バレンタインの悪巧み
2月13日、水曜日。木漏れ日の漏れる昼下がり、何だかんだ言っても眠くなる時間、授業を抜け出したカティアは公立大学の中にあるカフェのテラス席で伸びていた。涼しげな風と暖かな陽気、平和な時間が流れているのに、カティアの心は曇っていた。
「バレンタインですか……」
周囲の大学生はもう春休みだというのにわざわざ学校まで来て誰に渡すだの誰からもらうだのと噂話をしている。そう、バレンタインの悪しき慣習、チョコレートのプレゼント。これはカティアにとっては今はタイミングが悪かった。クラスの女子にはあの長身イケメンとうまくやっているのか、チョコは渡すのか、付き合ってるのか、など根掘り葉掘り聞かれて疲れている。今日の昼だって我が王が来る前に逃げたくらいだ。噂のタネになるとロクなことがない、こういうイベントごとは尚のことだ。大きなため息をつくと机に突っ伏した。
「もう少し前なら、義理チョコを渡せましたが……今、このタイミングでは義理でも渡したくありません。かと言って仕える主人を蔑ろにするわけにも……何かいい口実があれば良いんですが……」
「あれ、カティアちゃん?久しぶりだね」
カフェの入り口からカティアを呼ぶ声がした。そこには見慣れない制服、けどよく見知った人物が立っていた。枝園 奏多、数少ないカティアの友人である。
「奏多さん。何でこんなところに……」
「あぁ、委員会の仕事でね?今終わったところなの。けど、アーセルトレイは授業中だよね、今」
「えーと、そうなんですが……」
「悩み事?話聞こうか?」
そう言って奏多はカティアの正面に座る。カティアは考え、そして頷いた。校内の友人に話せば一瞬でややこしいことになる。奏多さんは今最善の相談相手ではないか、と。もうすでに色々話してしまっている相手の方が……最近は裁貴先輩とうまくいっている奏多さんに聞くのは虚しくなるが……良いと思った。
「……バレンタインのことなんです」
「えっ?フラウさんに渡すんじゃないの?」
「それは……そうなんですが……渡したくない事情もありまして……けど渡さないのもどうなのかと……」
「あー、そうだねぇ、でも」
「奏多さんは!奏多さんはどうされるんですか?」
応えを無視して、食い気味に聞かれた奏多は思いがけない問いに一瞬フリーズした後、頰を赤らめてこう言った。
「ジャスくんにね、あげたいんだけど。何をあげるか迷ってて」
「チョコ、じゃないんですか?」
「うん、チョコは作るんだけど。チョコとは別にプレゼントを添えるの。贈るものによって意味が変わるんだよ。例えば……ベルトとかだと束縛したいとか?」
「お、重いですね……」
「変な意味じゃないよ!私だってそういう物贈るつもりは無いんだから!」
慌てて取り繕う一つ上の先輩を眺めながらカティアは考え事をする。私にも奏多さんにとっての裁貴先輩のような人ができるのかと。まぁ期待はしてませんが、と胸の中でつぶやく。
「ねぇ、もし迷ってるなら私と一緒に作らない?チョコ」
「えっ、良いんですか?」
「うん、みんなに配る用の義理チョコも作るからその一つを私たちからって言って渡せば変な意味はつかないんじゃないかな?」
「それは……名案ですね!ありがとうございます、奏多さん!」
「それじゃあ、放課後またここに迎えに来るね。ジャスくんの家のキッチン使お、広くて便利なんだ〜」
「えっ、先輩がいるんじゃ……」
「ん〜帰ってこないでって頼んだから、大丈夫だと思う。機嫌悪いふりしたから落ち込んでるだろうし」
ふふふっと笑う奏多さんはすごく楽しそうにしている。悪い女というやつですね、けど、大切に思える相手がいるって素敵なことだと思います。私だって一人の乙女として憧れないわけではありません。でも我が王以上の方はなかなかいないですし、我が王に対してそんな感情を抱いたこともないですから……。って誰に言い訳してるんでしょうか。
「それじゃ、私学校に帰らなきゃ。授業を特別に抜けてるだけだから。またあとでね!」
奏多さんはそういうと慌てて出て行ってしまった。カティアは、一人になったところで冷めたコーヒーに口をつける。ブラックはやっぱり苦かった。
「チョコとは別の贈り物、それぞれに意味が……調べてみますか」
苦めのコーヒーを一気に喉に流し込むと、カティアはショッピングモールに出向いていった。
2月14日、バレンタインデー当日。世間はこのイベントで賑わっている。別に今日渡さなくても良いのに、なんてカティアは考えながらカバンに入っている小さなラッピングバッグに手を伸ばし存在を確認する。
「せっかく作ったものですし、みんなに渡すものの一つですから特別な意味などありません」
自分自身に言い訳しながら、昼休憩までそわそわしながら授業をこなしていく。クラスの友人たちも似たようなもので浮き足立った雰囲気が肌で感じられる。
「カティ、迎えに来たよ」
「うっ、我が王」
「どうかしたの?」
「いえ、なんでもありません。今日は天気もいいですから中庭でランチにしましょう」
こそこそとこっちを伺うクラスの女子に舌を出しつつ、速足で中庭へ向かうカティア。いつもと雰囲気の違う彼女に違和感と納得感を感じて嬉しそうなフラウ。二人の雰囲気を勘違いして上がる黄色い歓声。いつも以上に頭の痛いカティアは着いて早々カバンからラッピングバッグを取り出してフラウの胸に押し付けた。
「我が王、プレゼントです」
「これは……バレンタインのチョコかな?」
「そうですが、これは義理です。みんなにも配ったものの一つですから」
「……そっか、ありがとう、カティ」
残念そうな、嬉しそうな微妙な表情を浮かべるフラウを見てカティアは顔を背けた。わざわざ義理だと念を押しておいて、自分が罪悪感を感じていることに苛立ちを感じる、自分の自己中心的な傲慢な態度に。本当ならこんなことはしたくない。なんて私が言える言葉ではないですが……と自虐しつつ。フラウのそういった気持ちに応えるつもりなどないし、期待をさせるつもりもない。ただ、カティアは一方的に傷つけたいわけでもなかった。
「ん?これは、ハンカチかな。なんでこんなものを?」
「それはチョコとは別に我が王へのプレゼントです。意味は特にないですが、お好きなデザインだと思いまして」
「本当に?それは嬉しいな、気に入ったよ。ありがとう」
さっきとは打って変わって明るくなった主人の表情を読み取って複雑な気持ちになりながらランチボックスを開けてサンドイッチセットを渡す。手作りのお弁当は未だに、たまに作ってしまう。特別な意味はない、気が向いただけ。ただそれだけ。決して罪悪感を誤魔化すためじゃない……はずだ。
「うわぁ、美味しそうだね。いただきます」
「いただきます。どうですか、我が王?」
「うん、とっても美味しいよ。ありがとう、カティ」
そうですか、それは良かったです、そう口にして自分もサンドイッチを口に含んだ。それからは何事もなかったかのように日常会話や雑談、いつも通りの昼食会。ただカティアは笑顔の裏でまだ何かを迷っていた。
前日の夕方。奏多に習いつつ、チョコをラッピングしながら、カティアは一つだけ特別に用意したものをラッピングの中に入れた。
「ねぇ、カティアちゃん。それは……」
「ハンカチです、我が王へのプレゼントで」
奏多はラッピングしていた手を止めてカティアを見つめる。昼にこの話をしたばかりだったから。
「意味は……知らないわけがないよね」
「我が王は、知らないと思いますから」
「それは……ずるいんじゃない?」
「えへへ、分かってます。分かってますよ。でも……んっ!?」
「カティアちゃんが後悔しないならいいと思うよ」
カティアがそれ以上何かを言う前に、奏多はそう言って、チョコの破片をカティアの口に入れて塞いだ。カティアは口の中でそれを溶かしてから、お茶で流した。一息着いてから、カティアは奏多の方を真っ直ぐ見つめる。
「後悔は……すると思いますよ。自分の人生に後悔をしない人なんていないですから。それでも私にはそれ以上に大切なことがあるだけです」
「それ以上は聞かないでおく。でも何かあったらなんでも話してくれていいからね。私もジャスくんも協力するよ。今はそれだけ、早く包んじゃお!」
「ありがとう……ございます……」
一つしか変わらない幼い少女の抱えるものがどれだけ大きいのか、奏多には計れていない。ただこのチョコの甘さが少しは和らげてくれるといいなと思ってもう一個、一口大のチョコをカティアの口に押し込んだ。
「むぐっ、んっ!美味しいですねこれ」
「完成品の一つだからね!自信あるよ!」
「でも良かったんですか?数足りなくなりません?」
「あー、そうかも。もう素材も残ってないし、最後の人には自販機でココアでも買って……あー、謝らなきゃね、お世話になってる人なのに」
机の上に残っていた名前シールには西町 大和の文字があった。奏多は苦笑いを浮かべて大切な人の友人の顔を思い浮かべる。まぁ、西町くんには改めて何かお礼してあげようと奏多は思った。だが、西町 大和、彼にとって女子の手作りチョコは夢のまた夢である。
P.S. 後味のジャスかな
「はい、どうぞ!」
「えっ、奏多。これ……」
「私からのチョコです!ハッピーバレンタイン、ジャスくん!」
14日の朝、昨日は遅くまで帰ってこなかった正義とは全く口を聞いていない。半日ぶりに会う朝食の席で奏多はチョコを贈る。小さな一口大のハート形のチョコが数種類並んでいてどれも手の込んだ作りだった。
「ジャスくんは、子供舌だから甘いものは好き」
「子ども扱いはやめてくれよ……でも僕、貰えないんじゃないかって。昨日奏多、怒ってたから」
「えっ?あー、怒ってない怒ってない。びっくりさせたかったから家で作るのバレたくなくて。びっくりした?」
「なんだよそれ!心配したんだぞ!僕が奏多に何かしたんじゃないかって」
「んー、何かした覚えでもあるの?」
「何にもないけど!でも僕が思ってもないことで奏多が怒ったり泣いたり心配したり、色々迷惑かけたから……」
奏多は無言で正義に近づくと、母親が子をあやすように抱きしめると頭を撫でながらこう言った。
「それはね、私がジャスくんのこと大切だからだよ?大切で、大事で、大好きだから。伝わってなかったかな……」
「そんなことない!それに僕も大切で大事で大好きだ」
「えっと、食器片付けてくるね!」
「あっ、奏多?」
にやけ顔を隠しきれない奏多は恥ずかしさからキッチンに逃げ込む。最近はずっとこんな感じだったが、改めてこうなるとやっぱり恥ずかしかった。そわそわしながら戻ってきた奏多は、チョコとは別の小さめの箱を取り出した。
「あのね、ジャスくん、腕を出して」
「どうしたんだ?はい」
「ううん、左腕」
「ん?はい」
奏多は差し出された正義の左腕に腕時計をつけた。時間は壁にかかっている時間と秒針までぴったり揃っている。左腕で輝く金属光沢はまるで最初から正義の持ち物であったかのように馴染んでいた。
「これはプレゼントです、大切にしてください?」
「腕時計か、なんか、かっこいいな!」
「気に入ってくれたら嬉しいな」
「うん、気に入ったよ、これで変身できそう。ありがとう奏多!」
「あはは、ほんとヒーローが好きだね」
「当たり前だろ!奏多。僕たちはヒーローになるんだから」
そうだね、私たちはヒーローになるんだから。ジャスくん、あなたは腕時計の意味を知ってるのかな。「あなたと同じ時を過ごしたい」なかなかロマンチックな意味だけど、そういうの疎そうだからな〜。
「だから、これからもよろしくな、奏多」
意味は知らなくても、伝わってなくても、想いが一緒ならそれでいっか。これからもずっと一緒に、二人で同じ時間を刻めますように。
「よしっ、じゃあ学校行くか!」
「うんっ!あ、ネクタイまた曲がってるよ?」
その日、二人が並んで登校しているのを見かけた二人と仲の良いクラスメートは、まるで新婚夫婦のようだったと、血涙を流しながら語っている。