心馳せ3
「……しかし、ディーネは気にならないのか?」
「はい?」
質問の意図がわからなかったらしくディーネは首を傾げた。
「その……昔のこととはいえ――」
「あぁ、そのことなら」
ごにょごにょと口の中で言葉を濁したが、ディーネはようやく私の居心地悪さを悟ってくれたらしい。
「気になりませんよ。信じてますから」
にっこりと笑って断言するディーネの愛らしさに胸が締め付けられるような切なさを覚えてつい食い入るように見つめた。
「今日リズさんのご一家にお会いしたら、なんだか安心したんです」
見つめられて照れくさそうにはにかんだディーネが彼女らの歩いていった方向へと視線を投げる。
「例えアレス様が復縁を申し出たとしても、リズさんはあんなに素敵な旦那様とかわいらしいお子様を裏切ったりしませんね」
勢い肩がはずれそうなほど激しく落ちた。
「……信じてるのは、向こうの方なのか……?」
「え? アレス様が一途なのは妖精の折り紙つきですし、もちろん信じてますよ?」
悪気はないのだろうが、傷口に塩をもみこまれている気分がして、さらに頭を抱えてしまう。
ディーネは床に膝を突いて心配そうに下からのぞき込んできた。きょとんとして顔色を伺う様子は子犬のようで、思わず抱き寄せた。
じんわりと染みてくる体温が、とても優しい。
ずっとこうしていたいと、思う。
手の届くところにいてほしいと。
けれど。
「……余計な心配させて悪かった。ディーネがどこかに行ってしまうんじゃないかと、少し焦っただけだ」
ディーネは腕の中で安心したように目を閉じ、そっと体を預けてくる。
私はディーネがいつまでも人形のように従順に私のそばにいてくれることを、心のどこかで望んでいたのだろうか。
親にも友人にも会わせず、私だけを頼りにして、狭い世界で生きるように?
……我ながら、心配されてしかるべきだ。
友人ができるのは喜ばしいことだ。それがリズベットだというのはどうにも落ち着かないが、私の都合に合わせることはない。
「ディーネ、いつでもどこでも自分の好きな場所に行き、好きな人に会ってきてもいいんだ」
言いながら公爵と言っていることがまるで同じだと思った。
「……だけど最後にはちゃんと私の元に帰ってきてくれ」
けれど公爵ほど寛容にはまだなりきれないことを自覚し、苦笑いが漏れた。すると腕の中から小さな笑い声が聞こえてきた。
「大丈夫です、私の一番の望みは死ぬまであなたのそばにいることですよ」
はにかみながらもまっすぐに見つめてくる菫色の瞳。
そっと私の腕に添えられる、細い手。
それらを眺めて、思う。
この手が離れても、心まで離れていくわけじゃない。
私がディーネを呆れさせるほど愚かでない限り、ディーネはちゃんと帰ってきてくれる。
だから、この手を離そう。
そのかわりに、努力しよう。
離しても戻りたいと思ってもらえるように。
そして誰が見てもディーネは幸せだと誇れるように――。
「――ディーネ」
その誓いを口づけで封じるべく、ゆっくりと目を伏せた。ディーネもまた、少し照れくさそうに目を閉じたのを、閉じゆく視界の終わりに見た。
――が。
「あ~っ! チュゥしてるぅ~!!」
唇が触れ合う寸前で、すぐ脇から大声が上がったのだ。
弾かれるように振り返ると、いつからいたのかどこぞの利発なお子様が、ニマニマと笑っている口元を覆って私達を見ていた。
「えっ、待ってください。してませんっ、まだしてませんから……っ」
耳まで赤く染めたディーネが慌てふためいて言い訳しようとしたが、お子様はきゃはははと実に楽しそうな笑い声をあげて庭へと逃げ出した。
「おか~さまぁ~、あのね、今ねぇお姉様達ね~!」
「お、お願いですから待ってください! 違うんです――っ!!」
大声でどこにいるのかもわからない母親に報告しつつ駆けていく少年を追いかけようとしたディーネが、思いっきりテーブルに臑をぶつけた。
「きゃあぁぁ……!?」
細い悲鳴を上げて転びそうなディーネを抱えて引き寄せるが、体勢を立て直すことができそうになかった。
私はせめてクッションになるべくディーネを抱えて後ろに倒れ込もうとし。
同じく体勢を整えようとテーブルを掴んだディーネは、クロスを掴んだまま私に引きずられ。
――結果、ディーネの悲鳴を覆い隠すほどの盛大な破壊音があたりに響いた。
「………あなたたち、何やってたの?」
割れたカップや皿、お菓子にまみれた私たちに、派手な物音に急いで戻ってきたリズベットは腕を組んで冷ややかな視線を注いだ。その隣で伯爵は大爆笑中しつつ元凶である息子の背中を叩いている。
ちなみに公爵とアベルはディーネを助け起こして怪我をしていないか入念に確認中だ。
ひとり取り残された私は、その途方もない疎外感にしばし動くことができずにいた。
「うふふ、ボク見た! チュウしてたよ!!」
答えに詰まっていたら代わりにランドハイア家のご子息が誇らしげに胸を張って答える。もはや言い返す気力が残っていなくて、ただもう頭を抱え込んで深い溜息をついた。