貴方、私を褒めなさい
人というのは不思議だと思う。あんなに人と関わるのが嫌だったのに、気が付けば自然と慣れてしまうのだから。きっとだけれども嫌うという程度には上限がある、と思う。
あれが嫌だと思っても、案外些細な事で好きに変わってしまうのだから。
とはいっても、それも人それぞれで、些細な事じゃ幾ら試そうにも嫌いなまま、好きなままだって十分ありえるわけで。
じゃあそんな僕はどちらに当てはまるのかというと、きっと、これは些細な…けれどもそれはとても大きな出来事だったに違いないんだ。
『恋の授業を…始めます』
再び差し込んだ夕日が彼女を照らす。美しく、それでいて愛おしいとさえ思わせてしまうような微笑みでを僕に向けて来て。
抗う事なんてできない。あれだけ関わる事に戸惑いを感じていたのに、今ではそんな事は遠い過去の話だったかのように。
お互いの距離が近づいていく。身体が触れる寸前まで、ゆっくりと。そして相手の顔をしっかりと、その目に焼き付けようと覗き込んで。
だって、それだけ僕は彼女に対して――。
朝日がカーテンの隙間から差し込む。丁度光が僕の瞳に当たった事で眩しさに目を覚ました。
小さな小鳥たちの泣き声が聞こえ、寝ぼけた頭はすぐに夢を見ていた事に気が付いた。
「…あ、あれ…」
まさか、恋なんて興味ないと言っておいて。たった数日しか出会っていない彼女の夢を見ていた。
「~~ッ!!」
それも恥ずかしい事に、夕日が差し込んだあのオレンジ色の教室で、お互いにいい感じの雰囲気を出していて、そのまま顔を近づけていって。
もしあのまま目が覚めずにいたら、どうしていたのだろう。容易に想像できそうなものなのに、想像しそうになると顔が真っ赤に染まっていく。
「ど、どうしたんだ僕は…! ま、まずは落ち着かないと」
時間を見る、すると午前10時と学校があったのなら大遅刻。とはいえ今日は土曜日で学校は休み。今日が土曜日で良かったという安堵とともに、その原因が昨日の彼女によるもので、モンモンとした気持ちで中々寝付けなかった為であり、思い出そうとして再び顔が熱くなっていく。
「ほ、本を読んで心を落ち着かせよう…」
中々先が読めずにいる小説を手に取る。これ以上読まずにいるとしおりを挟んでいても途中までの話を忘れてしまいそうだ。
「ええと…確か…」
ここの展開にいくまでにどういった過程を要していたか。困った事に既に色々な事があり過ぎて大分話の内容が飛んでしまっている。
そうなるとうろ覚えで読み進めるより、潔く最初から読むべきだろう。
「うう、楽しみをお預けというのは…酷だと思う…」
といって嘆くも、今日は休日。時間はまだまだ沢山ある。それに忘れてしまったのだからもう一度話を楽しめて一石二鳥ではないか。
「よーし、じっくりと読むぞー」
そう生き込んで初めのページに戻り、そして記念すべき二回目の一ページをめくろうとしたところだった。誰かが訪問してきたらしい、代わりに出てもらおうと思ったけれども、残念ながら親はお出かけ中。
とはいえ大体は荷物のハンコやら集金やら、対して他人と接するようなものでもない。仕方がないと重い腰を持ち上げて立ち上がり、そのまま玄関へ向かう。
「何だろう、親戚からの贈り物とかかな」
そう呟きながら家にあったハンコを手に持つと、ドア越しに小さなレンズを覗いて相手を確認する。
そしてそこにいた人物に、僕は驚きのあまり声を上げてしまった。
「く、く、久納さん!?」
そしてしまったと顔を顰める。今ので自分が家にいるのがばれてしまったに違いない。
恐る恐るレンズを覗く。すると満面の笑みでレンズに顔を近づけた久納さんの姿があった。
「っわっわ!!」
再びびっくりしてしまい、後ろに仰け反りながら尻餅をつく。ドテンという間抜けな音を立て、その音が彼女にも伝わったのか、クスクスと扉越しからでも笑い声が聞こえる。
「ふふ、相変わらずね」
完全にばれてしまっている、これ以上扉を閉めていても仕方がないと鍵を開けると、彼女はニッコリと微笑んだ。
「おはよう、小室くん」
「あ、お、おはよう久納さ…」
あれ、時間的にここはこんにちはじゃ…。
挨拶を交わすその最中に浮かんだ些細な疑問に、彼女は僕の心を読んだかのように髪の毛を指さした。
「髪がボサボサよ、さっき起きたばかりなんでしょう?」
「あ、う、うん…」
そういえばそうだった。まさか休日に久納さんと出会うとは思いも寄らなかった為、髪なんて気にしていなかった。だってそもそも彼女は僕の家に来てもうらうような約束なんてしていないし…。
「って、そ、それよりも…」
そうだった、そもそもどうして彼女は僕の家を知っているんだろうか。教えた覚えなんてあるはずがないのに。
「ん?」
「あ、その…どうして久納さんは僕の家を…?」
すると彼女は僕の言葉の意味がすぐに理解できなかったのか、少しだけ考えたような間が空いた。
まさかこんな事で彼女が黙るなんて思いもよらず、もしかして変な事を言ってしまったのだろうかと不安になる。しかし彼女はすぐにハッとした後に口を開いた。
「…あ、えーと…実は先生に教えてもらったのよ」
「え、ええ? どうして…!?」
「そうすれば小室くんが忘れものなんかをした時に届けられるでしょう? それに…こうして休日に会う事も出来るのだから」
そういう彼女の私服姿はとても似合っていた。
制服もきっちりと着こなしていて凛々しいと思っていたけれども、こうして白色のワンピースを着て麦わら帽子を被った彼女は、学校の時とは違った姿を見るのは中々に、表現はし難いけれども良いとだけは言っておける。
「ふふ、似合ってるかしら」
「え、えっと!! その…」
じぃっと見つめてしまっていたのに気が付かれてしまったらしい。彼女は小さく笑って見せると、その場で身体を回転させて見せた。
しかし突然そんな事を聞かれても、どう上手く言葉を返せばいいのかだなんて知る由もなく、ただ狼狽して言葉を濁してしまう。中々答えを出せずにいると、彼女は顔を俯かせる。
「…あんまり…似合ってなかったかしら」
そういって残念そうに肩を落とす彼女の姿に、僕は慌てて両手を振った。
「そ、そんな事ない! 似合ってる…凄い似合ってるよ!!」
周りのご近所に聞こえるくらいに、ハッキリと大声で叫んでしまい、自分で言っておきながら全身から汗が噴き出す勢いで熱を帯びた。
それだけならまだしも、目の前に居た当本人はとても嬉しそうに、クスクスと口元に手を当てながら笑うのだ。
「ありがとう、嬉しいわ」
「~~ッ!!」
「それじゃあ、私はここで失礼するわ。休日に邪魔してごめんなさい」
「…え? か、帰る…の?」
「ええ、小室くんから聞きたい言葉が聞けたから、今日はもう満足」
そういわれ、顔を熱くしながら口元をわなわなと動かす。
「それじゃあ…また明日」
「あ、う、うん…また明日…」
本当にただ挨拶だけをしにきただけらしい、それだけを言い残すと彼女は何事もなく僕の前を後にした。
彼女の姿が完全に見えなくなった後、ゆっくりと扉を閉める。
そして今度こそ本を読みなおそうとイスに座って一ページ目に手を掛けたところで、彼女の言っていた言葉を思い出した。
「…あれ…また…明日?」
数秒考えた後、僕は本を読むことなくたたみ、何となく部屋の片付けをした。