26. 幻覚
炎が辺り一面を支配している。
充満した真っ黒な煙は鼻孔を痺れさせ、まともに呼吸することですら危うかった。死骸がいくつも視界に飛び込み、ここが地獄なのだと理解する。
そんな中を懸命に走っていた。
早く、早く、家に帰らないと。
耳には人々の叫び声が届いている。でも構って等いられない。内臓が悲鳴を上げ酸素の供給が追い付かなくても両脚を動かし続けた。
早く、早く、助けに行かないと。
途中焼け爛れた死体に躓いてしまう。倒れた身体が痙攣を起こすが、脳が早く動けと命令を送る。転がっている暇などない。
「早く、家に行かないと――」
目蓋を開くと、湿った土の香りがまず鼻を刺激した。
見回すとそこが校庭に植えられた木々の真下だと分かった。
「どうしてこんな所に……」
思わず上を見上げる。はるか頭上には先ほどまで居たはずの屋上、その手摺の影が見える。
まさかあそこから落ちたのか?
訳のわからない映像で頭に割れんばかりの痛みが走ったが、どうもそのせいであの高さから転倒したらしい。
すぐに四肢を確認するが、擦り傷程度で骨折した部位などは見られない。屋上からここまでは軽く数十メートル。普通に考えればこんな軽傷で済むはずがない。
その瞬間、炎と黒煙の広がる光景がフラッシュバックされた。
「――早く、行かないと!」
疑問が頭から掻き消され、我が家に帰ろうと体を起こす。
真っ直ぐに駐輪場へと移動し、原付のエンジンを吹かして学園を後にする。
僅か十分前後の道を普段の倍以上の速度で駆け抜ける。意識がぼやけるが頭の中は焦燥感でいっぱいだった。
早く、早く、助けに行かないと。
何を助けるんだ? おかしい。家に帰っても居るのは帰宅しているはずの妹だけ。いつものように仏頂面を浮かべて兄の帰りを待っているだけなのに。
アクセルを全開にしたまま数分するとアパートの駐車場に着いた。車体を乗り捨てた蓮は階段を無我夢中で駆け上がり、ドアの前に立ってノブを回す。
突然隙間から炎が噴き出し、蓮は思わず目を覆った。驚きの余り尻餅をついて転がるように逃げる。
しかしながら目を凝らすと何も異常は見られず、視線の先にはいつもの玄関先が見えた。
「――い、今のは一体?」
確かに今、ドアを開けた瞬間に真っ赤な火が噴き出したはず。ARというには余りに現実感があり、熱や匂いまでが本物だという感触があった。
理解不能な事象に困惑しながらも中へと足を踏み入れた。
「――美冬、帰ったぞ! どこにいる!?」
家の中は照明が付いておらず、日が落ちているためか薄暗かった。すでに妹は帰宅しているはずだというのに人の気配が感じられない。自室の方に彼女は居るのだろうか。
ふとリビングのテーブルを眺める。
そこにはラップをしままの朝食、そして蓮が今朝作った弁当箱があった。彼が家を出る前に準備した時と全く同じ状態でそこに残されていた。
嫌な汗が額を流れた。美冬は朝食を食べなかったのだろうか。弁当も要らなかったのだろうか。しかし彼女は物を粗末にするような性格ではない。北部での生活を思い出せばこんなこと出来るはずがない。
彼女の存在を確かめようと部屋の方へと向かう。入口にのドアには美冬と書かれたネームプレートが提げられている。ここに来て以来、満足に足を踏み入れていない領域。絶対に入るなと厳命していた部屋だ。
でもよくよく考えるとおかしな話だ。ここに来る前、四人で暮らしていた頃には同じ布団で寝る事もザラにあった。それが突然二人で暮らすようになって、絶対に部屋に入るな等とあの子が言うものだろうか?
押しつぶされそうな不安が沸き上がった蓮は、その開かずの扉に手を掛ける。
扉を開くと埃っぽい匂いがまず鼻を突いた。
「……? え?」
目の前に広がるのは、家具も何もないまっさらな部屋。
「何だこれ? ……美冬? どこだ?」
空っぽの部屋を見渡し、呆然となった。
どうしてだ? 妹は毎日ここで寝食を行っていたはず。
これではまるで――
『――最初から誰も居なかったかのようだ。そう言いたいのだろう?』
背後からの声に振り向くと、セツナが立っていた。
蓮は彼女が言い放った言葉に違和感を抱いた。いや抱かざるを得なかった。
「何言ってる? 妹がここを出入りする所を何度も見ただろう? 悪ふざけに決まっている。きっと俺が何か怒らせてこんな質の悪い悪戯をしているんだ」
動揺しながらも蓮は部屋を振り返る。
しかし彼の言葉とは裏腹に、部屋には誰かが生活していたような形跡はなく隅の方には埃が積もっている。もう何年も使われていない空き部屋の景色が映っている。
「……おかしいじゃないか!? だってお前も見ただろう!? 妹の姿を、前にも言ってたじゃないか!? アイツがどんなヤツかって――」
そこで言葉が止まった。気づいてはならないことに、今思い至った。
セツナはゆっくりと頷き、重い口を開く。
『ああ、聞いたぞ。お前の妹がどんな娘なのか。……だって』
憐れむような視線を向け、言葉を綴る。
『――儂には妹の姿なんて、始めから見えていなかったから――』
恐るべき真実がそこにはあった。
目を逸らしたくなるような現実が傍に転がっていた。
虚構を暴かれた嘘つきは、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。