正義に誓う 第7章
ぴちゃんぴちゃんと、洗面台の水道から水滴が落ちる音が廊下まで響いていた。物音のしない家の中、二人の男が居間で話している。一人はこの家の主、枝園正義、もう一人は全身黒い服に身を包んだやせ型の男。顔を隠すようなマスクとグラサンを外しながら正義に営業用の笑顔を向けた。
「よぉ、で、お前が例の組織の迎えかぁ?」
「はい、本日はありがとうございます。上物らしいじゃないですか。で、娘さんはどこに?」
「……ん」
正義は視線だけを奥の扉に向けた。立てこもった娘を引きずり出すことはできていなかった。日常生活の中でも足元がふらついている正義にはバリケードを破る手段がない。妻も布団に籠ったまま出てこなくなった。何年も前の枝園の家がそのまま帰ってきたような、正義は気にしてなんかいないが。そして、迎えに来る奴に頼めばいい思っていた。
「なんです?反抗期ってやつですかね」
「さぁ?何でもいいがよろしく頼むよぉ。俺じゃ無理だったからなぁ」
「あはは、そうでしょうね、ドアは破壊しても?」
「構わねぇ」
男は薄気味い悪い微笑を浮かべながら、工具箱にあったバールをもってドアに近づく。そして思いっきり振りかぶると、ドアの金具に振り下ろした。
ガキンッと部屋の中に大きな音が響く、支えを失ったドアは居間の方に倒れた。
「あちゃ~、本当に高校生ですか?がっつりバリケード張ってるんですが」
「さっさとしてくれ、今朝から変な奴らがいるからなぁ」
「変な奴……ですか?犬に嗅ぎつけられたんじゃ……」
「そんなことはねぇよ。あいつに他人に話す勇気なんてないんだからなぁ。だろぉ、奏多ぁ」
バリケードの裏で耳を澄ませていた奏多に大きな声で言う。周囲に話せなかったわけじゃない、巻き込まないために話さなかったのだ。助けてほしいとは思っていた、だが自分で解決するのだと決意したから。私が弱いわけじゃない、奏多は自分に言い聞かせる。
「反応ないですね、寝てるんじゃないですか?」
「起きてるよ、そういう風にしつけたんだからなぁ」
朝早く起きなければどうなるか分からなかっただけだ。そのおかげで一人暮らしを始めてから寝坊することは無かったが、恨みこそすれ、感謝の感情などあるはずもない。
「では早速……奏多ちゃ~ん、お兄さんと一緒に来てくれるかな。怖いことも痛いこともしないからさ」
奏多の耳に男の優しい声が聞こえる。全部聞いていたし、何をさせられるのかも理解している。嫌だった。嫌に決まってる。だが、受け入れればすべてが丸く収まる気がして奏多は迷っていた。
「あんまり煩わせないでほしいなぁ、上物って聞いてるから今はまだ上客にしか公開してないけど、反抗的すぎるとちょ~っとやばいひとたちにもみせちゃうかもよ?」
まだ男の口調は穏やかだった、しかしだんだんと怒気が混じり始めていることに奏多は気づいている。大人しく従った方がいいのか、もしそんなことになっても裁貴くんは受け入れてくれるだろうか。いや彼なら今まで通り、何もなかったかのように接してくれるだろう。なら、大丈夫かな……。自分の判断のすべてが裁貴正義によって左右されていることに幸せを感じながら、入り口を封鎖しているベッドに手をかけた。そのとき、バタンッと玄関の方で唐突に扉が開け放たれた音がした、何人かの足音も聞こえる。
「なんだぁ、誰だうちに勝手に入ってきやがったのはぁ」
「まずっ、枝園さん、あんたやっぱ目をつけられてたんじゃないですか?」
「どういう意味だぁ……あぁん?」
おろおろとしだす男を正義は睨みつけると、玄関に続く廊下へのドアに近づいた。
「誰だぁ!ただで済むと思うなよ、今俺は気が立ってんだぁ!」
「そうなのか?じゃあ頭冷やせおっさん!」
勢いよく開いたドアの外からスーツ姿の鷹星が正義に飛び蹴りを直撃させる。吹っ飛んだ反動でそのまま居間のテーブルに叩きつけられた正義は動かなくなる。
「で、やっとしっぽを掴んだわ。売春グループの下っ端さん、いえ、あなたは幹部クラスよね」
その後ろを悠那がゆっくりと入ってきた。悠那は男の顔を見つけると満足そうにうなずく。
「な、なんのことだか分かんないな、俺はたまたまこの家に来ていただけだから……」
「あら、残念ね。証拠はばっちり、ペラペラ話すんじゃないわね。口は災いの元っていうし。私も気を付けないと」
悠那がポケットから取り出したのはボイスレコーダー。さっきまでの会話がすべて入っていた。その音声を聞いて男は青ざめるどころか余裕そうな笑みを浮かべた。鷹星はその男に近づくとバールを取り上げ、両腕をおさえる。
「じゃ、そういうことで現行犯逮捕だ。罪状はまた後で。あ、これが警察手帳ね」
「くそっ、だがまぁ、今は捕まってやる。どうせ明日には釈放されるんだからな」
「はいはい、署で全部聞かせてもらうよ。あとは頼む」
鷹星は男に手錠をかけると、枝園正義が起きていないことを確認して、男を車まで連れて行った。悠那はバリケードに近づくと、優しく話しかける。
「さてと、えっと、そこにいるのは枝園奏多さんでいいわよね?私は生活安全課の小鳥遊悠那って言います。助けに来たわ」
ゴトッと音がしてベッドがずれる。奏多には何が起こっているのか理解できていなかった。呆然としつつも、バリケードをずらして外を覗くと、一人の女性が笑顔で立っている。その奥では父親が倒れている。助かったの?なんで?誰が?いくつもの疑問が奏多の頭に渦巻いた。
「初めまして、あなたの……お友達?かしら。彼に依頼されてね、助けに来たわ」
「お友達?……裁貴くんっ!?」
悠那の後ろにいたのは奏多が夢にまで現れていた裁貴正義、その人だった。奏多は慌ててバリケードの裏に隠れると、動かなくなる。
「……奏多、どうしたんだ?どこか痛いのか?」
「いや、その、今は部屋着だから。その……」
悠那は頷くと、正義をバリケードから下がらせる。正義は下がらせようとする悠那にムッとしながらも大人しく下がった。
「あぁ、なるほどそういうことね。じゃあ男の子は入れないから、とりあえず私が行くわ。正義くんは鷹星を待ってて」
「どういうこと……分かりました」
納得できてはいないが、正義は警察官の指示に従うことにした。この人たちは信頼できる。何か理由があるのだろうから、と正義は自分を納得させる。それを見てから、悠那はバリケードの隙間から中に入った。
「改めて自己紹介、私は小鳥遊悠那、警察官よ」
「私は……枝園奏多です」
「うん、元気そうね。着替えちゃおっか」
奏多は安堵感から立っていることもできなくなり、床にへたり込んだ。長い悪夢が終わったかのような、そしてすぐそこには裁貴くんが待っている。
「あら、大丈夫?安心していいわよ。もう一人頼りになる馬鹿が外で待ってるから」
「安心したら動けなくなってしまって」
「そうよね。着替えるの手伝ってあげる、服は……これでいいかしら」
クローゼットから奏多の私服を取り出すと、器用に服を脱がせ始める。服の下の怪我を見て、悠那は息を飲んだ。怒りに拳が震えるが、今は我慢しようと思った。
「慣れてるんですね……」
「うん、最近は小さい子をお世話することもあったから」
何事もなかったように、着替えを済ませると、バリケードを崩す。悠那の手によって、ベッドや机は元の位置に戻された。悠那がそっと奏多の方を見ると、動かないまま思いつめたような表情で立ち尽くしていた。ドアの外れた入り口を見つめたままの奏多の肩に悠那は手を置く。
「さてと、じゃあ待ってる彼にお披露目ね」
「そういうのじゃないんです、まっすぐなだけ。人助けは彼の生き方ですから」
「そうなの?ふ~ん、それでもいいけどね。ほら」
奏多を肩を押して部屋の外に押し出す。ちょっとだけ抵抗して奏多は部屋の外に出た。いつもと同じ荒れた部屋、でもそこには微妙な顔をしたままの正義が立っている。
「奏多、どうして頼ってくれなかったんだ」
「……それは……。迷惑掛けたくないと思って」
「迷惑なわけないだろ!奏多は……奏多は大切なんだから」
「……裁貴くんは助けようとするでしょ。私は、あなたに、並ばなきゃ、いけないんだから!自分で頑張らなきゃダメなの!」
奏多は握ったこぶしで正義の胸をたたく。俯いたままの奏多の顔を正義は覗き込む。涙を浮かべた奏多の顔がそこにはあった。
「奏多、奏多は……僕に助けられるのは、嫌なの?」
「そういうわけじゃ……」
おろおろとして半歩足を引いた奏多の肩を掴んで止める正義。こっちを見て、と告げ奏多の目をまっすぐに見つめた。
「僕さ、奏多とずっと一緒に居られなくなってから……色々考えたんだ。それで、気付いたこともたくさんあった。僕はきっと君が自分でも思ってるより、何度も何度も奏多に助けられてる」
目線を外そうとする奏多を離さないように押さえて正義は話しかける。後ろで動き始めた影に誰も気づいていなかった。
「奏多が、僕に助けられたくないって思ったんでしょ?それってさ……正義のヒーローとしての僕?それとも、裁貴正義としての僕?」
「……」
「もしも前者のことを言ってるなら……わかった。ヒーローとして君を守ったり、救ったりしようとはもうしない。同じヒーローの君を弱いものとして見ない、守ろうと無理しない。……だけど、裁貴正義として。ただの、正義としては……僕自身が、奏多のために何かしたいって思う。辛い思いして欲しくない、ずっといつもの、優しくて頼りになって……僕の大好きな奏多のままで、僕と一緒にいて欲しい」
「そんなの……そんなの……うぅ」
奏多は正義に飛んで抱き着いた。あの日の夢のような、ただ今は夢の中じゃない。正義はちょっと驚いてから奏多の頭を撫でた。
「ごめん、なんかよく分からないこと言ったけど……僕は、奏多が離れて寂しかったんだ。結局は、それだけ。なんとなく情けないけどさ」
「私も……私もだったの……情けなくなんか……っ!危ないっ!」
正義の後ろから迫る様子のおかしい父親の姿に、奏多は気づいた。
「このクソガキっ、お前が、お前がぁぁぁぁぁっっっ」
正義は床に落ちていたバールを拾い正義の後頭部に振り下ろそうとした。奏多はそれに気付いてすぐに正義をかばうように身体を回す。奏多はその直後に来る衝撃や痛みに耐えようと目を思いっきり瞑った。
「奏多っ……!」
「お前さえいなければぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ……あ?」
振り下ろされようとしていた正義の腕は振り下ろされることは無かった。
「頭冷やせって言っただろうが!そこで寝とけ!」
鷹星は掴んでいた腕をひねり上げると、正義を床に叩きつけて制圧した。頭を強く床にぶつけた正義は気絶して動かなくなった。
「悪い、あいつがグダグダ言い出したせいで遅くなっちまった。けがはないか?」
「はぁ……遅いのよ鷹星。タイミング最悪」
「はぁ?なんで二人を助けたのにそんなこと言われねぇといけねぇんだよ」
悠那と鷹星は口喧嘩を始める。仲のいい二人の姿に、さっきまでの恐怖感も忘れて正義と奏多は笑顔になった。
「うん、応援は呼んだからすぐに救急車も来ると思う。奥にいるお母さんも失踪者の手続きがされてたからすぐに元の病院に戻れると思うわ」
「ありがとう……ございます」
「ありがとうございました、鷹星さん、悠那さん」
警察官二人は顔を見合わせて頷くと、鷹星は父親を、悠那は母親を連れて枝園家から出ていった。取り残された正義と奏多は、黙ったまま立ち尽くす。
「これからどうするんだ?」
「これからって、どうしよ。家、無くなっちゃったから」
「うちに来いよ。母さんも歓迎してくれるだろうし」
「えっ!でも……それじゃ一緒に住むってこと?」
急にもじもじしだす奏多を不思議そうに眺めながら正義は首を傾げた。
「うん、部屋は余ってるし大丈夫だと思う」
「分かった……裁貴くんのお母さんに許可取ってからだけど……未熟者ですがよろしくお願いします」
丁寧な動作で頭を下げる奏多を見て正義は大きくうなずいた後……しばらくしてから自分が何を言ったのか理解して顔が赤くなる。
「裁貴くん?どうしたの?」
「いや、その、何でもない」
「なんで顔を隠しちゃうの?」
何でもないから、と言いながら顔を何度も背ける正義の顔を何度も覗き込んで追いかけまわす奏多の表情は笑っていた。奏多が笑った顔を見るのは、何カ月ぶりだろうか、でも笑ってる方がいい。きっとこの笑顔を見るために頑張ったんだから。正義は一人で納得すると奏多の手を取って家を出る。外では鷹星と悠那が車の前で待っていた。その日は警察署で一夜を明かした。迎えに来た正義の母親と奏多の伯母が二人を抱きしめる。全部終わったのだ、全部。正義も奏多もそう感じていた。
(この件で僕は何か役に立っていたのだろうか。結局、奏多を助けたのは警察官の二人だった。僕は正義のヒーローでいられたのだろうか。裁貴正義としていられたのだろうか……)正義は少しだけ悩みを抱えたまま、日常に戻っていくことになる。
両保護者と本人たちの合意によって、奏多は裁貴家に引き取られることになった。奏多は正義の部屋の隣の部屋を借り、アルバイトという名前のお手伝いを続けることを自分から条件にして、裁貴の家に馴染んでいた。もともと入り浸っていたのだから今更だな、なんて笑いながら奏多はアンティークたちの埃を払っていた。
「そうだ、奏多ちゃん。正義を呼んできてくれる?二人に話があるの」
正義の母親が、奏多に呼びかける。その姿はいつもの優しげな母親というよりも一人の女性として真面目な表情をしていた。
『物語は終わらない……』