07. 転身
電脳空間。電算機が作り出す広大な仮想空間には様々な造形が存在する。水質を制御する電脳であれば水槽のような空間を作り出し、家屋への配電系統を制御する電脳であればケーブルのごった返した厳つい世界となるだろう。要はどんな仮想空間にジャックインしたのか、我々が理解しやすいよう工夫を施しているということだ。
人が仮想空間にジャックインする際には分身と呼ばれるキャラクターを作り出し、その外見情報を被って電脳空間で動作を行う。分身には特に制限は存在せず人型のものから動物、植物に至るまで各人の好みに従って設定を行うことができる。当然性別も自由自在だ。
蓮の場合は角張った人型フレームにクローム色、つまり鏡面仕上げのようなエフェクトを施したモデルを使用している。全身が銀色のまるで宇宙人のような見た目である。。
彼はソーシャルネットワーク(SNS)のとある仮想空間で人を待っていた。そこは床から壁、天井に至るまでが白色に統一され、中央に構えるテーブルと二脚の椅子すら脱色している。
片方の椅子に腰かけてじっと待っていると、部屋の隅に黒い穴が出現し、そこから重々しい人型のボディを持った物体が現れた。
「すまない、待たせてしまったな。準備に時間がかかった」
男の声だった。剥き出しになったアンドロイド用の金属フレームが目を引く。動くたびに光沢と機械音が放たれ、眼からは機械眼の赤外線レーザー、骨格の隙間からは内部配線が見て取れる。
古い映画に登場するロボット兵士のような分身だった。
「nexus06……ありがとう。急なお願いを聞いてもらって」
蓮は男が来てくれたことに感謝を述べた。nexus06と呼ばれた男は以前から交流を持っていた件の人物である。蓮とはつい先日も報酬の受け渡しをしたばかりだ。
彼は蓮の言葉に小さく頷くと、テーブルの椅子に重い体を預けて話を始めた。
「君言われたものは全て用意した。確認してほしい」
nexus06は宙に浮かび上がった窓を操作し、一つのファイルデータを蓮へと手渡した。
ファイルに格納されていたのは、ハッカーが仕事を行うために必要なプログラムを詰め込んだツールキットだった。ファイルを展開するだけで端末の管理者権限を奪取する感染構造体から、外部媒体を読み込むだけで悪性プログラム(マルウェア)を起動させるものまで様々である。近頃話題になっている身代金ソフト(ランサムウェア)も中には含まれていた。
「十分だよ。これだけ集めてもらえれば問題ない」
蓮は頼んでいた物品の充実ぶりに満足した。
銀行強盗の一件以来、霧崎蓮はある目的の為に行動を起こしていた。それはただ一人でやり遂げるには甚だ難題と言えたが、今の彼にそれは問題ではなかった。
重要なのは達成するだけの手段を手に入れる、ということ。
nexus06という現実世界では会ったこともない名無し(アノマニス)に、このような犯罪に使う道具の数々を頼んだのもその一環だった。
蓮は重ねて感謝の言葉を述べようとするが重厚な外装を誇る男は手でそれを制した。金属が剥き出しの顔に表情などありはしないが、彼の眼光には蓮に対する冷ややかな感情が現れているようだった。
「礼を言われるようなことではない。これらのツールを何に使うかなど私は知りたくもないし、君に問うような事もしたくない。ハッキリ言えば、今回の頼みは不愉快だった」
憚ることもなくnexus06は蓮を非難する。
「私は君のことを善良なホワイトハッカーだと考えていた。だがそれは間違いだった。君は今この瞬間から電脳空間を我が物顔で駆け、人様の宝を簒奪する畜生に堕ちるというわけだ」
容赦のない言葉に思わず目を瞑る。
nexus06は蓮の事を非常に高く評価していた。それはハッカーとしての腕前も然ることながら、高い技術力を得ようと挑戦を繰り返し、ゆくゆくは社会に貢献できる技術者となるという考えに賛同したからだった。
それが突然、悪意あるブラックハッカーへの転向を申し出たのである。おまけにその手伝いを自分にさせるという始末。頭にこない方が不思議なくらいだった。
赤い眼光は最後通牒を突き付けるように蓮を捉える。
放たれる言葉の重さを十二分に理解しながらも、蓮は強い眼差しで立ち向かった。
「あなたの言うことは分かる。自分がすることの罪の重さも。でも何もやらずにこのまま過ごすことは出来ない。あなたを裏切ってでも、戦わなければならないと思ったんだ」
あの一件以来、蓮の電脳では紅い炎が渦巻いていた。
戦うのだと。相手が何者であっても、自分が何者であっても、ただ脳髄の命ずるままに行動する。それだけの意志が彼の中で生まれていた。
引き返すつもりはないという蓮の態度を見てもなお男は無表情だった。
「ならば君との関係もこれまでだな。今渡したファイルは……私からの手切れ金だと思ってくれ。金は結構だ。ブラックハッカーと取引する気はないのでな」
nexus06は蓮を一瞥すると、後腐れすることもなく部屋を後にしようとする。
冷徹な態度であったが蓮はそれでも彼に感謝していた。これまで知恵や助けを借りたことは何度もあった。寂寥に満ちた生活を送る中でnexus06のとの一時は支えにもなり楽しい余暇だったと言える。最後は最低な別れになってしまったが、それでも必要な物を取り揃えてくれたのだ。
蓮はそんな心情から、彼の後ろ姿をじっと見つめる。
「最後に一つ質問がある」
「え?」
男は眼前のログアウトポイントを見ながら、背中越しに問いかけた。
「妹にプレゼントは渡せたのか? ……chrome」
終ぞ呼ばれないと思っていた自分のハンドルネームが飛び出し、蓮は目を丸くした。
振り返らないその姿に困惑するが、なるべく真摯な返答をしようと思った。
「まだだけど、妹の誕生日はもう少し先だ。大丈夫、プレゼントの目星は付いてる。……あなたのおかげだ、本当にありがとう」
「そうか。それは良かった。……ではな」
男は呟くと、今度こそ余韻を残すことなく真っ白な仮想空間から消え去った。
最後の問いにはどんな思いが込められていたのだろうか。蓮はその真意を図りかねた。
だがきっと、それは彼なりの別れの言葉だったのかもしれない。
黒い穴が消えた空間には静寂だけが残った。