25. 狂気
その日の授業がすべて終了し、学園から人影が消えていた。流石にクラブ活動の類は自粛する動きがあり、生徒達のほとんどは用のない校舎を後にしている。
蓮は静まり切った廊下を一人歩いていた。この学園に通い始めてから一年以上が経過し、受験時に感じた新鮮さはとうの昔に消え失せている。両親からなけなしのお金を出して貰い、美しく管理された第一区の街並みを見たときは衝撃だった。スモッグで閉ざされた視界、汚染された工業用水の悪臭、暴力に満ちた漆黒の世界とは全く違う。
いつか家族と一緒に来たい――そんな理想郷がそこにはあった。
(この校舎に踏み入った時も、一人で呆気にとられてたいたな。確か道に迷った挙句、試験に遅れそうになって、それで――)
星環学園学園での最初の記憶を思い出そうとするが、映像に靄が掛かった。誰かと一緒にいたような気がする。しかし詳細を思い出せない。
蓮は思考の霧を晴らすように首を振る。今はそんな感傷に浸るべきではない。やるべきことが、立ち向かわなければならない未来がある。
屋上へと続く階段を上り重いドアを開いた。
見通しの良い開けた空間。すでに夕日は沈みつつあり、黄昏時を思わせる光景だ。
そして視線の先では桜が待ち受けていた。手摺にもたれ掛かっていた彼女は靡く髪を揺らし、悠然とした態度で蓮を見る。
「来てくれてありがとうございます。……蓮君」
「いえ、ご用件は何でしょうか? お願いした件についても返答を頂きたい」
彼女の回答如何で今後の行動が大きく左右される。だがこれまでの対応を考えれば問題ないはず。蓮はそう思っていた。
しかし彼の申し出に対し、彼女は宿敵を睨むような目つきで応えた。
「それは出来ません。危険人物を行政長官に会わせるわけにはいきませんから」
予想外の返事に蓮は目を剥いた。断られるだけならまだしも、あろうことか彼女は自分を危険人物だと吐き捨てたのだ。
「どういうことですかそれは? 説明して下さい」
蓮は感情を抑えて抗議の声を上げる。
だが彼女はまるでこちらの心境を見透かしているかのように、冷たい表情のまま口火を切った。
「殺し合いを演じた相手に物を頼むとは随分と豪胆な器をお持ちですね。本当に驚きました。まさかあなたも覚醒者だったなんて」
「――何!?」
蓮は今度こそ驚きの声を上げてしまう。
(殺し合い!? この女、俺が多脚戦車に搭乗したことを知っている!? 一体どうやって俺だと分かった!? それに……覚醒者!?)
思考が追いつかない蓮は苦々しく彼女を睨み付ける。
「その様子だと力を得てから日が浅いようですね。電脳を持つ人々の中で一握りが目覚める超能力。それを持つ者を覚醒者と呼ぶんですよ」
彼女の言う覚醒者という存在。普段なら聞き流すような馬鹿げた話だが、蓮は彼女が縦横無尽に空を駆ける姿を見ている。信じがたい戦闘能力とともに。
そして彼女の話が本当なら、自分もその力を持っているという事になるのだが。
「……何のことだがさっぱりですね。気でも触れたんですか?」
超能力云々はともかく、多脚戦車に搭乗者していたのが自分だという確証はないはず。機体から証拠となるものは全て消した。その上姿を目撃されたなんてこともない。蓮と搭乗者を結びつける手がかりなどこの世に存在しない。
だと言うのに桜は確信を持って蓮を糾弾している。これは一体どういうことだろうか。
その疑問に答えるように桜は話を続けた。
「覚醒者は力を発動させる時、電脳を一種の変性意識状態に転化させて力を行使します。私のように訓練を積んだ覚醒者はその余波を感知できるのです」
変性意識状態。麻薬等による幸福感や全知全能を伴う脳状態のことだが、それが超能力を行使する際に引き起こされると彼女は言う。
「私は同様の波動を二度感じました。一度は多脚戦車から、そしてもう一つは銀行強盗が襲ったセントラルバンクからです。……もう分かりますね?」
「……」
俄かには信じ難い。思わぬ方向から自らの行いが露見したのだと蓮は悟った。
「この二か所に存在し、なおかつ電脳化施術を受けていた人物は私以外にあなただけなんですよ。――霧崎蓮君!」
桜は鋭い声音で蓮へと向かう。両の眼には敵対的な意思がはっきりと窺える。
超能力染みた力。そんなモノの存在は未だに解せないが、彼女は蓮を断罪できるほどの論証を備えているようだった。
(説得や弁解は無理か。しかし、この女の論証は主観的なものだけだ)
追い詰められたがまだ付け入る隙はある。
そう判断した彼は観念したように両手を上げ、首を横に振った。
「分かりました、認めます。しかし糾弾される謂われはありませんね。僕はどちらの現場でも被害者の立場にあった。安全を確保するための行動だとは言えませんか?」
開き直る蓮に対し桜は真っ向から反論した。
「銀行強盗はともかく、センターでは国防軍の機体を無許可で使用している。これは重大な犯罪です。それに機体から降りるよう散々警告した上であなたは私を攻撃した」
「人質を助けるためです。あのままでは危険だった。俺はやるべきことをやっただけ。それで逮捕されるなんてまっぴら御免だ」
執拗に食い下がる蓮だが桜の追及の手は緩むことが無い。
「そもそもあの多脚戦車、あれを制御下においたことも解せない。あなたはどうやって軍用機の防壁を破ったのですか? それも含めて全てを話して頂く!」
厳しい表情の彼女は今にも飛び掛かってきそうな気迫を放っている。
蓮は冷静に相手を観察し、自らの機械腕を盗み見た。相手の戦闘能力は戦車に匹敵する。である以上無駄かもしれないが今はこれに頼る他ない。
蓮は機械腕を握りしめ、桜を真正面に捉える。
「捕まるわけにはいかない。俺にはやるべきことがある」
「やるべきこと? テロの加担でもする気ですか? 家族の為だと平然と嘘をつき、これまでの苦労や努力を投げ捨て社会へと復讐するのなら、それは無意味なことですよ」
「嘘……だと?」
吐き捨てるようなセリフに一瞬理解が及ばない。
しかしすぐにその不快な、ともすれば馬鹿にするような彼女の態度に蓮は激昂した。
「お前に俺の何が分かる!? 俺にとって家族は命よりも大事な存在だ!! その家族との健やかな生活のため、貴様の父親が嘯く――狂った政策を打破する!! 何が改正法案だ……嘘つきの分際で俺の前に立ちはだかりやがって!!」
血走った眼で絶叫する。我慢ならなかった。眼前の女が自分を侮辱していると感じた。家族の為に立ち上がったこの如何ともしがたい覚悟を、幼い頃からの夢を一笑に付したのだ。
「何だってやってやる!! 腕で足りないなら次は足を、心臓を、命だって売り払っても良い!! 父さん、母さん、美冬……家族が何者にも怯えず、明日への不安を抱かず、ただ笑って生きて居られるのなら……どんな犠牲だって厭わない!! 誰が相手でも!!」
殺す。この女を抹殺する。この願いに楯突く輩は誰であろうと排除する。
蓮は桜を学友等ではなく目障りな敵だと認識した。
しかし蓮の口上を聞いていた桜は青ざめた表情になっていた。
「蓮君、あなた……自分が何を言っているのか、理解しているのですか!?」
信じられないものを見るような彼女だが、蓮は激情に身を任せて吠える。
「分かってるんだよ、無謀なことだって事ぐらい!! でも他人を当てにして何もしなければ、必ず後悔する。この感情は俺だけのものだ!! 他人にとやかく言われてたまるか!!」
喉を潰すような勢いで叫ぶ蓮の姿を見て桜は諦めたように首を振る。
「……あなたは壊れている。それがよく分かりました。無意味な凶行はここで終わりです」
憐れむような瞳を浮かべた後、スッと身を屈めた。
瞬間、以前と同じように彼女の体が鳥のように高く跳び上がった。放物線を描いたその軌跡がこちらに延びる。
蓮はそれを迎え撃つため戦闘ソフトを起動した。格闘プログラムによって瞬時に身を引き、飛び掛ってくる桜に向かって機械腕を振るう。タイミングは完璧でその一撃は身体の中心を捉えていた。
しかし桜の体は間合いに入ったと同時にベクトルを変え、高速で放たれた拳の上を抜ける。そのまま蓮の背後を取り、背負い投げの要領で彼を地面へと叩き付けた。
「――が!?」
アスファルトに押さえつけられ抵抗するが、機械腕の出力を持ってしても脱出できない。プログラムによる模倣と本物の武術とでは技量の差が大きすぎた。
「私は訓練を積んでいます。これ以上抵抗するなら意識を奪いますよ」
頭の上から桜の警告が発せられる。それは一見すると最後通牒にように思える。
だが蓮は甘いと思った。最初の一撃で文字通り昏倒させられれば、流石にどうしようもなかった。だがこの体勢であれば問題ない。
蓮が狡猾な笑みを零すと、彼を抑え込んだはずの桜に異変が生じた。
「――く、これは!?」
異常を感知した桜はバッと蓮から離れた。
同時に蓮も体を起こし彼女の様子を観察する。
見ると白い肌に鮮血が流れていた。出血は彼を抑え込んでいた掌からのようである。
「隠し武器……機械腕に細工を!?」
手を抑えながら桜は歯痒みする。視線の先の機械腕からピンセットのように薄く細い刃が飛び出していた。近接距離の戦闘へ備えたものだったが、上手く機能したようである。
したり顔の蓮だが桜は逆にその威圧感を増した。
「これぐらいで、私が止まると思ったら大間違いです!!」
手の負傷など気にも留めず、腰を落とし再び戦闘態勢へと入ろうとする。やはり何かしらの手段で肉体を強化しており、まともな方法ではダメージを与えられそうにない。次の攻防に移れば確実に敗北する。
しかしすでに勝敗は決していた。
桜の表情は段々と蒼白な物へと変貌し、体も痙攣を起こし始めていた。
「!? これは……毒!?」
苦痛に顔を歪ませ、荒い呼吸の桜は床に倒れ込んだ。
彼女の読み通り蓮は仕込みナイフの切っ先に即効性の麻痺毒を塗布していた。裏社会で出回っている代物であり、常人であれば数分で死に至る程の危険薬物。
床に転がって苦しむ桜を見て蓮は満足そうに微笑んだ。
「セツナ、出て来い!」
それまで静観していたセツナをAR上に呼び出す。
すると真紅の打掛を揺らしながら彼女は蓮の視界に現れた。
『……何じゃ? もう勝負はついたように見えるが?」
「この女の防壁を破壊して、内部の電脳を乗っ取れ」
淡白な声音で命令する蓮に対し、セツナは気が進まないといった顔つきになった。
『……何をする気じゃ? このままだとあの娘、本当に死んでしまうぞ?』
横目にみた桜の様子に不安げな感想を述べる。桜の体からは大量の発汗と痙攣が見て取れ、急いで処置しなければ命にかかわることが分かる。
「大丈夫、解毒剤は持っている。今のうちに体の自由を奪うんだ」
蓮は機械腕から小指程度の大きさの小瓶を見せた。
「拘束しておくのか。何じゃ、てっきり儂はこの娘を殺すものかと……」
それを見てほっとした顔つきになるが、彼は冷たい声音でそれを遮った。
「いや、ちゃんと死んでもらうよ。電脳を操って自分の足で飛び降り自殺する、という形でね」
『――な!? ど、どうして!?』
動揺するセツナに向かって蓮は平然とした態度で説明する。
「この毒は解毒剤と合わせて使用すれば、司法解剖されても検出されない。その上で飛び降り自殺させれば、証拠も残さず犯人捜しもしないから安全だろ?」
『……頭を乗っ取って、儂に娘を殺させようと言うのか!? お主、気は確かか!? お主はこの娘のことを好いとったのではないのか!?』
セツナの捲し立てる様な発言を受け取り、蓮は心底呆れた顔つきになった。
「どうでもいいから早くやれ。……ああ、あと頭から地面に落とせよ。そうすれば頭をトマトみたいに潰せる。そうすればハックしたこともバレない」
買い物でもするような軽い口ぶりで話す。その姿は狂気に満ち満ちていた。当たり前のように淡々と、事務作業にかかるように感情の抑揚すら感じられない。
セツナはしばし呆然とした後、引き攣った表情のまま重い口を開いた。
『嫌じゃ、そんなことはしとうない! こんなことは間違っとるし、お主もきっと後悔する! じゃから絶対に手は貸さん!』
「――ッ!? ……そうか。ならもう頼まない」
必死な表情で訴えるセツナを見て苛立ちが湧き上がった。
蓮はセツナを無視してPDAを操作し、〈防壁破り(アイスブレーカ)〉プログラムを起動した。セツナの持つものよりもグレードは落ちるものの、時間を掛ければ桜の電脳をハックできるだろう。
AR上に無色の槍が現れ、その先端が横たわる桜へと向けられる。獲物に向けて止めの一撃を一撃を見舞おうとするが蓮はギョッとした。
苦痛に顔を歪ませている桜は必死に体を起こそうともがいている。予想よりも毒の効果が薄いのか、今にも立ち上がりそうだった。
(異常な身体能力だけでなく、薬物耐性まで持っているのか!?)
致死性の毒にも関わらず、桜の容体は回復傾向にあるように見える。
焦った蓮はすぐさま〈防壁破り(アイスブレーカー)〉を走らせた。桜の頭に浮かぶ防壁にその先端が突き刺さり、まさに氷を解かすように防御プログラムを破壊する。
攻撃を感知した桜は体を立て直そうとするが、足を縺れさせて何度も転倒する。だが意識の朦朧している彼女ははっきりとこちらを見据えている。それがとても恐ろしかった。
あと少し、そうすればこの女は脅威ではなくなる。早く目の前から消去しなければ、自分の身が危うくなる。
焦燥感に苛まれていると、プログラムが最後の防壁に風穴を開けた。
安堵した蓮はすぐさま桜の電脳へと侵入した。データ群を不正に書き換えれば彼女の思考や行動はこちらで制御できるようになり、命も簡単に葬り去れる。
「これで終わり。……さようなら、皇桜さん」
蓮は桜の記憶領域を消去しようと試みる。
すると電脳にある映像が流れた。
(――ッ!? 何だこれは!?)
肺を締め付けるような息苦しさと包み込むような温もりが伝わってきた。
狭い車内に閉じ込められ、誰かが自分に覆いかぶさっている。焦点の覚束ない視界に優しそうな女性の横顔が映り、口から血を流しながらこちらに語りかける。しかし今にも事切れそうなか細い声からは何を伝えようとしているのか判断できなかった。
(母親の記憶……なのか?)
皇桜が体験した記憶。彼女が体験した出来事のワンシーンだと理解した所で、また見える世界が転換した。
次見えた光景には冷めた校舎と一人の少年の姿があった。始めは誰か分からなかったが、蓮はすぐにその話し相手が自分だと分かる。
しかし妙だ。そこに映る自分の姿は普段鏡で見る自分よりも幾分幼く、何より恰好がみすぼらしかった。
まるで場違いな世界に迷い込んだ、名無し(アノマニス)のように。
「……!? あ、ぐああああああああ!?」
途端思考も何もかもが吹き飛び、蓮は絶叫した。
頭の中に否応なく飛び込む光景が苛烈な痛みを引き起こしていた。まるで固く閉ざした扉を無理やりこじ開けられるように、内側から頭蓋を揺さぶっている。
あまりの痛みに平衡感覚を失う。自分が地面に立っているか、上を向いているのか、前に進んでいるのかも分からない。錯綜する桜の記憶と、正体不明の痛みが絶え間なく蓮の世界を埋め尽くした。
『――おい!? 待て!? そちらに行くな!? 落ち――』
最後に辛うじて聞こえたのはセツナの叫び声だった。