貴方、プロローグを続けなさい
恋は盲目、恋は嵐。
ふっと、偶然瞳に映った一冊の本。
恋なんて、興味も関心も無かった。
立ち止まり、その本を手に取ってパラパラとページをめくる。
人という生き物は、様々な『切っ掛け』によって恋が生まれるらしい。
ある人は優しさに惹かれて恋をした。
ある人は強さに惹かれて恋をした。
中には性格も何も知らない相手を、一目見ただけで恋が芽生える、なんて事もあるのだそうだ。
その恋をする為の『切っ掛け』というものは、つまりは些細な事でもいいから、自分にとって相手の良い一面を見つけるという事から始まる。
僕は始まりも終わりも知らず、そもそも恋というものを知らない。
たまたまその『切っ掛け』が見つからないのか、それとも無意識に避けてしまっているのかもしれない。
でも、そんなの関係ない、だからどっちでもいい。
馬鹿馬鹿しいと手に持った本をたたみ、元あった本棚の位置へと戻す。
恋なんて知らなくても人は生きていける。
だから、恋なんてものに興味も関心も抱いていなかった。
『貴方、私に恋しなさい』
…………彼女と出会うまでは。
その日の僕は、いつもと変わらず時間があれば一人で本を読んで過ごしていた。
余計な会話はしない。無駄な体力は使いたくない。小さい頃から人との接触を極力避けてきたせいか、僕の方にも近づいてこようだなんて物好きは一人もいない。
今日も何の面白みもない授業を全て終え、帰りの身支度を整える。最近新しく買った小説を片手に、帰り道を読みながら帰宅する。
大分読みふけっていたと思う。殆ど家に着く直前になって、授業で使った体操着を持ち帰る事をすっかり忘れてしまっていた。
殆ど家についてしまっているし、無駄な体力も使いたくない。別に明日持ち帰ればいいやと考えていた。
「…たまにはいいか」
本当にただの気まぐれだった。ただ何となくたまには、こういうのもいいかと。
普段必要性が感じられなければ走ったりしないのに、この時はたまたま走りたい気分だった。
当然体力なんて無い。足が速いという事でもない。もしかしたらいつもと同じ事の繰り返しが嫌になって、ただ我武者羅に走りたかっただけなのかもしれない。
特別な事なんて無かったし、あると言えばそれは、その日はたまたま体育着を忘れてしまった『切っ掛け』と、たまにはいいかという気分から生まれた『切っ掛け』くらい。
そんな『切っ掛け』は、恋とは何の関係も無かったはずだった。
「…っはぁ…っはぁ…疲れた…」
息を整えながら額に浮かぶ汗を拭う。全力で走ったのは何年ぶりだっただろう、こういうのもたまには悪くないかなと。
自分のクラスの前に立つ。入る前から物音一つ立たなかったから、誰も居ないものだと思っていた。
「…ッ!」
だから、教室に入ろうとしてすぐに誰か居た事に気が付いてビックリしていた。
接触は成るべく避けたい、そうは思ったものの教室に居たのは彼女一人。複数人いればそのまま帰ってしまっていたかもしれないが、一人だけなら別に話さなければいいかと。
そう思って足を踏み入れようとして、彼女の位置に違和感を感じた。
何時も必ず同じ席にしか座らないから、一目でその席が自分がいつも座っている場所だと分かる。分かっているからこそ、どうして彼女は僕の机の上に座っているのだろうと。
「…あれ…そこ…僕の席…」
思わず漏らしてしまった自分の言葉に動揺せずにはいられなかった。
同じクラスの女の子であるとはいえ、僕にとっては殆ど面識なんてない。知り合いでなければ友人でもない相手だというのに。
しかし、彼女は特に反応を示さなかった。もしかして聞こえてなかっただけなのかもしれない。
いや、そもそも席の主である本人が来た事くらい、さっき振り向いた時には気が付いているはず。なのに、どうして彼女は一歩も動こうとしないのだろう。
困惑のあまり立ち尽くしてしまう。まさかこんな状況に陥るとは夢にも思っていなかった。
でも、それよりも驚いたのが。
「ねえ」
差し込んだ夕日が名前も知らない彼女を照らす。その後ろ姿はとても儚くて、それでもって美しくって。
まるで時でも止まったかのように、魅入られたように呆然と立ち尽くし、瞬きせずに彼女を見つめて息を飲む。
すると彼女は脈略も無しに身体を半回転させて僕を真直ぐに見つめると、その小さな口で、それでもって透き通るような綺麗な声で呟いたんだ。
「貴方、私に恋しなさい」
これは出会いから始まる、僕と彼女の未知な恋の物語。
「…ぼ、僕は…えと、その…こ、恋とか…そんなの全然知らなくて…だ、だから…」
やっと硬直から解けて塞がった口が開いたと思えば、自分でも何をいっているのか分からない返答を返してしまう。今思えば、凄く動揺していたんだと。
頭の中が真っ白になって、とても混乱していたのを覚えている。
「だから!…ぼ、僕に! 僕に恋を教えてください!」
だけれども、心の何処かで空虚に感じていて、何か『切っ掛け』が欲しかったんじゃないかと。
勇気を振り絞って出した答えに、恥かしさのあまり顔が熱くなっていくのが感じられた。きっと彼女の瞳には真っ赤な顔をした僕が映っていたと思う。
「はい」
その時の彼女はとても嬉しそうに微笑んで、でも夕日の日差しのせいで耳まで真っ赤に染まっているように見えて。
「…コホン。それでは…恋の授業を始めましょうか」
でもそれは、ちょっとばかし普通の恋愛とは違って。
「それではまず、ステップ1……自己紹介」
0から始まり100にして恋を育む、ちょっとばかし不思議な、特別な恋愛。
「私の名前は久納奈々(くのうなな)…貴方のお名前は?」
そういって、久納さんは甘い声で優しく微笑んだ。