37. 夢の続き
建物の地下を走っていた蓮は一際大きな振動に立ち止まる。振動と音からおそらくアナーオブアルカディアの低層階だと思うが、士道が何かやったのだろうかと考える。
彼はおそらくは生きてはいないだろう。それは蓮にも分かった。あの死に体で強襲部隊を迎え撃つとなれば当然自滅覚悟で挑まなければならない。目的が自分たちの走時間を稼ぐとするのなら尚のことであろう。
後ろ髪が引かれる思いがしたが、蓮は再度脱出口を目指して走る。
すると爆発音のせいか背に抱えた桜が目を覚ました。
「……ここは? 一体どうなって……」
「目が覚めたようですね。今僕たちは地下の脱出用の通路に居ます。もう少しで安全なところにつきますから」
桜に状況を手早く伝えると再び地鳴りのような衝撃が走り、通路の照明が点滅し始めた。どうやら建物のシステムが落ち、電源供給すらままならなくなったらしい。急がなければここも危険だろう。実際煙が通路に立ち込め始めている。
早急な脱出が必要だと分かったところで、桜は蓮に耳打ちした。
「私を……置いて行ってください。このままでは二人とも助からないかもしれない」
桜の言葉に蓮は耳を疑った。
「何言ってるんですか!? ここまで来て何を弱気なことを!!」
「……ですが、あなたの傷は深い。私を抱えることは相当な負担になる。……大丈夫です、私は自力で脱出します」
そう言って桜は背から降り、負傷した足を庇いながら壁を頼りに立ち上がる。だが重度の骨折をしたらしいその足では到底逃げられそうにもない。
蓮は弱弱しいその姿に怒りがこみあげてきた。
「何が自力で……そんな状態で走れるわけがない!! ふざけるのはいい加減に――」
「ふざけていません!! ……あなたにもしもの事があったら、私はどうすれば良いんですか?」
桜は険しい表情で、ともすれば今にも泣きだしそうな表情で声を絞り出す。
「私はいつもいつも、助けられてばかり。何も返してあげられてない。人の足を引っ張って……誰かの助けに縋ってばかり。そんな私が、どんな顔して……あなたの優しさに甘えることができるんですか?」
そう言って桜は俯いた。
肩を震わせているその姿を見て、蓮は尚のこと苛々した。今度は彼女へではなくそんなことを言わせてしまった自分自身に向かってだった。
しかし桜をこのまま置いていくなんてことは当然許せるはずがなかった。
蓮は覚悟を決めて蹲る桜を半ば無理やり抱えた。
「わ!? な、何を――!?」
悲しげな顔をしていた彼女は一転して驚きに包まれた。一見すると無理やりお姫様抱っこを敢行したかのように思えるが、蓮は一切を気にしないことにした。
「言っときますけど、泣き叫ぼうが抵抗しようが無理やり抱えて連れていきますからね」
「い、嫌です!! 私はあなたを巻き添えになんてしたくない!! あなたの言葉に従わなければならない理由なんてないでしょう!?」
承諾しかねる桜は蓮の胸で暴れ、彼はそれを何とか抑えつけようとする。
蓮はそこでこの場を収めるためのアイデア、もとい口約束を思い出した。
「いやありますよ。前に言ってたじゃないですか? 『私に出来ることなら、何でも協力するって』……覚えてますよ、ちゃんと」
「――な!?」
桜は呆気にとられるが、約束していたことを蓮ははっきり覚えていた。腕輪を受け取った時彼女は蓮と約束していたのだった。
「……そんな、こんな時に」
思い出したらしい桜は両手を振り回すのを止めて途端に静かになった。
その様子にほっと胸をなでおろした蓮は再度走り始める。
「あなたは助けられたことに責任を感じているかもしれない。でもそんなの気にせず、我が物顔で幸せになればいいんだ。我儘でも、横柄でも、それで別にいいんだ」
胸の中で大人しくなった桜へと語りかける。
「僕と妹の間はそんな感じだった。妹が泣いてたら何よりも優先して駆けつけた。昔は体が弱かったから、付きっ切りで看病したこともある。数えたらきりがないくらいだ」
蓮は苦笑する。よくよく考えてみれば妹の態度はもう少しぐらいは柔らくても良いんじゃないだろうか。だというのに彼女と来たら『妹のために兄がいる』などと宣うほどだ。
「でもそれは当たり前なんだ。家族だから、大事だから、過保護になっても仕方ない。桜さんだって……お父さんのためにあれだけ体を張ってたじゃないですか?」
「それは……そうかもしれませんが……」
「あなたのお母さんだって、ただそれだけなんだ。大事だから、大切だから命を投げ出してでも助けたんだ。きっと死ぬ瞬間まであなたの幸せを祈っていたはず」
蓮は思い出していた。
自分の母のこと。そして死の間際に彼女が何を言い残していたのか。
「――あなたの幸せを見守っている。……僕の母さんが最後に残してくれた言葉……きっと桜さんのお母さんも、そう言いたかったんだと思います」
息を引き取る前、消え入りそうな声で母はそう言ってこの世を去った。その言葉は何にも勝る力になり、どんな困難にも打ち勝つ支えになった。
きっと桜の母も同じことを伝えたかったはずだ。彼女の記憶を見た蓮には自信があった。
桜はしばらく目を閉じ、そして聞き返した。
「……私に、そんな大それた生き方が出来るでしょうか?」
「出来るように俺が手伝いますよ。だからあなたのためにも……今は大人しく助けられて下さい」
言うと桜は黙り込み、それ以上何かを言おうとはしなかった。
今はこれで十分だろう。彼女の傷は一言二言で癒える程浅くはない。これから長い時間を掛けて、少しず変わって行かなければならない。
目下の問題はこの場を上手く切り抜けることだ。
大見えを切った手前情けないところは見せたくないが、呼吸は荒くなりつつあった。体中が痺れているし、両足に至っては地面を蹴っている感覚が無い。どうやらポンコツの体にもガタが来始めているようだ。
『情けないのう。男子は女子の前で大法螺を吹くが、そんな体たらくでは話にならんぞ?』
突如ARに紅蓮が走ったと思うとセツナが姿を現した。
「お前……どこに行ってたんだ? 心配したんだぞ?」
『なあに手回しと……大馬鹿の尻を叩きに行っておった。ここからは儂が案内してやるから安心しろ』
彼女が言うとARに脱出ルートが表示された。どうも想定していた道は電源関係のトラブルで稼働できないらしく、少し迂回しなけれならないようだった。
蓮は表示を確認した後、再度身体に鞭を打って先を急ぐ。
視界の先では彼の歩みを先導するようにセツナが優雅に飛び回っている。
『ほれほれ! もっと足を動かして、それでは妹にも笑われるぞ!」
彼女は蓮の足がもつれそうになる度、振り返って叱咤激励の言葉を口にした。
その余りにも自由闊達な様子を見て笑みが零れる。
お節介なんだよ本当に。言われなくても走るに決まってるだろう。この電脳精霊はこの期に及んでもマイペースで、心底楽しそうに電子の海を泳いでいる。
本当に自由極まりない姿を、彼女はありありと蓮に見せつける。
どうやら妹というカテゴリーにはほとほと敵わないと彼は思った。
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地響きが幾度か鳴る中、蓮達は無事に地下通路を抜けることができた。出口から地上へと這い出ると、そこには医療施設から駆け付けた救急車やアルカディア警察の車両が見えた。どうやら安全な場所まで逃げ切ることができたらしく、一足先に到着していた招待客たちもすでに病院や警察に運ばれたようだった。
巨大企業たるセンダイ・グループよりも先んじて彼らが現れたということに驚く蓮だったが、駆けつけていた榊や部下である沢木からの話を聞いて合点がいった。
彼らの話によると正体不明の女がこのポイントに人を集めるように要請したらしい。可笑しな点はここ
に向かうまで一度も信号や渋滞にも巻き込まれず、さらに他の交通車両が譲るようにして道を空けた点にある。沢木曰く『何かに操られているように退いてくれた』とのこと。
思い当たる節のある蓮は苦笑する他なかった。
アナ―オブアルカディアの惨状を伝え、榊は引き締まった顔で応対する。
「センダイ・グループが行政長官達を狙っているというのは分かった。大丈夫、すでに警察からも部隊が出動しているし、招待客たちの安全も確保した。あとは君達だけだ」
榊はすぐさまコールを掛けて応援と事態の報告を行い、次いで蓮と桜を救急車へと案内する。
指示された車両に近づくと中から宗助が現れた。
「――桜! 無事だったか!」
「お父様。……大丈夫、彼が助けてくれました」
蓮の肩に担がれていた桜を見て宗助は心底安心したように息をつく。煤まみれになった娘を抱きかかえ、彼は蓮の方を見やった。
「ありがとう。君が居なかったらこの子は……私達は死んでいた」
「いえ、僕の力だけじゃない。……士道岳人が助けてくれたんです」
自分たちの命を狙った士道が蓮と愛娘の命を助けたと聞き、宗助は目を瞠る。
「……やつは一体どうなったんだ?」
「たぶんもう役目を終えたんだと思います。彼はあなたにセンダイ・グループを糾弾するよう言い残しました。――そしてこれを渡せと」
蓮は士道から授かったデータチップを手渡す。
巨大企業の裏を暴く証拠が内蔵されたそれを受け取り、事情を理解した宗助は頷く。
そして一転して悲しげな表情で蓮を見つめ返した。
「本当に君には申し訳ないことをした。非礼だけでなく、君の家族や未来まで私は知らず食い潰していた。……本当に、私は愚か者だ」
宗助は苦渋に満ちた表情を浮かべる。彼にしてみれば相馬という悪を見過ごし、多くの命を散らす羽目になったのだ。例え彼にその意志や責任がなかったとしても、本人からすれば身を割くような責め苦を受けてしかるべきだと感じる程だ。
「私は行政長官を辞するつもりだ。無論、この一件を全て清算してからだが……」
「……お父様」
傍らの桜は父親の悲壮を知って沈んだ顔になった。裏切られて傷つけられて、心身ともに疲弊しきった父の姿を見て、これ以上何も言えないと思ったのだろう。
だが彼女の態度とは逆で蓮は真っ向から宗助を見る。
「諦めるんですか? たかだかこれぐらいの事で?」
サラッととんでもないことを言う蓮に対し、宗助は驚愕した。
「これだけ……だと!? 何を言っているんだ!? 私は相馬がどんな人間か看破できず、あんな大惨事を……君の家族を死なせたようなものなんだぞ!?」
「辞めるというなら止めませんよ。あなたが今回の事をどう感じ、心の内で何を抱いたのか、それはあなただけのものだ。――それでも僕はあなたに諦めて欲しくない」
「……ど、どうして? 君は私に何が言いたいんだ?」
蓮の言葉が理解できない宗助はただただ困惑する。
そんな彼に向かって、蓮はずっと宗助に伝えたかったことを話すことにした。
「星環学園には特待生制度がありますよね。就学が困難な生徒は第三階級であっても支援し、学園への入学を許可する――と。僕はこの制度を利用することでこの清潔できれいな世界に来ることが出来た」
理事長である宗助は蓮の言う制度を当然知っていた。なぜならばこの規律を創り出したのは他でもない彼だったからである。
「僕の人生は家族の為にあった。どんな危険な仕事でもやった。あの汚い世界から飛び出すには金しかなかったから」
盗みに運び屋、ハッカーとしてクラッキングにも手を出した。危険は承知の上でそれをやり続けた。両親がそれに気づき、辞めろと殴られてもひたすら身をやつした。他に何をすればいいか分からなかった。何を頑張れば未来が開けるのか見当もつかなかった。
「でもある日、父が一枚のビラを持ってきたんです。そこには星環学園のことが書かれていたんです」
印刷された古めかしい紙媒体には一人の政治家の名前が刻まれていた。その男は平等な世の中を目指し、若者の育成を支援するとコメントを残していた。
「その紙切れを持って父は嬉しそうに『お前は賢いから、一生懸命勉強すればきっと認めて貰える。世の中にはこんな親切な人だって居るんだ』って言いました。……馬鹿ですよね、まるで僕が試験に落ちるとは夢にも思わなかったんだ」
懐かしい思い出に浸り、彼は苦笑いを浮かべる。
だがその何でもない出来事が彼を真っ当な道へと引き戻し、死と隣り合わせの危険な世界から助け出したのは間違いなかった。正しい目標を得た蓮はその才能を十二分に生かし、当然のように星環学園への入学切符を手に入れた。
そして同時に尊敬の念を抱いた。
この醜く残酷な世界にもこんな人が居るんだと思った。
「あなたのお蔭で、僕は正しい方向を向いて進むことができた。あなたが居なかったら僕はきっと、ずっと前に路地裏で死体になっていたと思います。だから――」
いつか対面できたら伝えたかった言葉を、蓮は喉から絞り出した。
「――ありがとうございました。僕は、あなたに救われた」
気づくと声は震え頬に熱いものが流れていた。
それ以上蓮に言えることは何もなかった。
深々と頭を下げ続けていると、宗助の方から消え入りそうな声で『そうか』と一言だけ返ってきた。
両者の間にそれ以上言葉を交わす必要性はなかった。
車両へと先導された宗助はゆっくりと大地を踏みしめ、その場を去った。
彼の後を追うように桜は介助してもらいながら車両へと向かう。
すると彼女は一度だけこちらを振り返った。
「蓮君、ありがとう。……本当に、ありがとう」
泣き顔なのか笑顔なのか分からない表情の桜は、そうして彼の前から去った。
一人残された蓮は大きく息を吐いた。
終わった。全部終わったんだ。
知る人全てが思い思いの感情を抱き、新しい戦場へと旅立った。
いや――元居た場所へ帰ったという方が適切かもしれない。
「俺も、早く帰らないと――」
彼もまたポンコツの体を引き摺るようにして、救急車の後部座席に身を預けた。
運転手に行き先を伝えると、サイレンが鳴ってエンジンが始動した。
向かう先は桜や宗助の行った病院とは違う。
胸元のポケットからもう一つのチップを取り出し、蓮はしばし目を閉じた。
『お疲れ様。よく頑張ったな』
微睡に揺れていると、お節介焼きの電子精霊が話しかけてきた。
「ああ、そうだな。お前も良く頑張ったな。……ありがとう」
『ほほう。随分と正直にお礼が言えるようになったな。ならお礼ついでにお話をしてくれ。儂は昔から枕元で、兄に物語の読み聞かせをさせておったんじゃ』
溌剌とした顔のセツナを見て蓮はげんなりした。どうやらどこの妹も兄をこき使うことが一般的らしい。
「はあ……何が聞きたいんだ?」
どんな要求が飛んでくるのかと身構える。
するとセツナは意地悪そうな笑みを浮かべ、電子の海から語りかける。
『お主の妹、美冬といったな。儂は会ったことが無いから――お前さんの口からどんな娘なのか教もう一度えてくれ』
彼女の頼みを聞き、蓮は笑い出しそうになった。
これから会いに行く妹について教えてくれ、と彼女は言う。どうやら車が付くまでの暇つぶしに使うようだった。
全く持って無理難題を言う電脳精霊だ。妹の自慢話を始めたらそれこそ日の出を見ることになるだろうに。だが頼まれたのなら仕方がないだろう。徹底的に語り尽くしてやる。
「俺の妹はな――」
しばしの休息。束の間の優しい時間が流れた。
失った物は多く、多くの嘆きがそこにあった。
でも同じぐらい大事な物が見つかった。数多くの助けによってここまで辿り着いた。
幻想から覚めても、なお少年の夢は続く。