正義に誓う 第1章
キーンコーンカーンコーン
騒がしい昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが校内に鳴り響く。いつもは明るい表情の奏多は、窓の外のグラウンドを眺めて憂鬱そうに溜息を吐いた。
「……体育か」
別に体育が嫌いというわけではない、むしろ体を動かすのは好きな方だった。正義についていくために奏多もある程度鍛えたのだ。昔とは違う。でも、今日は憂鬱だった。普段は着崩さずにちゃんと整えている制服も、今日ばかりはその下に短パンを履いていた。制服はあれど、校則も緩く怒られるわけでもないのに、それだけで気が重くなっていた。
「枝園さん、まだ更衣室いかないの?」
「……えっ、あぁ、柳之宮さん」
自分の身体にある痣を気にしていつも遅れてくる柳之宮ハシラさん。今の自分は彼女の苦しみのほんの一部だけだけど理解できるような気がした。
「あはは、どうしようかな」
「先生が今日は「実技試験やるから」って言ってたよ」
「先生のモノマネ?似てないなぁ……そっか、それじゃ、休めないね」
奏多は困ったような、顔は笑っているけれど、心からの笑顔じゃないようにハシラの目には映っていた。
「珍しいね、枝園さんがぼーっとしてるなんて。今日一日ずっとだよ?」
「えっ、そうかな?」
「数学の時も当てられてるのに気づいてなかったよね」
「先生たちも心配してたよ。裁貴くんが何かやらかしたんじゃないかって」
「え~、じゃあしっかりしなきゃ。裁貴くんに迷惑かけられないし」
「疲れてるなら、無理しちゃだめだよ」
「うん、大丈夫、遅れちゃうし行こっか」
連れだってもう誰もいなくなった女子更衣室に入る。空いているロッカーに荷物を置きながら不自然に距離を取ろうとする奏多にハシラが声をかける。
「そんな端っこじゃなくても、ここ空いてるよ?」
「えっ、いやぁ。ここでいいよ」
「やっぱりステラナイトでもこの痣は……」
「あっ、違っ、そういうわけじゃなくて。じゃあそっちにしようかな」
奏多は、いそいそとハシラの隣のロッカーに体操服を置く。着替え始めたハシラを見つめながら、奏多は迷っていた。いつまでも隠しきれるものでもない、けど他の人に知られたくないし、心配を掛けたくもない。
「いつまでも体育を休むわけにもいかないし……って、きゃっ」
ハシラはいつまでも着替えようとしない奏多の後ろからゆっくり近づくと、奏多のブラウスに手をかけて、えいっと制服のブラウスをめくった。
「早く着替えないと遅れちゃうよ。手伝ってあげ……えっ……?」
ハシラがめくったブラウスの下、白地のキャミソールから透けていたのは明らかに紫色に変色した痣のようなもの。背中からお腹にかけてどこもかしこも目にするのも痛々しい姿だった。自分の痣のことを棚に上げて、ハシラは少し引いてしまう。いくら常識のないハシラでも、普通の女子高生にこんな痣があるのはおかしいことは理解していた。
「……柳之宮さん?気にしないで。この前階段踏み外しちゃって、打ち身になってるだけだから」
「どう見てもそんな風には見えないんだけど……」
明らかに階段から落ちた怪我じゃない、ハシラはそう思った。腕や脚には目立つ怪我がない、もし落ちたとしたら他にも目立つ怪我があるはずだと。そっと痣に触れると、奏多は少し顔をゆがめる。まだ痛みがあるみたいだ。
「……ほら、どうでもいいじゃない?早く着替えなきゃね」
ハシラは、ごまかすように着替えを始めた奏多をじっと見つめる。奏多はジャージズボンを持ったまま固まっていた。体操服のジャージは厚手で寒くなってきた今の時期でもあったかい。だが、だからこそ厚手のタイツを重ね着すると暑くなる。奏多は諦めた様にタイツをゆっくり下した。真っ白なきれいな肌には似合わない、紫に変色した内出血、緑色の腫れ、火傷のような傷跡。それを見つけたハシラは、明らかに普通ではない怪我の状況に、ある最低な想像が浮かんだ。
「ねぇ、やっぱりただの怪我じゃないよね、それ。もしかして、DVってやつなんじゃ……」
「違うよ、違うの。そういうのじゃないの」
慌てて否定しつつも、暗くなった奏多の表情を見てハシラは確信する。この前の人権講習会でも習った。きっとそういうことなんだ、と。でもそうだとしたらおかしいことばっかりだ。
「でも、枝園さん、一人暮らしだよね。私を泊めてくれたところ」
「う……うん、そう。そうだよ。だから怪我だって言ってるじゃん」
「でも、その怪我って裁貴くんは知ってるの?」
「いや、ただの怪我で大騒ぎしても仕方ないでしょ。伝えてないよ」
やっぱり、もしその怪我を彼が知っていたとしたら許すはずがない、そう思った。こういうことに関して彼の直観は怖いくらい当たる。それをごまかしてる枝園さんはさすがというべきなのか……けど。
「誰かには伝えたの?保健室とか行った方がいいんじゃ……」
「う~ん、裁貴くんのおかげで怪我の手当ては慣れてるから、自分でしちゃったし。そんな大きな怪我でもないしね」
えへへ、そんな風に笑う奏多の目をハシラがじっと見つめる。奏多は気まずくなってすぐに目線をそらした。そして慌てて長袖長ズボンのジャージに急いで着替える。
「ねぇ、私、話聞くよ?私たちは一緒に戦ってる仲間でしょ?何かできることはない?」
「できること……じゃあこのことは誰にも話さないで」
「誰にも?裁貴くんにも?」
その一言に、奏多はハシラの肩を掴んで引き寄せる。ハシラは奏多の手が震えていることに気付いた。ただその震えとは裏腹に奏多の目はまっすぐハシラを捉えていた。
「絶対に言わないで。今は裁貴くんに心配かけたくないの。たぶん今が一番大変な時だから、自分のことに集中できるように」
「けど……」
力強くつかまれていた肩からすっと奏多の手が離れる。奏多はハシラから離れると、自分が脱いだ制服を綺麗に折り畳んでロッカーの扉を閉めた。
「柳之宮さん、おせっかいって言われたことない?」
「おせっかいって……でも……」
「あのね?おせっかいだって言ってるの」
奏多はハシラの方を見ながらきっぱりとそう口にした。拒絶の意志、これ以上立ち入ることを許さないとでもいうかのような口調の強さに、ハシラは黙ってしまった。
「ごめんね、これは私の、私たちの問題だから。言うべき時が来たら自分でちゃんと言うよ」
ハシラはあの日の隷鷲の言葉を思い出す。言いたくなければ言わなくていいと言われたことを。裁貴くんと枝園さんも同じなら、余計なことを言わない方がいいかもしれない。私だって他人に勝手に言われたら嫌だから。
「うん、けど何かあったら、頼りないかもしれないけど私を頼ってね。私も、れいちゃんも、枝園さんや裁貴くんの事、仲間だって思ってるから」
「ありがとう。そのときはお願いするよ。じゃあ行こう?」
数瞬の間に、奏多はさっきまでの表情を振り払い、笑顔に戻っていた。いつも通りの私、そのいつも通りがいつも本心であるとは限らない。演じて蓋をして作られた平穏に、何の価値があるというのだろう。世界平和ってそういうことなんだろうか。奏多はそんな迷いを抱えながらハシラの手を引き、走り出す。楽し気な気分を装って。授業開始のチャイムが鳴るころには、いつもの表情でいつも通りにクラスメートと笑いあう奏多の姿がそこにはあった。