絃の想い
その日も桜花教神社には人が多く出入りしていた。帝都は何事もなく日々を映し続けている。その中で神官や巫女も普段通りの活動を続けていた。
「あなたの桜がより美しく咲きますように」
「絃ちゃん、いつもありがとうね」
麟が境内を覗き込むと、絃は老婦の手を握っていた。目の錯覚か、柔らかな光が絃から老婦へ受け渡されているように見えた。遠目で見ると、絃の表情に少し影が差したようにも見える。普通では気付けないような小さな変化、相手を"視る"ことを意識している麟だから気づけたのかもしれない。とは言え、紡ならすぐに気づいただろうが。
「また元気に来てくださいね。あっ!麟!」
帰っていく老婦と入れ替わりで麟が絃に近づくと、絃はすぐに気づいてぱぁっと明るい表情を麟に向けた。
「元気そうだね」
「はい!もちろんです。麟も元気ですね。桜が綺麗です」
たまに自分ではなく、自分の内側を見られているような不思議な気分になる絃の視線にどぎまぎしながら社の縁側に座る。
「忙しそうだけど、疲れない?」
「どうでしょう。お役目を果たすのは絃のお役目なので」
「答えになってない」
「そうですか?」
絃は麟のすぐそばに座り、考えているのか唸りながら足をぶらぶらと揺らす。
「……やるべきことをやるのに、疲れたとか言ってる場合じゃないのですよ。麟」
一瞬、麟には目の前にいる少女が一回りも二回りも大きく見えた。そして彼女の言葉はそのまま麟にも当てはまるものだ。
「やるべきこと……か。紡も似たようなことを言ってたな」
「みんな一緒ですね」
絃も麟も同じ少年を思い出す。何かを成すために必死になって何かをしていることだけしかわからず、以前は毎日のように来ていた彼は、最近はなかなか神社に顔を出さなくなった。
「つむは頑張ってます。だから絃も頑張るのです」
「何のために?」
「つむのためですよ?」
紡の桜が綺麗に美しく咲くために。最初は特に理由はなかった。悲しんでいる少年の助けになりたかっただけだ。気がつけば絃の脚は走り出していたし、心臓は鼓動を響かせていた。あの時のドキドキが何だったのか今となってはわからないけども、今、名前をつけるのであれば絃の中で答えは決まっていた。
「……つむのためです」
「紡のためか」
きっと紡の桜を本当の意味で満開にするにはこの帝都ごと救わなくてはいけない。そんなことは自分の力では足りないこともよくわかっていて。でも少しでもできることがあるからやる、理由なんて紡のため以外になかった。
「麟、あなたの桜がより美しく綺麗に咲きますように」
絃が麟の手を握る。柔らかな暖かな春の陽気のような力が麟に注がれる。きっと悪いものではないという確信と共に、麟は何か嫌な感覚を感じ取った。
「ほら、麟はもっと元気になりました!」
「絃、今のは?」
「とっておきのおまじな…い……で…」
言い終わる前にすっと力が抜けて崩れた絃の身体を麟は抱き止める。同世代の少女とは思えないくらい小さな身体は、鍛えているとは言っても少年である麟でも軽々と支えられるほど、小柄だった。
「絃?……ちょっ、後で紡になんて言われるか……あぁもう。誰か!誰かいませんか!絃が倒れて」
近くにいたのか、すぐに保護者である依が出てきて絃の部屋に寝かせてくれたようだ。迷惑をかけた分と言われて出されたお茶請けの和菓子は、口にしても全く味がしなかった。麟は思っていたよりも自分がショックを受けていることに驚く。茫然としていた時間が長かったのか、昼下がりに訪ねたはずが、もう陽は傾き夜の帳が下り始めていた。
「帰るタイミングをなくしてしまった……どうしようかな」
「帰る前に絃の顔を見て行きますか?」
「うわっ、びっくりした。やめてくださいよ。というか女の子の寝顔を見る趣味はありません」
誰もいないと思っていた真後ろに春秋依の姿があった。依はイタズラが成功した子どものような表情で麟を見つめる。
「絃が謝りたいって。心配かけてしまったからって言ってるのよ。あの子のために、ね?」
そう言われては断るのも何か違うかと思い、案内されるまま絃の私室に入る。シンプルな和室は、少しの女の子らしい小物の飾られた絃らしい部屋だ。いくつかは紡との思い出の品もあるのだろう。棚には大切に飾られたリボンや何やが置かれている。布団のすぐそばに綺麗な動作で正座すると、ちょうど起き上がった絃と目があった。
「麟、ごめんなさい。びっくりさせちゃいました」
「ううん、気にしてない。というか大丈夫かい?」
「はい、だいじょうぶです。ピンピンしてますよ!」
絃は布団から起き上がった状態で腕をぐるぐる回す。
「おまじないが原因なのか?」
「……ちがいます」
「原因なんだな」
「なんでバレましたか……さすが麟ですね。つむにはナイショです」
腕を振り回すのをやめた絃は、しおらしく視線を下に落とした。元気に明るく振る舞う絃の姿と、弱々しく佇む絃の姿が重なる。
「紡のためになんでそこまで。いや気持ちはわからなくはないけども」
「なんででしょうね」
「絃は紡のことが好きなの?」
麟は聞くべきことじゃなかったかもしれないと、口にしてから後悔する。
「絃はつむのこと大好きです」
なんの含みもなく、ただあるがままの事実を述べるかのように絃はそう答えた。
「あ、いや。うーん。そうじゃなくて」
「麟もつむのこと大好きですよね」
「あー、うん、もちろん紡のことは好きだけどそうじゃなくてさ、なんで言ったらいいかな」
「絃、困らせてますか?」
「絶賛困ってるけど、絃のせいじゃないから気にしないで。えーー、例えば、特別好きって感じとか?」
「特別に大好きですね」
「それは……霧の言葉で言えばラブってこと?」
「らぶ?というのはわからないですが……普通の好きよりもっと好きです」
それは愛の告白ではないのか?いや絃の場合、ただ素直に言ってるだけの可能性も、と麟の中で悩みが渦巻く。
「麟がなにを言いたいのかはさっぱりなのですが、絃はつむと一緒にいたいです」
絃は麟の目をまっすぐ見つめる。麟は絃の瞳に覚悟が浮かぶのを感じた。
「きっと桜の帝都が平和に、みんなが幸せになったら。つむはまた毎日会いに来てくれると思います。そのために絃はどこまでもがんばれます」
「倒れるぐらい大変でも?」
「むりでもむちゃでも、つむといっしょにいられるならなんだってやります!絃はそれくらいつむが大好きですから」
「それは……愛の告白なんじゃないかなぁ。聞けなかったのは残念だったね、紡」
麟は遠く離れたところにいる親友に向けて呟いた。聞いていたとしても、恥ずかしがる様子が目に浮かぶ。そして、きっと彼女の想いに答えるためにもっと無理をしてしまうだろう。もしかしたら今聞かなかったことはむしろ幸せなのかもしれない。そんなことを思いながら、腰を上げる。
「今日はもう帰るよ。また見舞いに来る」
「次はまた元気でお迎えしますよ」
「無理はしないようにね、紡も心配するから」
「……ぜんしょします」
「それはしないやつだ……また様子を見に来るよ」
麟は部屋をあとにする。絃がかけるおまじないがどういうものかはわからないが、かけてもらってからかなり心身の調子が良い感じがする。しばらくはまだ戻って来れない紡の代わりに、毎日絃の顔を見に来ようと思った麟だった。