正義に誓う 第5章
展開が気分を害する可能性があります。耐性のない方は自衛してください。
この物語はフィクションです。
「奏多ぁ、早く飯を作れよ。もう外は暗くなるぞぉ」
居間から父親の怒号が飛んでくる、冷蔵庫には何も食材は入っていなかった。気が付けば20時近く。正義が帰ってから、しつけという21発の暴力によってもはや意識を失ってしまっていたために奏多は何も準備ができていなかった。
「あの、食べ物がなくて。買いに行ってもいいですか?」
「あん?無断外出か?」
「こうして許可取ってます」
「……だめだなぁ。あーあ、腹減ってきたなぁ、早くしてくれよぉ」
「じゃあ行ってきます」
「タイマー入れとくからな」
奏多は無言で靴を履き、家をでる。外から見れば何でもないただの家だけど、その中はただただ地獄だった。
「憂鬱だなぁ」
奏多は、なんで自分がこんな運命になっているのか分からなかった。家の外に出れば安心できるって言うわけじゃなく、今も家で秒を刻んでいるタイマーが憂鬱の種だ。私だけならまだよかった。しかし目の前で母親が同じ目にあっているのを止めることもできず、見ていることしかできないことが奏多にとって、ただ悔しくて、ただ悲しかった。
「闇を切り裂く鋭い光か……私は……なれてるのかなぁ」
独りで空を眺める、月に雲がかかり辺りは一層暗くなった。月明かりが陰る。まるで自身の状況を表しているような空模様に、奏多は怖くなってきていた。これが現実になりそうで、未来が描かれているようで。
「……あぁ、こんなことしてる場合じゃなかった……急がないと」
一番近いスーパーまで片道10分、急いで帰っても30分近くはかかってしまう。20発ちょっとでもかなり苦しかったし、お母さんもきつそうだった。この後30発もあったら私は、お母さんは大丈夫なんだろうか……。もうこれ以上は無理かもしれない。
「逃げちゃいたいなぁ……」
心の中の弱さが、思わず声に出てしまう。でも逃げちゃだめだよね、裁貴くん。奏多は心の中で問いかける。裁貴くんの強さ、裁貴くんの正義、裁貴くんの……、私はそれにこたえられなきゃいけないんだから。
「でも、もう無理かも。もう泣かないって決めたのに」
入院していた正義が目を覚ました時、涙を見せるのは最後にしようって決めたはずなのに。奏多がポケットに入っていた「正」の字をポケットの中で握りしめると、つーっと奏多の頬を雫が流れた。服の袖で涙をぬぐうと、奏多は走り出す。少しでも急いで回数を減らさなきゃ、お母さんの負担を減らすために、いや、自分の身体を守るためにも……。まだ暴力だけで済んでいることが幸いだった。
「まだ何とかして見せるよ、このままじゃ終わらせない。正義のヒーローに、私もなるんだから」
奏多は今、もう一度、決意を決める。この状況は私一人で解決しなきゃいけないんだ、家庭に問題を抱えるヒロインをヒーローのそばに置くわけにはいかないんだから。全部解決したとき、自分から正義を迎えに行くと決意する。
スーパーで買い物をして急いで家に戻る。居間にいた父親は床で眠ったまま、タイマーは26分を過ぎたところだった。
「寝てる……今タイマーをリセットすれば……もしかして」
音を立てないようにゆっくりと居間に入り、テーブルの上のタイマーを手に取った。これは果たして嘘をつくことなのだろうか。きっと嘘をついたことを誰も責めないはず。今の正義でもこれは間違っていないと肯定してくれるはずだ。奏多は一度自分に確かめるように頷くと、リセットボタンに手をかけた。一瞬の迷い、その瞬間、奏多の背後から低く寝ぼけた、だが怒りと嬉しさの入り混じった声が聞こえた。驚きと焦りから手に力が入ってしまい、リセットボタンを押してしまった。
「なぁ、奏多ぁ。何してるんだろうなぁ、なぁ?」
「えっと、帰ってきたからタイマーを止めようと思って……」
「じゃあ、そのタイマーを渡してくれるかぁ?何分だったんだろうなぁ」
奏多は拒みながらも、仕方なく表示が消えてしまったタイマーを父親に手渡した。0が並んだ表示を見た父親が口元をにやりとゆがめる。
「なぁ、俺には0しか見えないんだがぁ、これはどういうことなんだぁ?説明しろよぉ」
「……それは……。でも26分でした」
「ふ~ん、26分かぁ、じゃあ、なんかごまかそうとしたことを含めて倍で許してやろう。優しいだろぉ、俺は。感謝しろよぉ」
倍ってことは52回……そんなのに耐えられるわけがない。父親と奏多の会話を聞きつけた母親がこちらを覗いていた。奏多を睨みつけ、無言の圧力をかけてくる。まるで奏多が全部悪いんだとでもいうように。守るべきものからも責められる状況は、奏多にはまだ慣れていなかった。あの時も、私を守ってくれたのは裁貴くんだけで、そして戻ってきてからもこの人は……。そんな邪念を打ち払うように奏多は母親に対して微笑みかける。
「大丈夫だよ、お母さん。何とかするから……」
安心させるように奏多は優しくそう言った。それは母親を安心させるためなのか、自分自身を落ち着かせるためなのか分からない。誰かを守るためなら強くなれる気がした。
「へぇ、いい覚悟だなぁ。お前の覚悟に免じて、あいつにはお仕置きはしないでやろぉか」
「……どういう意味ですか」
「そのまんまの意味だよ、だがまぁ、覚悟を見せたなら、示さなきゃなぁ。あいつの分もお前が受けろ。それで許してやるよ」
結局、どっち殴ったって一緒だからなぁ。父親はそう言って椅子に座った。コップに入っていた液体を飲み干すと、息を吐き出しながら奏多に向かって汚い笑顔を向ける。奏多には奥の部屋のドアの隙間からは懇願するような目の母親の姿が見えた。
「……私が受けたら、お母さんは許してくれるんですね?」
「あぁ、子どもに嘘はつかないぞ、俺はぁ。教育に悪いからなぁ」
奏多は本当に怒っていた、ある意味ではこの男の発言が世間的に正しいとされることばかりだったから。この男の口からではなければ肯定したいことばかりだったのが。正しいとされることも間違っていることもあり、間違っていることも正しいときがある。嫌な反面教師だと、奏多は思った。
「教育に悪いって言うのなら暴力は良くないと思います」
「これは教育的指導の一環だがぁ……確かにぃ、お前の言うことも一理あるなぁ」
えっ、と奏多は父親の顔に驚いて目を向けた。この男が私の言うことを聞くなんてことがあったのかと。
「そうだよなぁ、この世じゃ、暴力じゃ解決しないもんもあるからなぁ。それに殴ったり蹴ったり、吸いもしない煙草にわざわざ火をつけるのは俺もつらいんだぁ。ドラマの見過ぎだなぁ俺も」
まだこの男は父親を名乗ろうとしているのか。この心境の変化は何なのだと、奏多は猜疑心に包まれる。
「暴力じゃ解決しないものもある。その通りだと思います」
「例えば……お前のその反抗的な態度とか、だよなぁ?」
オクターブ下がった父親の声に、奏多の身がすくむ。笑っている目も、口角の上がった口元も、父親の存在全てが恐怖の対象になっていた。
「しばらくやってきたがぁ、俺の手足も痛いし、たばこ代も馬鹿にならないし。あ、たばこ代はお前が出してるんだったかぁ、へへへ悪いなぁ」
この男は奏多にとって嫌なことばかり思い出させる。アンティークショップでバイトして、将来のためにと溜めていたお金も、もうほとんど残ってはいない。初日に反抗した時、カードや通帳、貯金箱もすべて持って行かれてしまった。
「……」
「なぁに、黙ってんだよ。父親に良い恩返しができて、嬉しいだろぉが。何だぁその目は」
「……何でもありません」
でもこれで暴力が無くなると思えば、まだ軽く感じる。所詮、この父親の考えることだ。精神的に追い詰めるとしても、私には心の支えになる友人たちが、第二の家族が、そして裁貴くんがいる。折れるわけがない。
「さてと、じゃあどうやってお仕置きするかなぁ。あぁ、そういやこの前知り合ったやつにちょうどいい奴がいたなぁ」
父親はスマホで誰かに電話を掛ける。奏多は、その間に買ってきた荷物をキッチンに運び片づけ、夕飯の準備も同時進行で進めていく。時間がないため、野菜炒めを中心に簡単なものだけで。時々聞こえてくる父親の電話相手との会話はなるべく聞かないようにしながら。一通りの準備ができて居間に戻ると、父親の会話はまだ続いていた。
「うん、おぉ。そうなのかぁ。けどまぁ、別にいいよ。で一回どれくらいになる?……え、10万にもならない?いやいやもっと取れんだろ、それ以上だと目をつけられる?あぁ、それはお互い良くねぇな。でも17だぞ……えっ、ならもっといける?マジで?やりぃ!本番込みで1回30万……いいなぁ。それで頼む。えっ?いいのかって?お仕置きだからなぁ。殴られるよりよっぽど楽しめんじゃねぇの?クスリも置いてんだろぉ?あぁ、うん、わかってるって。じゃあ明日、SoAの放課後くらいにうちに来てくれ……じゃあな……へへへへ、52回だろぉ、1500万はくだらねぇ、今までよりもよっぽど経済的じゃねぇか」
奏多が夕飯を食卓に並べ終わった時、ちょうど話が終わったところだった。気持ちの悪い笑みでニヤニヤしている父親の姿に、奏多は嫌悪感しか覚えなかった。どころか会話の内容が最低なものであることに奏多は気づき、吐き気を感じていた。
「……何の話を……」
「あぁん?奏多ぁ、お前今バイト休んでんだろぉ?お金がないと大変だからなぁ。俺が稼ぎの良いバイト先を紹介してやろうって思ってなぁ。優しい父親だろぉ?お仕置きの代わりにバイト先紹介してやるんだからぁ」
奏多は嫌な予想が当たっているような気がして足がすくみ、その場にへたり込んだ。父親はまだ1500万という大金に目がくらんでいるようだ。
「これからは暴力はやめることにするなぁ。傷物は安くなっちまうってよぉ。まぁ金があれば娯楽なんていくらでも遊べるからなぁ」
「……それってどういう……犯罪なんじゃ……」
「……犯罪だぁ?両者の合意があれば婚前の火遊びってことで見逃してくれるんだとよぉ。それが本当かどうかは確認もせずになぁ。天下の警察様も腐ってんだなぁ」
婚前の火遊び……その言葉が何を表してるのか、分からない奏多ではなかった。この、父親とも思えない男は、娘に身売りしろと言っているのだ。
「……なんだぁ、心配しなくてもいいぞぉ。クスリも置いてるっていってたし、お前も楽しめんじゃねぇかぁ?あぁ、客次第って言ってたなぁ、奏多の運がいいことを父さんは祈ってるよ」
奏多の目の前は真っ暗だった、何も光のない真っ暗な場所に立っている気分だった。この父親の言葉を理解できるがゆえに理解したくなかった。いや、理解することをやめた。このまま言うことを聞いていれば、これ以上痛い思いをしなくて済む。お父さんは楽しめるって言っていた、ならそれでもいいかもしれな…………
「痛っ……」
座り込んだとき、ポケットに入っていたものが脚に刺さっていた。今まで痛みにも気づけなかったのか、そこにあったのはやっぱりあのアクキーだった。
「さば……きくん……うっ、ぅぅぅぅぅ」
両手で握りしめたそれは、ただのキーホルダーだった。それでもそこに彼が、あの輝き続ける光そのものがいる気がした。
「早く食べないとせっかくお前が作った夕飯が冷めるぞ、お前が作る飯を食べるのもこれで最後だからなぁ。これからは豪遊三昧だぁ!」
奏多は、父親の顔も見ずに自分の部屋に駆け込んだ。何か怒鳴り声が聞こえるが、何とか机やベッドを動かして唯一のドアを封鎖する。奏多を逃がさないようにと父親が窓に取り付けた鉄格子が、今日だけは守る檻になっていることは奏多にとって皮肉だった。
「おいっ、逃がさないからな、明日迎えに来たあいつらにお前を引き渡す。52人相手にするまでは帰ってこれると思うなよ……。学校には俺から連絡入れといてやる。長期入院で2カ月くらい登校できないってな」
……楽しかった学校生活もこれで終わり、スマホも壊れちゃったから誰かに助けを求めることも立てこもってる状態じゃできない。かといって部屋から出るのはリスクが高すぎる。
「私が学校に行かなかったら……みんなは、裁貴くんは心配してくれるよね。でもみんなを巻き込みたくないなぁ」
誰かに助けを求めるのが苦手だった。誰かに迷惑をかけるのが嫌だった。そんな自分だからこんなときに誰にも頼れないのが奏多は悔しかった。無条件で助けてくれる裁貴正義の存在に救われて、自分もいつか誰かのそんな存在になりたいと願った。
「その結果がこれじゃあ、何も報われないなぁ……」
奏多は太陽が好きだった。誰の手も届かないはるか彼方の空から何もかもを暖かく照らし出す光り輝く太陽が。しかし今日だけは、この夜が明けてほしくないと願った。誰かを守って身を滅ぼす……自己犠牲はある意味ヒーローの特権だ。私が思い描いたヒーローではないけれど、裁貴くんに胸を張って、人を助けたんだよって言えるかな……。秒針は残酷にも刻一刻と進んでいく、死を考えないこともない、けどそれはヒーローにはご法度だ。生きて……笑顔でみんなの元に戻らなければ……いけないん……だか……ら……。
泣いたからか、怒ったからか、それとも立てこもって安心できたのか奏多はそのまま眠りについてしまう。絶望の中に光があるとすれば、握ったままの「正」だけが奏多に強さを与えていることか。まだ奏多は自分が一人で、一人っきりで戦っているわけではないことに気付いてはいなかった。何人もの人間が彼女のために動いていて、その中心に正義を冠した少年が立っていることに。