悟った。何とか逃げ出さなければ。徹は目配せし、周辺の状況を把握しながら、視線を男に戻す。
ディムが間を詰めた。徹は右に飛んで、壊れた塀の向こうへと飛び込んだ。そこは一軒家の小さな庭先だった。ディムの追撃が来る前に、徹は玄関側の方から道路に出て、一目散にかけだした。
「待て!」
ディムが叫んだ。怒りを含んだ叫びである。大きな物音がした。何かが壊れた音だ。壁を壊して家につっこんだか、あるいは塀を壊したのだろう。
徹には振り返って確認している余裕などなかった。まずは奴の視界からはずれること。それからのことは、またそれから考えればいい。
とにかく今は逃げることで精一杯だった。
突然、徹の目の前にバイクが止まる。バイクに乗っていた男は、フルフェイスのヘルメットをはずした。彼は徹の小学校以来、長年付き合ってきた無二の親友だった。西田祐二、それが彼の名だ。
祐二は切羽詰まった徹の事情などつゆ知らず、呑気な口調で駆けてきた徹に話しかけた。
「おう、徹。お前財布忘れただろう? だからあれほどテレビの上に置くなっていってる
んだ」
「祐二、良かった。変な奴に追われてる。バイクを出してくれ」
徹は親友の許可を得る前にバイク後方にまたがる。
「お前、何を言ってるんだ?」
「いいから出せ!」
切羽詰まった徹の声、それからかけてくるディムの姿を目視し、祐二はすぐにバイクのエンジンを吹かす。
「わかった。しっかり掴まっていろよ」
祐二はヘルメットをかぶると、バイクは発進させた。徹の分のヘルメットがないので、祐二は警察に見つからないかとどきどきしていた。スピードも甲州街道を通る時ほど出していない。
「祐二、何のためのバイクだ? これじゃあ、走った方が早いんじゃないか?」
「バカやろう。簡単に言ってくれるな! こっちはこれでも気ぃ使ってるんだぞ!」
「だったら、調布駅までもっととばせよ。こんな住宅街を抜けるよりも、甲州街道使った方がはるかに早いだろう?」
「ふざけんな。警察に見つかったらどうしてくれるんだ? 俺は、あと一点しかないんだぞ。ノーヘル、スピード違反で一気に免停なんだぞ!」
「んなこと知るか。だいたい、そんなに点数引かれた方が悪い」
バイクの上で始まった口論は、終わりが見えない。祐二は徹の言葉に苛立ちを覚えていた。
「か、勝手なことばかりいいやがって。だいたい、お前は助けて欲しいのか、そうじゃないのか、どっちなんだ?」
祐二は逆ギレ気味に叫んだ。
バイクは相変わらず住宅街を走っていた。祐二はこの町のありとあらゆる路地を知り尽くしている。
どの道を通ればどこに出るとか、街道を通らなくても目的地に着くルートをいくつも開発・発見し、それをうまく使い分けることができる。
それはもう、徹よりもはるかに裏道のことは詳しかった。
しかも、どの道に警官が立っているといった裏情報も網羅している。この手のことで、徹は祐二には敵わないことは重々承知していた。
点数が残り少ない祐二にとって、ノーヘルの二人乗りを見つかって免許停止にされることは、なんとしても避けたかった。だが、先を急がなければならない。
警察に見つからず、かつ目的地まで最速でいけるルート。その二つを考慮した上で、導き出した答えが、住宅街を抜けるという結論だった。
もちろん、祐二は警察があまり通らない場所を網羅している。
今、祐二が選び、バイクを走らせている道は、それらの条件を見事にかなえるコースなのだ。
「すまない。助けてもらったのに、わがまま言って……」
徹は呟いた。祐二も謝る。
「俺も言い過ぎた。とにかく、今は調布駅に向かえばいいんだろう?」
「ああ、そうすれば、後は何とかする」
「なんとかって?」
「それ以上迷惑かけられないだろう?」
「俺を巻き込んで置いて、今更なに言ってやがる。俺が見捨てると思うのか?」
「……すまん」
「謝るなっつうの。困っている友達を見捨てるくらいなら、死んだ方がましだ」
「ああ。頼むよ」
徹は後ろを振り返った。路地や上空など、あらゆるところに目を配る。いない。逃げ切れたのだろうか。
徹は自問した。これくらいで逃げられる位なら、初めから逃げ切れていた。だから、きっとどこかでまた……。
不安というよりは、どちらかというと直感に近い感覚だった。
「なあ、徹。俺に一つ考えがあるんだ」
バイクのスピードを緩めながら、祐二が一つの提案をあげたのだった。
バイクが路地から甲州街道へと出た。後部に乗った徹は、顔を隠すようにうつむいている。
バイクはさらに加速し、やがてさしかかった信号のある交差点を左折した。このまままっすぐ行けば駅前のロータリーだ。人通りも増えてきた。
「ここまで来れば、もう大丈夫かな?」
祐二が呟いた。
「本当にここで良いのか?」
祐二はバイクを路肩に止め、降りた徹に問いかけた。祐二はフルフェイスのヘルメットをかぶったまま、バイクを降りる。
「ああ。助かったよ」
「それじゃあ――」
再びバイクにまたがった祐二は、エンジンをかけることを忘れて言葉を失った。目の前にディムが立っていたのだ。
「これはこれは、遅いお着きで……」
「なっ……」
徹も驚愕した。だが、すぐに気を取り直すと、「お前は行け!」と叫んだ。一瞬、ためらいを見せた祐二だったが、すぐにバイクを走らせる。
徹はきびすを返し、バイクとは反対の方向へ駆けていった。
男は一瞬動揺を見せた。だが、すぐに気を取り直すと、徹の後を追って駆けだした。
路地を曲がったところで、徹は男に追いつかれた。腕を捕まれ、深くかぶったフードを脱がされる。
「き、貴様!」
怒りに震えながら、男が言った。
「あーあ。もう少し、時間を稼ぎたかったんだけどな」
フードの中にあった顔は、祐二だった。
「残念だったな」
祐二はニヤリと笑った。着ているのは白いブルゾン。徹の物だ。
「まさか、バイクに乗っていたのが徹様か」
「そのまさかさ。まんまと引っかかってくれたな。こうも簡単にいくとは、思わなかったぜ」
「言え、徹様はどこへ行った」
「さあ、知らないね。俺の目的は、徹がどこかへ逃げるための時間を稼ぐこと。ただそれだけだ」
そういって祐二は拳を握りしめ、腰を落とした。二、三歩後ろに下がり、間合いを取る。
「戦うつもりか?」
「必要ならば」
「なら死ね」
そういって男が動いた。一息つく間に一気に数メートルもの間合いを詰めた。
(早い)
祐二が反応する間もなく、数発の拳をまともにくらった。
反撃に出ようと、一瞬の隙をついて繰り出した回し蹴りは、威力が殺されていて、大した攻撃にならない。
逆にカウンター気味の一撃が祐二の腹にたたき込まれた。
祐二はうめき声を上げながら、前のめりになった。息がうまくできない。痛みと苦しさで、今にも意識を失いそうだった。
「人間無勢が刃向かうからだ。我らに敵うはずがないだろう?」
ディムは不適な笑みを浮かべると、徹から視線をはずした。徹が去った方に視線を送る。
「ま、まだまだ……」
祐二は腹を押さえながら立ち上がった。男は祐二に冷たい視線を送った。だが、すぐに視線をはずすと、徹の去った方に向かって歩き出した。
「ま、待ちやがれ!」
あわてて追いかける祐二。だが、男は振り向きもせず、まるで子蠅を払うように祐二を払いのけた。
祐二の体はまるで子供が遊ぶボールのように、軽々と空に舞い上がる。近くにあったブロック塀を突き抜けた。
「さてと、徹様、逃がしませんよ」
ディムは一息つくと、徹の去った方向に向かって駆け出した。
ディムの後を追おうと立ち上がった祐二だったが、思うように体に力が入らず、よろめいたかと思うと、歩道に倒れ込んだ。
「ま、待て……」
祐二は叫ぶ。いや、叫んだつもりだった。男はどんどん遠ざかる。祐二の意識も段々と薄れていった。
「おい、しっかりしろよ。祐二!」
どれくらい気を失っていたのだろうか。祐二は肩を揺すられ、ようやく目を覚ました。
「と、徹。お前、何で戻ってきた?」
「悪い。だけど、どうしてもお前のことが気になって戻って来てしまった」
「お前はバカか? 俺のことなんかかまわず、早く逃げろよ」
祐二が声を荒げる。だが、時はすでに遅かった。
「やはりお戻り下さいましたね」
「お前」
「今度こそ、我が目的を果たさせていただきますよ」
祐二を抱き起こそうとしていた徹は、祐二に突き飛ばされた。だが、そのおかげで男の手刀をよけることが出来た。
続けざまの男の攻撃を、徹は難なく交わす。
なるほど、落ち着いて見ることが出来れば、見切れない攻撃ではない。初めに見せられた怪しい攻撃さえ当たらなければ、勝てるかも知れない。
徹は調子づいてカウンター気味に拳をつきだした。それがディムの顎に直撃する。さらに、続けざまの回し蹴りが男の脇腹を襲う。
ディムがよろめいたところを握り拳が鳩尾に入った。ディムはうめき声を上げながら仰向けに倒れた。
「やった。やったぞ、祐二」
徹は笑顔を浮かべ、浮かれ気分で祐二の元に駆け寄った。
「ば、バカ、後ろ!」
そこにはディムが立っていた。徹が反応するよりも先に、ディムが拳を突き出す。肩や腹など、数連撃をまともにくらう。
大地に倒れた徹は、腹を押さえて蹲った。男はさらに蹴りを加えた。徹はうめき声を上げ、うつぶせになった状態から動かない。
「それくらいにしておけ」
祐二は力を振り絞って立ち上がると、右の拳を握りしめ、力一杯殴った。
ディムが立ち上がった瞬間に、また一発。さらに一発。
徐々に追いつめられた男は、殴られた拍子によろめき、鉄片に胸を貫かれ、断末魔をあげて絶命した。
「徹、大丈夫か?」
「あ、ああ。なんとかな。お前こそどうだ?」
「俺は大丈夫。大したことないさ」
祐二は傷だらけの徹を支え、月成家にやってきた。明かりはついておらず、誰も家にはいない。
電気をつけ、リビングのイスに祐二を座らせると、徹は救急箱を持ってきた。中からとりだした消毒液で傷口を消毒し、包帯を巻いていく。消毒液は傷口にしみ、祐二は暴れそうなそぶりで痛みを訴えた。
「痛いって」
「我慢しろよ。でも、たいしたことなくて、本当に良かった」
「しかし、あいつら一体何者なんだ?」
祐二が問いかけに、しかし徹は答えることができなかった。
「お前も、知らないんだな?」
「ああ」
徹は相づちをうち、救急箱をかたづけると、冷蔵庫から缶ジュースを取り出した。
一本を祐二に投げ渡し、もう一本は自分でプルタブを起こす。一口飲んでから、徹は言った。
「母さんなら、何か知ってるかも知れない」
「ということは、帰宅待ちか……」
「そういうことになるね」
「お前さえよければ、俺も力になりたいと思うんだが、お前はどう思う?」
「どう思うって? 居てくれば心強いよ。だけど、いいのか? このさき、何があるか分からないぞ。命に関わることがでてくるかもしれん」
「かまわんさ。親友を残して知らん顔する方が、よっぽど苦痛だよ」
徹の問いかけに、祐二は笑みを浮かべながらそう答えた。徹はその答えをうれしく思い、また、祐二が頼もしく思えてきた。
「すまんな。巻き込んで」
「いいって事よ」
徹は戸棚の中から茶菓子を取り出した。ジュースもすぐに飲み終わったので、コーヒーを入れることにして、やかんを火にかけた。
コーヒーを入れ終わっても、二人はお互い何を話していいのか分からなかった。重い空気があたりを支配していた。不意に電話が鳴った。すかさず徹が受話器をとる。
「徹? 無事だったのね?」
「母さん。母さんなのか? 今どこに……」
「今、おじいちゃんと一緒なの。もうすぐそっちに着くから、すぐに出かけられるように、準備しなさい」
「え、でも……」
「いいわね。分かった?」
「俺も今……」
徹の返答を待たず、母は電話を切った。
二人は出かける準備を始めた。といっても、大したものはない。外に出られるように、寒くない格好をするだけだ。
やがて車がやってきた。キャンピングカーだ。運転席から弥太郎が笑顔で手を振り、ドアが開いて母の香織が顔をのぞかせた。
「徹。よかった。心配したのよ」
「うん。でも、急な事で俺も何がなんだかわからなくて……」
「そうよね。移動しながら説明するわ」
頃合いを見て、祐二が切り出した。
「おばさん。お久しぶりです。祐二です」
「あら、祐二君。その傷、もしかして……」
「俺を助けてくれたんだ。母さん。俺たち、知りたいことがあるんだ。祐二にも聞いてもらっていいかな?」
「そうね。ここではなんだから、車に乗って。移動しなが話してあげる」
二人は促されるまま車に乗り込んだ。
質問はたくさんある。
ヴァルキュリオンのこと、一族の王とはなんなのか。それから――数え上げればキリがない。徹は何から訊いていいのか分からなかった。
だが、いつまでも悩んでも仕方がない。徹は意を決して香織に問いかけた。
「母さん、ヴァルキュリオンって何? それに、奴ら一族の王って一体どういうこと?」
「まあ、待って。質問は一つずつ順番にね」
香織はそういって徹をなだめると、まずはヴァルキュリオンについて語り始めた。
「ヴァルキュリオンと呼ばれる種族。見た目は人と変わらないのだけれども、その内面には、残忍な性格と凶暴性を秘めている一族よ。時には人を襲うこともあるのだけれど、普段は人里離れたところにすんでいるとされているわ」
徹は口を閉じたまま、香織の言葉に耳を傾けていた。正直、ショックだった。
父の顔を見ずに育ったことに、少しの劣等感を覚えていたが、もし、今日のようなことがなければ、ずっと知らずにいたかったとすら思った。
自分の体にそういった一族の血が流れてることに恐れを抱いた。異種族の血。考えただけでも気が遠くなる。
今までの自分が、まるで別物になってしまったような気分だった。
「徹、顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
祐二が顔をのぞき込みながら、心配そうに言った。
徹は我に返ると、大丈夫といいながら、笑顔を浮かべた。その取ってつけたような笑顔に、祐二はますます心配そうな表情を浮かべるのだった。
「奴らは俺のことを一族の王だって。ねぇ、俺にもそのヴァルキュリオンの血が流れているって事? だとすると、父さんってもしかして……」
「それは――」
香織は躊躇い気味に言いかけた。
「徹。あなたのお父さんは、記憶を失って倒れていたのを私が発見したの」
香織が意を決して言いかけたその時、がくんと衝撃が走った。急ブレーキをかけた車が横滑りしていく。
さらなる衝撃が走り、ようやく車が止まった。言いかけた言葉もそこまでになってしまった。
「徹、大丈夫?」
「なんとか」
香織は徹が無事だと確認した。一息つく間もなく、運転席まで急いだ。
「お父さん」
香織の呼びかけもむなしく、返事はない。運転席では額から血を流していた。
そこには往年の伝説の戦士を思わせる影はなかった。
老いて力衰えた男性がいるだけだった。
「爺ちゃん」
香織と徹の呼びかけが届いたのか、弥太郎が意識を取り戻す。
まだ朦朧としている意識を振り払うかのように弥太郎は言った。
「に、逃げろ。香織、徹。ここはワシが引き受けた」
「でも……」
香織がためらっていると、「爺ちゃんも一緒に行こう」と徹が言った。だが、弥太郎は首を横に振る。
「ダメじゃ。お前らだけでも生きるんだ」
「そんな。爺ちゃん、死ぬ気かよ」
「バカもん。ワシはその名を轟かせた男だぞ! 簡単に死ぬもんか」
「お父さん」
「徹。今は逃げるんだ。必ず反撃の機会はくる。香織、後は任せたぞ」
「そんな、爺ちゃんをおいて逃げるなんて、俺には出来ないよ」
言いかけた徹を、祐二と香織が連れて車を離れ、路地を曲がっていった。
男たちは徹たちを追いかけようとした。
だが、それは弥太郎によって遮られた。両手を広げ、先には行かせないぞという雰囲気で、弥太郎は叫んだ。
「この先はこの命に代えても一歩も進ませぬ。月成弥太郎、一世一代の大勝負だ」
武器もなく、防具もない素手での戦い。はっきりいって無謀である。だが、弥太郎には三人が逃げおおせる時間さえとれればそれで良かった。
だが、もちろん無駄死にするつもりなどない。精一杯抵抗するつもりだった。
盛大な音をあげてフロントガラスの破片が飛び散った。外から白銀の棒のような物が飛んできて、弥太郎の体に突き刺さっていた。
徹たちにはその光景が見えなかったのは、せめてもの救いかも知れない。目の前で惨殺される肉親の姿を見れば、逃げようとする気が失せるかも知れなかったからだ。
香織は目をつむり、必死に戻りたいという気持ちを抑えた。
「爺ちゃん」
徹が悲痛な叫び声をあげた。香織は涙をこらえながら二人を連れて車を降りた。そこにはヴァルキュリオンが待ちかまえていた。
「ここは俺にまかせて」
祐二がおとりを買って出た。徹と香織は躊躇したが、弥太郎の意志を無駄にしないように、急いで現場を離れた。
「この先で、ヴァルキュリオンハンターの人と会うことになってるの」
「ハンター?」
「私たちの協力者よ。もし、私に何かあっても、あなたのことを助けてくれる人たちがそこにいるから」
二人は路地を曲がった。傾斜を駆け上がり、再び曲がったところに、一人の少女が待っていた。
徹と同じ位の年で、スレンダーな女の子だ。小さい頃は月成家の隣に住んでいた、いわゆる徹と幼なじみだった。
とはいえ、今は再会を喜んでいる場合ではない。
「香織さん。こっちです」
「香奈美ちゃんがお迎え? ありがとう」
「追っ手が来ないうちに急ぎましょう」
香奈美を先頭に、三人は走り出した。徹をしんがりに、一行はいくつか路地を曲がる。急に前が止まった。
「どうしたんだ?」
徹が問いかけた。前の二人が後ずさる。そこには、一人の男が立っていた。ヴァルキュリオンだ。
「徹。あなたは行きなさい。ここは、私がなんとかするから」
徹の脳裏に一抹の不安が過ぎる。弥太郎のように、もう二度と会えないんじゃないだろうかと。
「母さん。ダメだ。一緒に行こう」
「何言ってるの。あなたを無事に届けなきゃいけないの。あなたは人類最後の希望なのよ」
「でも……」
香織はヴァルキュリオンと対峙しながら叫んだ。香奈美は香織の意志を引き継ぎ、徹を連れて行こうとするが、徹は躊躇い続ける。
「どうした?」
駆けつけた祐二は頬にかすり傷を負っているくらいで、大した怪我はしていなかった。
「祐二君。徹のことをお願いします」
祐二は香織の言うことを瞬時に理解し、香奈美と視線を合わせる。
二人は頷き合った。なおもこの場に残ることを願う徹を、祐二が無理矢理連れてこの場を離れる。
「いやだ。放せ。母さん、俺も戦う」
だだをこねる徹に、香織は微笑みかけた。
「徹。元気でね」
嫌な予感が徹の脳裏を過ぎる。それは、死の予感。
祐二に連れられ、徹は路地を曲がった。
何もできない事に悔しさを抱く徹。祐二や香奈美はどう声をかけていいのか分からなかった。
断末魔の悲鳴が上がった。徹は目をつむり、うつむく。誰もが香織のその後のことを容易に想像できた。
抵抗しなくなった徹を引き連れ、夜の道を急いだ。ヴァルキュリオン一族と対抗できる、人類唯一の機関の本部へと。