二つ星(著はるより)
「なぁ正人〜〜!明日は休みだろ!?なら父さんと遊ぼう、何をしようか!そうだ、明日はいい天気らしいし公園に行ってキャッチボールがいいな!」
「やだ。同意もしてないのに勝手に話を進めないで」
「じゃあ『うん』って言ってくれ!そしたらあとは父さんが完璧なプランを……」
「残念ながら答えは『ノー』です」
とある金曜日の夜。時刻は九時半をすぎた頃。
裁貴一家は夕食と入浴を済ませ、団欒の時を迎えようとしていた……ような気がする。
寝巻きにしているTシャツとジャージに身を包んだ少年は、ニコニコと能天気に語りかけてくる父親に眉根を寄せると、ぴしゃりと拒絶の言葉を言い放ってから自室に消えてしまった。
「そんなぁ……最近冷たいぞ、正人……」
がっくりと肩を落とす男性。名を裁貴正義。
今日も一日会社勤めを終えたあとだというのに、微塵も疲れを感じさせない様子ではしゃぎ回っていたのだが……上記の過程を経て今に至る。
「あーあ。振られちゃったね、ジャスくん」
「奏多……」
分かりやすくしょんぼりとした様子の正義に、奏多は思わずくすくすと小さく笑う。
「僕、何か嫌われるようなことしたかなぁ……」
「ん〜嫌われてる、って事ではないんだと思うけど……」
所謂、反抗期というやつなのだろう。
15歳になった正人は、幼い頃のように自信なさげに姉の後ろに隠れたり、すぐに泣きべそをかいたりする事はなくなった。
それと引き換えだというように、両親や姉の言葉に反抗することが増えたが……多くの子供とは、成長し大人になる過程で皆そういう道を辿るものなのだろう。
「私もジャスくんも、きっとそういうのはなかったもんね」
奏多には『反抗できる親』など居なかった。
正義には『反抗させる親』が居なかった。
だからこそ、奏多にはこの一般的に見て『よくある家庭悩み』が愛おしくすら思えるのだが……正義はそこまで思い至る事が出来ていないようで、今にもおいおいと泣き出してしまいそうな状態である。
「叶は今でも仲良くしてくれるのになぁ」
「あの子は色々と特別なんじゃないかな……」
幼い頃から、正義とヒーローごっこをするのが大好きだった叶。
あっけらかんとした性格と困っている人を目にすると放って置けない性分は、どこかの誰かにそっくりだった。
ちなみに今は奏多が「少しでも女の子らしさを覚えてくれたら……」と本人に頼み込んで入学してもらった聖アージェティア学園で、『王子様』と呼ばれているとかなんとか。
「そういえば、叶は?」
「うん?あれ……確かに、やけに静かだね」
二人がキョロキョロと視線を巡らせると、リビングのテレビの前に置かれたソファで寝息を立てている彼女の姿があった。
ポカッと口を開けて気持ちよさそうに眠るその姿は、彼女を『王子様』と慕っている少女たちには到底見せられたものではない。
「叶、叶。こんな所で寝ちゃダメだって、寝るならベッドに行きなさい」
「んー……わかったぁ……」
正義が軽く肩を叩いてから言い聞かせるも、寝ぼけ眼の彼女は数度瞬きしたあと、また眠りに落ちてしまう。
正義は、小さくため息をつくと奏多に目配せした。奏多はその意図を汲んで、頷いた。
「……。……お父さん、叶!悪い奴が家に入ってきて……今すぐどうにかしないと、大変なことになっちゃう!」
「なに!?奏多、そいつはどこに行った!?」
「……ハッ!え!?母さん今、悪い奴って言った!?」
両親のその言葉に叶が反応し、ガバリと起き上がる。
先ほどまでのぼんやりとした様子は何処へやら、真剣そのものの視線を母へと送っていた。
「多分、叶の部屋だと思う……!私は後ろから援護するから、二人で先に突入してくれる?」
「分かった!よし、叶行くぞ!」
「了解!」
賑やかに、バタバタと二人は廊下へと出て行く。
やがて「フリーズ!お前は包囲されている、大人しく出てこい!」の声に続きバタンと扉が閉まる音が聞こえてきた。
「ほんとうに、こんなところまで似ちゃって……」
もう三十年近く昔の話になるのだろうか。
正義と奏多がまだSoAに通う高校生だった時代の話。
二人を含めた学生八人で旅行に行った思い出の中に……寝ぼけた正義が間違えて奏多の布団に潜り込んできたというものがある。
その時奏多が正義を起こすために『廊下に悪者が出た』と言うと、彼は驚くほどの目覚めの良さで飛び出して行ったのだ。
あの頃はまだ、ジャスくんは私のことを何とも思ってくれてなかったんだっけ。
奏多は苦かったはずのその記憶すら懐かしく感じられて、足元に目を落とした。
確か少しでも可愛く見られたくて履いたヒールを、歩きにくそうだからスニーカーのほうがいいんじゃない?と一蹴されてしまったり。
軽い意地悪でその類のエピソードを持ち出すと、今でも正義は真っ青になって頭を下げる。本人曰く、当時の自分をグーで殴って目を覚まさせてやりたい、らしい。
ただまぁ、奏多からすればそんな当時の正義への気持ちを一切揺らがさなかった自身に対して『良くやった』と思うし、反対にそれが当然だとも思う。
奏多は彼から、支えたいと思うに値するものを幼い頃に受け取っていたし、再会してからの正義も紛れもなく彼女のヒーローだったからだ。
娘の部屋からそろそろ戻ってくるであろう正義を迎えるために、奏多はポットにお湯を注ぐ。
中に入っているのはカモミールティー。
社会人になってからは流石に学生の時ほど早く就寝することが出来なくなった正義だったが、それでも十二時を回る前には寝息を立てていることが多い。
あれだけ元気に日々を送っているのだから、心配はないとは思うが……それでも疲れを残して欲しくはないので、夜は睡眠を阻害しないハーブティーを淹れるのだ。
叶の部屋がある方角から、何故か正義の「ぐわー!やられたー!」と言う声が聞こえてから数分後。
リビングに髪がぐしゃぐしゃになった正義が『仮面』を手に、笑いながら戻ってくる。
「あっははは!叶はいつまでも変わらなくて安心するよ!」
「お疲れ様、ジャスくん。お茶をどうぞ?」
「お、ありがとう!丁度喉が渇いてたんだ」
「それで、悪者はどうなったの?」
「部屋に入ってもどこにも侵入者なんていなかったから、叶が僕を父親に化けた怪人だと判断して退治したんだ」
普段の彼だけを見ていれば意外に思うかもしれないが……正義はヒーローごっこの中で所謂『やられ役』を買って出ることも少なくはない。
そしてその行動を取らせる彼の価値観を、奏多はロアテラの眷属として堕ちた中で知った。
「そっか、お手柄だね叶」
「うん。今はぐっすり寝てるし、ちゃんと布団もかけてきたから、もう大丈夫だよ」
正義はニコニコとしながらティーカップに口をつける。あちっ、と言って直ぐにそれを離すのもお決まりのパターンだ。
少しの間、静かな時間が流れる。
ティーカップから伝わる温度が、指先に心地よい。
奏多は、ふと正義が真っ直ぐに自分の方を見ていることに気づいた。表情はごく自然なそれだが……何か思うところでもあるのだろうか、と彼女は首をかしげる。
「どうしたの、ジャスくん。そんなにじっと見て」
「ん?いや、僕って幸せ者だなって思って」
「突然どうしたの?」
「だって、こんなに素敵な奥さんがいて、可愛い子供が二人もいる」
今度は奏多が正義をじっと見つめる。
浮ついている言葉のようであったが、それが彼の本心であり、嘘偽りのない想いである事を奏多は知っていた。
「みんな健康で、毎日を何の問題もなく送ってる。なんて事ないように見えるかも知れないけど、これってすごい事なんじゃないかな」
夢破れた者たち。
何かのために何かを引き換えにする者たち。
何も掴むことができなかった者たち。
かつて相対した敵も、仲間たちも、自分たちも。
到底、平凡だとは言えないような過去を作り上げてきた。
だがあの頃は、それが『普通』だったのだ。
皆自分が信じるものを肯定するために、望むものを得るために……多くのものを支払った。
そして、自分たちは奇跡的に……あの頃焦がれてやまなかった日々を送っている。
例えその過程に屍が並んでいたとしても、今のこの日常は紛れもない本物なのだ。
「そうだね、きっととても凄いこと。お手柄だね、お父さん」
「うん、家族皆んなのお手柄だ」
くすくす、どちらからともなく笑い声をあげる二人。
何かが可笑しいということはない。ただ、十分に受け取って、尚もこの家に満ちている幸せがついつい口から溢れてしまうのだ。
「じゃあ、明日もいつも通り過ごすために……そろそろおやすみなさい、しようか?」
「そうだね、正人とキャッチボールの約束もしたし!」
「それ、さっき断られてなかったっけ……まぁいっか」
機嫌良さげに戸棚の引き出しからミットとボールを取り出して、サイドボードに並べる正義を見て奏多は首を傾げたが……深くは追求しない事を決めたのであった。
これが今の裁貴家の日常。
騒がしくて、特別でも何でもない……『平和』な世界だ。