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第26話 対岸の毒花と毒蝶 終

 夕霧さんの瞳から、ぽろぽろと大きい雨粒のような涙がこぼれ落ちる。

 ついさっきまで不思議な、不可解な映像を見ていた気がする。


 その映像にいたのは紛れもなく夕霧さんだったが、目の前で膝をついて涙を流している夕霧さんとは、似ても似つかない。

 服装も、表情も、彼女とは違う。無邪気で元気な女の子に見えた。

 我を失って感情的に涙を流す今の彼女とはまるで正反対の姿だった。


 なぜあんな幻覚を見たのだろう。そもそも幻覚だったのだろうか。

 経験したことなどない会話が、今も頭の中で飛び交っている。


「……どうしてこんなことになったのよ」


 うつむいたまま呟く夕霧さんに、傍に立っている水戸瀬も口をはさむのをためらっていた。


「卒業したら、付き合おうって、約束したのに……」

「一緒の家に暮らして……仕事の時以外はいつも一緒にいました……!」

「なんで私から奪うんですか……ッ!?」


 夕霧さんは涙でぐしゃぐしゃになった顔で、水戸瀬を睨んだ。


「私が苦労して手に入れたのに……! なんで全部なかったことにしちゃうんですか……ッ!?」


 その声は、絶望感に染まっている。

 子供を亡くした母親のように、さめざめと泣いている。

 そばで聞いているだけで、絶望という感情が伝播してくるようだ。胃に穴をあけられたように、痛いんだ。


 近づいて、声をかけることもできなかった。

 それはたぶん、水戸瀬も同じだった。言葉を失って、歯を食い縛って、跪いている夕霧さんを見てる。


 夕霧さんが言っている意味が上手く呑み込めないけれど、ついさっき見た映像が、ただの幻覚とは思えなかった。


「もういいです……」


 夕霧さんは力なくそう答えた。


「どうせ全部、あたしの妄想なんだ……」


 そして彼女は、手で顔を覆い、その場から駆け出した。

 去り際の彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。


 それに、感化されただけだと思う。

 僕の目からも、頬を伝って何かが落ちた。


 彼女が何を憂いで、何に悲しんでいるのかわからないのに、涙腺だけが壊れてしまっている。

 夕焼け空はすでに赤い光を失い、薄暗く淀んでしまっていた。


 丘に取り残された僕らは、真っ暗な闇に飲み込まれていくだけだ。

 なすすべもなくただ茫然と立ち尽くすことしかできない。








             ?


 自分の人生に後悔したことある? と私はたずねた。

 長い長い沈黙があって、


「あいつが死んだとき――」


 彼女の紡ごうとした言葉は、断末魔のような列車の音に阻まれる。

 彼女は鬱陶しそうに頭上を見上げ、シミだらけの天井を睨んだ。線路にかかる重みと走行による振動で周囲が小刻みに揺れ、ぱらぱらと、壁から剥がれた埃や小さな石が落ちてくる。

 きっとそれらが、彼女の美しかった髪を灰色に染めているのだろうと思った。


 そこは、泥と苔、饐えたにおいのする高架下の一角だった。

 段ボールハウスから這い出てきた彼女には、生き生きとしたまなざしも、人間らしい品格さも失われているように見えた。

 皺だらけで醜くゆがんだ顔、身に着けているものはどれも黒く煤けていて、昔のような美しさは見る影もない。


「あいつが死んだとき、なんかね、いろいろ気づいたんだよ」


 地べたを舐めるようにうな垂れた彼女は、先ほどの話の続きを口にする。


「今まで他人の幸せ奪いながら生きてきたんだなって」


 輝かしい経歴のある子だった。

 頭が良くて、世渡りも上手で、誰にでも好かれるような子だった。

 たった一つの後悔が、巡り巡って彼女の成り立ちをここまで変えてしまうものなのだろうか。

 私はたずねた。


「だから誰とも一緒にならずに、そんなになるまで一人でいたの?」

「……弱いんだよ」


 彼女は呻いた。濁ったものを吐き出すように。


「私はみんなが思ってるよりもずっと弱いんだ……」


 なにがその人の支柱になっているかなんて、他人にはわからない――

 誰かの受け入りだったそんな言葉を、彼女を見ていて思い出していた。


「そんなの気にせず、今まで通り好き勝手に生きてくればよかったのにね……」


 そう言ってふっと嘲笑する彼女は、次の瞬間「気づいたらこのありさまだよ」と嗚咽を漏らしながら、少女のようにすすり泣きはじめた。

 そんな彼女の体に寄り添うように身をかがめ、その背中に自分の手を置く。

 酷く汚れてしまった彼女の顔に近づき、


「あなたは加害者だけど、被害者なの」


 そう囁いた。


「だから選択肢を与えに来た」

「なに意味の分かんないこと言ってんの……?」


 うな垂れていた彼女が、気だるげに顔を動かしてこちらに力ない目を向ける。

 虚ろなまなざし。

 つついたら倒れて、そのまま死んでしまいそう。


「……そういえばあんた、あいつに似てる……」


 彼女の言葉に応えず、懐からそれを取り出して、その手に握らせた。


「これはあなたにしか見えない端末」




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