01. 日常風景
「クソ兄貴、もう朝なんですけど。早く起きろ」
霧崎蓮が朝の惰眠を貪っていると、部屋の扉をドンドンと叩く音が聞こえてきた。
ベッドで寝息を立てていた蓮は耳障りな声に何度か呻いた。薄っすらと瞼を開き、視界に浮かび上がるAR窓の時刻を確認した。
AM6:05。
「え……まだ寝れるじゃないか。……勘弁してくれ」
朝ご飯を食べてから学校に向かうと考えても、あと三十分くらいは寝ていても良いだろう。そもそも昨日は夜遅くまで起きていたのだ。よって登校するまでに少しでも睡眠を貯めておかなければならない。
布団をかぶり直した蓮は電脳を通して直接目覚まし時計のアプリをセットし直し、再び瞼を閉じた。
「起きろ、クソ兄貴。それでもシスコンか? 大事な大事な妹が、美冬ちゃんが起きてって言ってるのよ。だから大人しく出てこい、早く!」
ドアを叩く音は段々と激しくなった。その語気も強くなる一方である。
「最終警告。今起きなければ、今日一日あなたを兄貴とは呼びません。クソシスコン野郎と呼びます。あとお母さんに『兄貴にイジメられた』と報告します。それでも良いの?」
冷え冷えとした口調で妹はそう宣告する。
何故朝早起きするのを断るだけで、それほどの罰を受けなければならないのだろうか。お兄ちゃんとは本当に世知辛い仕事だ。
選択の余地が残されていない蓮は渋々起きることにした。
「分かった。今行くから、ちょっと待ってくれ」
眠い目を擦りながら蓮はベッドから這い出た。
「よろしい。大至急リビングに来て。TVの調子が良くないから、診て欲しいの」
「……そんぐらい自分でやれよ」
口を尖がらせて反論するが、すでに美冬は部屋の前から去っていた。
蓮はデスク上の小型端末を手に取り欠伸をしながら部屋を出る。洗面所で顔を洗い、跳ねた髪を整えながら鏡の中の自分を見た。
左目を大きく見開き、鏡に映った眼球をつぶさに観察する。すると眼の動きに追従するようにウィーンと駆動装置の作動する音が聞こえた。
左目に移植した機械眼は問題ないようだ。
続いて洗面台のコップを左手で掴み、蛇口の水を注いで口に運ぶ。よく見ると彼の左手は、鉛色の外装をした機械腕――詰まるところ機械仕掛けのモノだった。
「よし、問題ないな。今日も良いカンジ」
左腕と左目。機械装備が正常に稼働することを確認した蓮はリビングへと急ぐ。
テーブルでは美冬が気怠そうに携帯端末を弄って暇をつぶしていた。彼女は都市内の公立中学校に通う学生であり、すぐに登校するのか制服を着用していた。
「遅い。私早く出なくちゃならないから、急いでTV直して。もうすぐ私が見たい星座占いが始まるから」
美冬は椅子の上で体を仰け反らし、蓮をジッと睨んだ。
小柄で整った顔立ちにツインテールの髪が目を引く。大人しくしていれば同級生の男子に噂されるぐらいの容姿をしている。しかし鋭い眼光と荒々しい物言いが尾を引き、蓮が危惧するような事態には幸いにも陥っていない。
「美冬。足をテーブルの上に乗せるのは止めろ。お行儀が悪いぞ」
淑女らしからぬ態度を注意するが、美冬は気にも留めていない様子だ。
「はいはい、それよりTVをどうにかして。こういうのは兄貴、得意でしょ。普段からどうにも冴えないんだから、こういう時ぐらいカッコいい所見せてよね」
「頼りにしてくれるのは嬉しいが、ゲームしながら言われるのはなあ……」
リボンで束ねた髪を左右に揺らし、端末から目を離さない妹に溜息をつく。件のTVを見ると、砂嵐が延々とモニターから流れていた。
蓮はポケットから先ほどの端末を取り出した。
P(Personal)D(Digital)A(Assistant)と呼ばれるこの掌に収まる端末は、アルカディアの人間であれば誰もが持っている。電脳空間に接続できる小型電算機のことで、電話、GPS、デジカメ、電子マネー、ゲーム機能等も備えた、一昔前のスマートデバイスに近いものだ。
蓮はPDAから一本のケーブルを引き伸ばし、TVの側面にある「JACK-IN」と書かれた端子へとそれを差し込む。
すると『TVの電脳に没入しますか?』という窓が目の前に浮かび上がり、迷わずそれを選択した。
突如視界に電気信号が走り、彼を取り巻く風景が塗り替わった。
赤緑青――光の三原色が幾度となく眼前を横切った後、チェス盤のように格子線が引かれた世界に蓮は立っていた。
そこはあたかも映画館のようだった。周りを取り囲む壁には大きなスクリーンがいくつも並んでおり、それぞれ違ったチャンネルの映像が映し出されている。映像の中には美冬が見たがっていた星座占いの番組もあった。
TVの仮想空間にアクセスした蓮は内部の様子を見て首を傾げた。
「おかしいな。番組は全部映っている。ということは、放送波は受信出来ている? なら何でモニターの方に反映されないんだ?」
どうにもハードウェアの故障なのか、ソフトウェアの異常なのかはっきりしない。
蓮が原因について考え込んでいるとある物体が近づいてきた。
『アー、ゴ主人サマ! イイ所二イラッシャッタ』
蓮の下へとやって来たのは、緑色の面を張り合わせた人型の物体だった。
「君がこのTVの電脳を管理している電脳精霊?」
蓮は緑の人型に向かって話しかけた。
電脳精霊とは電脳――つまりは電算機を積んだ機器(例えばPDA、TV、自動車など)に搭載されている支援プログラムのことだ。情報工学や電子工学に疎い人であっても製品を扱えるようにサポートを行う。それが電脳精霊の使命だ。
緑の電脳精霊は頭部に (^―^)と表示させると説明を始めた。
『ヘンナウイルスガ制御機構ヲ壊シヤガッタンデス! 修繕ファイルヲ企業ノHPカラダウンロードシテ貰エナイデスカ? 私ニハ電脳空間二アクセススル権限ガナイノデ』
「分かった。今からファイルをダウンロードするよ」
蓮は手早く検索窓を起動し、目的のページから修正ファイルを手に入れた。
電脳精霊はファイル受け取り、それを嬉しそうに持ち上げた。
『アリガテエ、アリガテエ。コレデオ仕事ガデキルッテモンダ』
古臭い下町言葉に苦笑した。どうやら親しみやすい性格に設定されているようだった。少し変ではあるがこれはこれで面白いのでそのままにしておく。
電脳精霊が姿を消したのを見て、蓮はTVの電脳からジャックアウトした。
肉体の感覚が戻り、意識がリビングに返ってくる。
PDAにケーブルを戻し、先ほどまで虚無を表示していたTVを窺う。画面からは朝のニュース番組が流れており、キチンと映像が映るようになっていた
『行政長官が提唱している階級制度改正法案ですが、第三階級の市民や弁護士を中心とした団体からは不満の声が挙がっており、今後もその動向には注目が集められ――』
流れている映像の解像度や音声についても問題なさそうだった。
「美冬、直ったぞ。どうだ? お兄ちゃんもやるもんだろ?」
したり顔で妹の方を見ると、彼女は鞄を持って家から出ようとする所だった。
「ありがと。でも遅かったから、先にAR窓を通して今日の運勢は確認したわ。ちなみにラッキーカラーは黒だった」
「は? なら急いで直す必要なんてなかったじゃないか! 嫌がらせか?」
「だって福利局からのお知らせで『過剰なAR・VR体験は現実世界との乖離を生むため、代用できる場合は使用を避けましょう』って言ってたじゃん?」
「いや、しかしだな……俺の健康的な惰眠生活が……」
今一つ納得できない蓮は文句を垂れる。
すると美冬は頭をガシガシ掻いて、キッと蓮を睨み付けた。
「そんな小さなことでグチグチ言わないでくれる? 私ダイエット中だから気が立ってるの。今日だって朝食抜いてるんだから」
近頃の美冬は減量中と銘打ち、食事を摂る機会を減らしていた。簡素なパックに詰められたゼリー飲料のみで栄養を賄う様子には些かやり過ぎではないかと不安を覚えていた。
「ダイエットって……その平らな胸を見るとさすがに心配になるぞ。男性よりも女性の方が脂肪は付くものなんだから、別に気にする必要は――うわっ!?」
蓮は顔目がけて飛んできた靴を間一髪で避けた。
「そういうデリカシーに欠ける発言をするからモテないのよ。大体この私に向かって……兄貴の癖に生意気なのよ! この根暗! 中二病! サイバーオタク!」
尚も美冬は玄関にあったモノを次々に投げつける。
恒例のやり取りに嘆息する蓮は、妹の気が収まるまでテーブルの陰でやり過ごす他なかった。
「はあ、もう朝から何させんのよ。……私もう行くから」
しばらくするといい加減疲れたのか美冬はドアノブに手を掛けた。そのまま外に出て行こうとするが、何を思い出したのか動きを止めてこちらを振り返った。
「ああそれと兄貴の運勢も見たけど、最悪だったわよ。ラッキーカラーは赤で『血がついても目立たないようにしましょう』だって」
「ええ……それどんな対処法? 血が出るのは確定なのかよ」
げんなりする蓮を尻目に、美冬は慌ただしく玄関から出て行った。
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靴や置物が散らばった部屋を片付けた蓮は気分を切り替えることにした。
ひとまずは朝食を摂ろう。確か大豆をベースに味付けと加工を施した合成食品が残っていたはずだ。
蓮はPDAを介して家庭内LANにアクセスし、冷蔵庫の保存品リストを確認した。大型食料店で安売りしていた人工肉のハンバーグが少々残っているようだった。
朝食のメニューを決めた蓮は早速準備に取り掛かろうとする。
『――また今日も、味気ないメシを一人で食べるのか?』
すると突然女性の声が聞こえてきた。
蓮はテーブル上のAR窓を憎々しげに振り返る。
「セツナか。……そうだよ、俺が何食べても勝手だろう。まさか電脳精霊の分際で命令するんじゃないだろうな?」
視線の先には若々しい黒髪の女性の姿があった。端正な顔立ちに加え、活発そうな瞳がクルクルと動いている。髪は身の丈にまで伸ばされ、艶やかな褐色の肌を備えていた。彼女は真紅の打掛を身に纏い、その出で立ちはまるで花魁のようである。
『いや、ただ話し相手になってやろうかなーと思っただけじゃ。儂のような美人と談笑しながら腹を満たす。うむ、まさに至福の幸せと言えるだろう』
窓越しの仮想空間で蜃気楼のようにユラユラと浮かぶ彼女は、蠱惑的な微笑を作ってみせた。プログラムとは思えない自然な笑みだった。
「話し相手って言うけどな、お前は泥棒みたいもんだろうが! 調子に乗んな!」
そんな小悪魔のようにすました顔をする彼女に文句をぶつける。
彼の苛々はひとえに彼女との出会いに原因があった。
セツナという電脳精霊が蓮の前に現れたのは二週間前のことだ。学園から帰った彼がいつものように自室の端末を起動すると、画面上に出現したのがその始まり。それからずっと彼女は、何故か霧崎家のネットワークに常駐するようになったのだ。
蓮の抗議に対しセツナはとぼけるように反論する。
『オイオイ、泥棒は言い過ぎじゃろう。大体儂は何も盗ってないぞ? ただこの家に住まわせてくれとお願いしただけじゃ』
「いつそれを許可した!? 俺は出て行けって言ったよな?」
当初セツナを悪性プログラム(マルウェア)の類だと考えた蓮は、あの手この手で消去しようと試みた。しかし対抗プログラムをいくら宛がっても効果がなく、手の施しようが無いので放置している。それが今の状態だ。
推測するに相当高度な技術で作られた電脳精霊なのだろうが、当のセツナがそれらについて全く話さないため尚のこと始末が悪かった。
「悪いことはしてないんじゃから、住むことぐらい許せ。ただお主の生活を間近で見たいだけなんじゃ。な、ええじゃろ?」
居直るセツナに抗議の目を向けるが、無意味だと悟って食事に移る。
電子レンジで解凍した薄味の合成食品を素早く平らげ、そのまま学校に向かうことにした。
『今日も星環学園とかいう、学び舎に向かうのじゃな!』
「また付いてくんのか。くれぐれもトラブルは起こすなよ」
視界に浮かび上がったセツナを横目に流す。
アパートの駐車場に降りてきた蓮はヘルメットを被り、原付きに跨って自動運転の設定を行った。電動機が始動し、進行路を示した地図と速度や残存燃料を表示した窓が視界に立ち上がった。
PDAに潜り込んだセツナは感嘆を漏らした。
『はあー、何度見ても便利なモノじゃのう。人が運転することなく、乗り物の方が勝手に目的地に向かってくれる。うーむ、文明の利器を見た』
お前の方がもっと高い技術を感じる、とは面倒だから口にしない。
AR窓を見ると一五分程度で学園に到着するようだった。今の時代、車やバイクなどの乗り物は全て自動運転によって運行され、交通システムと連動することで渋滞は発生しなくなっていた。ブレーキとアクセルが全ての車両で同時に駆動し、交通路も自動で振り分けられるのだから当然だ。
AR標識と光電センサがいくつも取り付けられた道路を潜り、一路学園を目指して原付を走らせる。鉛色の高層建築と成長速度を制御された街路樹の枝葉を見ると、ここが完全な管理社会であることを再確認した。
走り始めてしばらく経つと、退屈そうなセツナが話しかけてきた。
『そう言えばお主、ARだとかVRだとか言っておったが……一体何のことを指すんじゃ? 電脳だとかも言っておったし……儂にはよう分からん』
「お前……本当に電脳精霊なのか?」
蓮は戦慄した。普通電脳精霊ならこれらの知識について当然把握しているべきだからだ。そもそも如何にして我が家のネットワークに侵入したのだろうか。謎は深まるばかりである。
「ARは拡張現実って意味で、現実世界に情報をオーバーレイ(重ねる)技術のことを言うんだよ。例えばこれとか……」
そう言ってハンドルの上に浮かぶ進路を示す矢印を指した。
『ほほう。なら道路の上……あそこに浮いている看板もそうなのか?』
見上げると『VR異世界ファンタジーを楽しみたいのなら、センダイ・グループの頭部装着ディスプレイがオススメ! あなたも仮想世界の英雄になろう!』と書かれた企業の広告が目に入った。
「そういうこと。実際には存在してないんだけど、対応した眼鏡やコンタクトレンズを身に付けることで情報を形として認識できるってわけさ」
『ほー、触ったりはできるのか?』
「グローブを装着するか爪にシール状のデバイスを貼れば、触れる物もあるぞ」
興味深そうに頷くセツナを見て蓮はさらに説明を続ける。
「次にVRっていうのは、お前みたいな電脳精霊がいる世界のことを指すんだよ。つまり電算機が作り出した仮想現実のことだ。テーマやイメージは色々あって、それぞれ人間が理解しやすいように工夫が施されている。さっき俺が直したTVはその代表だな」
最近では仮想現実を作る電算機のことを『電脳化した人間の脳』と同じように『電脳』と呼称することが通例となっていた。おそらく技術に疎い人々からすれば区別をつけるのが難しかったのだろう、と蓮は考えている。
『そういえばお主の家のTV、あの世界もかなり凝った作りをしていたな。映写機からスクリーンまで、まるで映画館に来たような気分じゃった。変な緑のヤツが邪魔してきたがの』
「緑のヤツ? ……お前か!? TV壊したのは!」
ウイルスがどうとか緑色のナビは報告していたが、まさかセツナのことだったとは。
突然の犯人発覚に驚くがセツナは笑って誤魔化した。
『なあに過ぎたことは忘れよ。それにしても蓮、お主は世事に詳しいの』
尊敬の眼差しを向けるセツナを見て、どうにも苦い表情を浮かべてしまう。
「これぐらい小学生でも知ってるよ。むしろお前が知らなすぎだ。このバカ」
『な、なんじゃと!? お主、言って良いことと悪い事があるぞ!』
セツナの世間知らず振りを馬鹿にすると、彼女は顔を真っ赤にして怒り始めた。まるで子供が癇癪を起こしたかのように頬を膨らませ両腕を振り回す。
すると突然、原付が大きく蛇行しながら加速を始めた。
「オ、オイ!? 止めろ! 悪かった、謝るから!」
並走していたトラックが真横に迫り、蓮は悲鳴を上げて謝った。
『……フン、分かれば良いのじゃ』
彼女がそう言うと原付は元の静かな運転に戻った。
どうやらセツナが原付の電脳を乗っ取ったらしかった。それも一瞬の内にだ。理解していたことだがこの電脳精霊の能力は通常の範疇を越えている。気を許すのは危険かもしれない。
「……そう言えば、今日の運勢は最悪なんだった」
妹の言葉を思い出した蓮は、陰鬱な気持ちのまま得体の知れないプログラムと一緒に学園に向かった。