エピローグ
海上都市アルカディアを震撼させた一件から半月ほどが経過していた。
連続して引き起こされていた事件の喧騒は最高潮に達し、その矢面に立たされていたのは支配者として君臨していた巨大企業の一角、世界第二位の勢力を誇ると言われるセンダイ・グループだった。度重なる非業法な行いが白日の下に晒され、さらに第三階級の取り締まりを厳しくする発端となった一年前の抗争事件すら彼らの手によるものだと判明し、世間からの非難は留まる様子を見せない。
そして改正法案を支持していた大衆の心境にも変化が表れていた。
最も市民を驚かせたのは法案を推し進めていた行政長官たる皇宗助の態度にあった。彼は一転して法案の不備を認め、しかも信じ難い苛烈さでセンダイ・グループ糾弾をした。いくら都市の司法をまとめる立場であっても、世界を股に掛ける巨大企業を相手取って戦うというのは現代を生きる人々にとって驚嘆すべき事柄にあった。
彼らは同時に宗助に惜しみない賞賛と賛同を送った。それは彼の真摯な姿勢も理由の一つであったが、何よりも彼自身が相馬英寿に妻を謀殺され、アナ―オブアルカディアの一件においても命を狙われたという、言わば被害者の立場にあったことも大きく起因した。
数々の証拠と行政長官の隙のない追及に、センダイ・グループが断罪されるのはもはや時間の問題となっていた。
そんな都市の趨勢を左右するような雰囲気の中、蓮は日がな毎日を送っていた。
あれから病院を訪れた蓮は美冬と再会を果たし、兄弟仲良くベッドで療養を取る運びとなった。例の如く最先端医療の加護を受けた彼は数日で退院することができた。目覚めない妹を置いて一人だけ家に帰るのは考えものだったが、宗助の支援を信頼していた彼は彼女を病院のスタッフに任せて日常に一足早く帰ることにしたのだ。
そうしてまた数日が過ぎ、週末の休日がやってきたのだった。
『クソ兄貴、起きろ! もう朝なんですけど』
蓮が朝の惰眠を貪っていると頭蓋によく知った声が鳴り響いた。
突然の大音量に襲われた彼は小さな悲鳴を上げ、何事かと飛び上がった。
ARの時刻を確認するとまだAM6:00ほど。起きて朝食を食べるにしても随分と余裕のある時間帯だった。
「何だよ、まだ寝れるじゃないか。お兄ちゃん疲れてるんだから、もう少し寝かせて」
誰もいない部屋で独り言を呟くと、AR越しに再び声が返ってきた。
『はあ? 病院の朝は退屈だから話し相手になれって言うのが分からないの? 可愛い可愛い美冬ちゃんがわざわざモーニングコールを送ったのに、そのクソみたいな態度は何なの? 捻りつぶすわよ?』
「ええ……それが一年間植物人間になってたやつのセリフ? 過激すぎない?」
電脳空間を通して病院のベットから美冬がコールを掛けていた。
彼女は数日前、蓮が退院したあとに長い眠りから目を覚ましていた。センダイ・グループの化学兵器によって脳に一部覚醒者と同じ幻覚作用がみられた彼女だったが、ブレインマシンインターフェース技術を駆使することで、生活に支障のないレベルにまで回復することができていた。さすがに体の方は筋力が落ちておりすぐに退院できそうにはなかったが、いすれは兄弟で暮らす日々に戻れるだろう。
そんな彼女はすでに依然と変わらない調子を取り戻し、こうして元気な声を届けていた。
『さっさと見舞いに来てくれない? もう精密検査とかは全部終わったから、面会できるわよ。こちとら一年のブランクがあるんだからそれを早いところ取り戻したいの。世相に疎いようでは天国のパパとママに顔向けできないしね』
「そうだな。まあ、今日の昼前にそっちに行くよ。渡したいものもあるし」
『ふーん? あ、あと皇桜さんとセツナ――とかいう電子精霊だっけ? ちゃんと連れて来なさいよ、クソ兄が世話になったとお礼を言わなくちゃならないから』
ここ最近の出来事を簡単にであるが聞いていた美冬は、しきりに二人を連れて来いとせがんでいた。なんでそんなに気になるのか分からなかったが、彼女曰く選定作業があるからとのこと。単にどんな人と成りなのか知りたいだけだろうが、偉く気合が入っていた。
「はいはい、分かったよ。もう話はしてるからちゃんと連れてく。……一人は人間じゃないけどな」
『よろしい。遅れたら容赦しないからそのつもりで』
そこでピッとコールが切れ、蓮は大きなため息をついた。
約束の時間まで時間はたっぷりとあるが、彼女の言うように準備を始めるとしよう。
蓮は眠い目を擦りながら重い腰を上げた。
****
美冬が入院している病院は第一区に位置する公営病院だった。
蓮は桜と共にお見舞いに行くため、待ち合わせ場所に向かってその歩を進めていた。
休日という事で街には人が溢れかえっており、途中乗った地下鉄にも遊びに出かける若者やご苦労なことにスーツを来た労働者の姿も見受けられる。人ごみのあまり好きではない蓮は普段通りフードを深く被り、耳にイヤホンを指して雑踏を歩く。
そして現実に一人である彼の傍らには、いつも通り電子精霊の姿があった。
彼女は蓮が気怠そうに歩く様子を見て苦言を呈した。
『なあ、いい加減そのオタクっぽい恰好をどうにかせよ。曲がりなりにも休日に意中の女子に会うんじゃぞ?』
「うるさい余計なお世話なんだよ。大体この格好いいだろ? まさしくハッカーって感じで」
お気に入りのスタイルを馬鹿にされた蓮はムッとなって反論するが、宙に舞うセツナはやれやれと肩を竦めた。この如何にも人間らしい挙動をする奇妙な電子精霊は桜や宗助を始めとした一部の関係者に知られることになったが、蓮の危惧したような――例えば研究対象として回収されるなどということは特になかった。
というよりは蓮も含めて、今回の騒動の一部は事実を伏せることが決定されていた。
彼は警察のデータベースハックから国防軍所有の機体を無断使用するなど、本来なら刑事責任が問われる立場にあった。だが抗争事件の被害者で幻覚症状を併発していたこと、覚醒者となったこと、加えて士道岳人の反乱など非公表の事案を知っているということで、ひとまずはお咎めなしとされていた。
蓮に課せられたのは警察機構の人間たる桜の保護観察を受け入れるというだけで、私生活や行動を制限されるという事はほとんどなかった。むしろそれを口実に桜と関わる機会が増えると喜んだぐらいだ。
ぼやっとした気持ちで歩き続けると、待ち合わせ場所である第一区の公園に辿り着いた。
入口に回ると、そこには可愛らしい私服に身を包んだ桜の姿がった。
「すいません、待たせちゃいましたか?」
待ち合わせ時間にはまだ早いが、女子を待たせたと分かり申し訳ない気持ちになった。
すると桜は手を振って笑顔で応えた。
「いえいえ、私も今来た所ですから。……では行きましょうか」
二人は横並びになって病院へと歩き始めた。
この二週間程度の間に顔を合わせることは幾度もあった二人だが、こうして落ち着いて会話をするのは久しぶりだった。あれから登校を再開した両者だったが、身分の差ではないがどこか壁があるように思われた。
「あの……宗助さん共々お二人の近況はどんな感じですか?」
皇親子の様子が気になった蓮は桜に問う。
宗助は言わずもがなタイトなスケジュールで公務と課せられた使命に励んでおり、桜もその補助と警察の方で後処理に掛かりきりだと聞いている。
「そうですね、忙しくないとは言えませんね。でも大丈夫です。それが私の……私達の仕事であり責務ですから」
桜の横顔は何ともないと語るが、大丈夫という言葉に不安を覚えた。
彼女はどんな苦しい状況でもそう言うような気がしたからだ。
どうにも不安が拭えない蓮はしばし考えた後、言葉を絞り出した。
「何かあったら言ってください。僕で良ければ力になりますから」
ありきたりなセリフではあったが、蓮は桜の為だったら本当に何でもする気だった。彼女たち親子には平穏な日常を歩んでほしいと願ったからだ。
そんな過保護とも言えるような言葉を聞き、桜は柔らかく微笑んだ。
「じゃあ私が困った時は、蓮君が助けて下さいね。私はどうにも自分だけで物事を収めようとする癖がありますから」
苦笑しつつも桜は自らの欠点を認めた。
母の命を背負っていた彼女からそんな言葉が飛び出すというのは、蓮にとっても驚きだった。
以前と様子の違う彼女は楽しそうに蓮の前に立ち、そして上目づかいで彼を見返した。
「――他の誰でもない、霧崎蓮が私を支えてください。その分だけ私も……あなたのことを支えてみせますから」
真摯な眼差しに息を呑む。心音が高鳴るのをはっきりと感じ、顔に動揺の色が表れないかが心配だった。
しかし視線を逸らすような失態だけは冒さなかった。
「分かりました。約束します」
彼女からの申し出を断る気なんてさらさらない。むしろ彼女が拒んだって勝手に手助けする所存である。この笑顔は彼が何よりも守りたいと思ったもの。
いつか彼女が呪縛から解き放たれ、身軽になるその時まで傍で支えると決めたのだから。
二人がそうやって見つめ合っていると、怪しい瘴気を放つ者が傍に現れた。
『おい。儂も居るんだが? 何二人だけのプライベート空間を創り出してるんじゃ? 捻りつぶすぞ?』
背筋が凍りつくような警告とともに、桜と蓮はハッとなる。
「おお、居たのかお前? こんにちわ」
『おう、こんにちわ――とでも言うと思ったか? 許さんぞお主ら! そんな甘酸っぱいラブラブ防壁は儂が破壊してやる!」
破壊光線でも出しそうな眼光がこちらを睨み付けるが、蓮はラブラブという言葉に困惑した。もしかして傍から見れば自分と桜はそういう風に見えたのだろうか。
「いやいや、そんな……何を、ねえ……有り得ないでしょ?」
自分と桜が恋仲になるなど天地がひっくり返ってもないだろう。冷静に分析すると悲しくなるものの、有りもしないことを期待する方が更に辛いというもの。
蓮は溜息交じりに首を振り、桜に同意を求めるように視線を向ける。
彼の機械眼に映った桜は、顔を真っ赤にしていた。
「な、何を言うのですか!? 私と彼は互いを認め合ったというだけでして、それ以上の感情は寧ろ失礼にあたるのではないかと思いますし、いやそういう考えがそもそも――」
怒っているのかどうか俄かに判断しづらい様子で、桜は顕著な動揺を示した。どう見ても普段の落ち着いた雰囲気とは違う。
呆気にとられる蓮を他所に、セツナは間髪入れず追撃した。
『ハ――どうだか? この前なんかは部屋で抱き合ったらしいではないか。儂が必死こいて助けを呼んでいる隙にお姫様抱っこまで敢行していた。……これでも言い逃れする気か?』
ぐう、と桜は仰け反って視線を泳がせる。彼女の染まった頬はセツナの打掛のように紅いままだった。
「そ、それは……仕方のなかった、場の流れみたいなものです!」
『へえ、流れで男に身を預けるとは……とんだ尻軽女ではないか!?」
「し、尻軽!? ――わ、私が!?」
桜は真っ赤な顔から青ざめた色に変わった。どうもこういう類の悪口を言われたのは初めてらしく目に見えてショックを受けている。これは助け舟を出すべきだろう。
「あー、まあ流れってあるよ。俺も幻覚とか見てたからマトモじゃなかったし……あれは事故のようなものに違いない。そう、不慮の事故だよあれは」
桜にしてしまった非礼の数々は幻覚によるものだと嘯く蓮。場を収めようとした彼なりの苦肉の策と言えた。
だが彼の予想とは裏腹に、桜とセツナは白けたような視線をぶつけてきた。
「私はそんな理由で銃や大砲に晒され、毒を盛られ、挙句の果てにあんな辱めを受けたというのですか? ――霧崎君」
「へ? い、いやそういう訳では……」
氷のように冷たい態度の桜にビビりまくってしまう。言われてみれば謝っても済む様な話ではないのかもしれないが、それにしても目の前の彼女は怖かった。今にも剣を抜いて飛び掛かってきそうだ。しかもなぜか苗字呼びになってるし。
『前も言ったがお主は女子の扱いが分かっておらんな。これは教育が必要じゃ!』
「何で電子精霊にそんなこと言われなきゃなんねーんだ!」
ARで拳を鳴らすセツナを見て、蓮は戦々恐々とした面持ちになった。
そんな勢いに押されて一歩引き下がると、目の前の女子二人(?)は同時にこちらへと詰め寄る。儚いかな、共通の敵を発見することは和平を結ぶことに真に効果的らしい。
蓮が両手を上げて白旗を示すと、疲れた顔振りの桜は溜息をついた。
「まったく、普段のあなたはどうにも頼りないですね。そんな体たらくでは助けを求められないじゃないですか。……しっかりして下さいね」
何か物足りない様子の桜はそう言って病院へと一人で向かい始めた。
『やれやれ、こんな調子では儂も安心してお主を見守ることが出来んぞ? 早いところ桜に対して誠実な対応をすることだな』
「いや、誰から始まったと思ってんだ……」
憎まれ口を叩く蓮であるがどうにも恰好がつかない。
セツナは再度肩を竦め、彼を置いて前へと行ってしまった。
一人その場に残された彼は盛大にげんなりとした顔つきになった。情けなくて目も当てられないとはこのことだろう。桜の言う通り、頼りないの一言で片が付く。
「……もしかして、不安を感じているのかな?」
空を仰ぐ蓮は自らをそう評した。
こんな当たり障りのない、平穏な時間が流れるというのに違和感を覚えている気がする。これまで息をつく間もないほど危険と隣り合わせの生活を送っていたのだ。悲劇や困難が連続したのが日常であり、今のゆったりした時間は非日常なのではないだろうか。
交差点に差し掛かったところで信号が変わり、幾人もの人々が交差した。その波に桜やセツナの姿が飲み込まれ、彼女たちの姿が視界から消え去ってしまった。
そうだ、こんな風にいとも簡単に消え去ってしまうのが今の時間なんだ。
交差路の真ん中で蓮は地面に縫いつけられたように立ち止まる。
周囲の人々は誰一人として彼に目を掛けず、各々の目的地へと歩みを続けている。
妹は今回辛うじて命を取り留めたが、両親は帰らぬ人となった。
桜やセツナを筆頭に知り合いや大事な人もできたが、彼女達もまたいつまでも今の平和をずっと甘受できるかは分からない。
今自分の立つ世界の脆さに恐れを抱き、挫けそうになる。
その時だった。
「――諦めるのか?」
耳に飛び込んできた声に呼吸が止まった。
消え去った男の影を感じた蓮は目を剥いて周囲を見渡す。
辺りは雑踏が絶えず行きかうだけで、さして変わったところは見られない。
しかし――今の言葉は確かに彼のモノだったはず。
そんなあるはずのない姿を探していると、桜とセツナが彼の前に戻って来ていた。
「蓮君、どうしたのですか?」
『全く遅いぞ! 何をしておる?』
二人は心配そうに蓮の様子を確認する。
「……い、いや、今の聞いたか?」
動揺を隠しきれない蓮は二人に問うが、彼女たちは首を傾げるだけだった。
幻聴を、いや幻覚を見たのだろうか。もしかして今もまだ自分は幻想に身をやつしているのだろうか。
そこでハッと彼の言葉を思い出した。
――覚えておけ、私はどこにでも居る。
その言葉の意味を今更ながらに思い知った。
神のように全てを見透かし、儚い夢を現実に変える誰か。
蓮が望み続け、そして背を向けた存在。
しかしそう思ったのはどうやら蓮だけだったようである。
その証拠に――その誰かの言葉によって背中を押され、彼は一歩を踏み出していた。
起きてしまった悲劇は消えない。現実は決して覆らない。
だから振り返らず、どれだけ相手が大きかろうと、どれだけ相手が恐ろしかろうと、ただ邁進するのみ。そうあの男は言っていた。
そしてそれこそが、自分達の共通理念だった。
あの男は振り返ることなく自らの敵へと立ち向かった。
だとするなら、この身もそれに倣べきだ。
「――行こう」
恐れや憂いは消え去り、機械眼に紅い炎が灯った。
そして迎えてくれた彼女達に笑顔を見せる。
この優しい嘘みたいな現実を、苦しみの果てに手に入れた夢の中を生き続ける。
ポケットに入れた腕輪、妹へのプレゼントに触れる。
ようやくここまで辿り着くことが出来た。
だから、どうか見ていて欲しい。
この夢を守り、今でも彼の世界を守護する精霊。
あの鋼鉄の背中に思いを馳せ、確固とした意志で前へと進む。
それこそが霧崎蓮の――電脳叛逆に他ならない。
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