心馳せ2
ほんの一瞬、沈黙が澱のように漂った。
だが公爵はすぐに柔和な笑顔を私に向けてすっと立ち上がり、それを払拭した。
「さてと。せっかくここまで来たのだし少し庭を見せてもらっても構わないかな?」
「え? あぁ、どうぞ。構いません、が……?」
あまりにも唐突に空気を変えられて面食らってしまうと、公爵は笑みを深めた。
「ディーネが毎日愛でている風景を、目に焼き付けておきたいからね」
じんとした痛みが胸に染みるようだった。
ディーネが庭を散歩するのが好きだから、だろうか。
そばにおくことのできない愛娘が幸福である様をより詳細に思い浮かべられるようにだろうか――?
「お父様。お庭なら私、目を瞑っていてもご案内できます」
勇んで立ち上がったディーネの肩に、公爵はそっと手を置いて制した。
「ひとりでディーネが気に入った場所を捜してみたいんだ。ディーネ、当てたら褒美のキスをしてもらうからね」
朗らかな笑顔で本気か冗談かよくわからないことを言いながら、公爵はひとりで庭に向かって歩き出す。
「姫、ロランがどんなに君を愛していても、一人になりたい時もあるんだよ。そっとしておいてあげなさい」
「……はい」
立ちすくんだその背中を見送るディーネに伯爵は優しく声をかけ、ディーネはほのかに肩を落とした。
「さ、では私達もそろそろうちのおちびさんを探しに行こうか?」
続いてすっくと立ち上がった伯爵はリズベットに手を差し出す。
エルヴィンはお菓子をおなかいっぱい食べたら、アベルと乳母に連れられた弟リヒトと一緒に庭の探検に出かけていた。
「アベルを呼び戻せばすぐに連れてきてくれると思いますが?」
「いいのよ。少し散歩もしないとお腹の戻りが悪いし。湖畔デートの演習もしておかなくっちゃね☆」
リズベットは差し出された伯爵の腕にぎゅっと抱きついてウィンクを飛ばす。「リズはどんな姿でも十分魅力的だけどね」などと惚気ける伯爵と夫人は、公爵とは少し違った方向に向かって庭の散策に出た。
「……リズさん、いい人ですね……」
見ている方がうんざりするほどの熱愛夫婦の背中を見えなくなるまで見送ったディーネが、しんみりと呟いた。
「私はディーネがバカみたいに人がいいと思うが」
妖精も哀れんだほどだし、というのは心の中で付け足しておくに留め、冷えてしまった紅茶をようやく啜った。
「……公爵に、あんな想いをさせることはないだろうに」
思い返してもしくしくと痛みを伴う悲しいほほえみだったなと改めて感じる胸に、冷たく渋い紅茶が染みた。
「……そう…ですね。お父様には申し訳なかったと思います。でも……」
ディーネは公爵とよく似た息苦しそうに笑みをほんのりと浮かべた。
「でも、リズさんがレテ湖に行くと言い出したのは、きっと私達への謝罪のおつもりですから」
「謝罪? ……自尊心ではなく?」
空になったカップを置き、未だに立ったままのディーネを見上げる。
「はい。妖精がリズさん達に何もしないか、悪戯しても大丈夫であれば、私達がこれから少しでも安心して生活できるだろうという気遣いから危険を承知で行こうと言ってくれたんだと思います」
「…………?」
首を傾げるとディーネは軽く目を伏せてお腹を押さえた。
「アレス様は不安になることはないですか? 呪いが解けたという物証は、なにもないですから――」
私は答えられず、濃過ぎる紅茶をカップにそそいで喉を湿らせる程度に口に運ぶ。
「…………買いかぶりじゃないのか? いったいどこにそんな気遣いが見えたんだ?」
「ふふ、なんとなくです」
「買いかぶりだろう」
「……そうかもしれませんね」
舌に残る紅茶の苦みに眉をしかめると、ディーネは静かに苦笑を浮かべた。
「……あの、アレス様は」
気まずい沈黙を渋い紅茶を再び啜って埋めていると、不意に。ちょんと肘掛けに乗せていた左手にディーネが触れた。
沈んだ声になにごとかと顔色を伺ってみるが、ディーネは俯いていてよくわからなかった。
「私がリズさんと仲良くなるのは……嫌ですか?」
頼りにしてますとディーネが言い掛けた時に強引に手を引いて遮ったのを気にしているのだとすぐにぴんときたが、心の中に黒煙が燻っているようで、返事はできなかった。
聞かれるまでもなく嫌に決まっている。
けれども。
「……アレス様が嫌なら、私、友人がいなくても構いません。ちゃんとお断りします……」
添えられた手にきゅっと力がこもって、ほろほろと古い皮膚が剥がれ落ちるように痛みが染みた。
違う。
だめだ。
無意識に父か夫か選ばせてしまったのと同じように、友人と夫を天秤にかけてさせては――。
「…………ディーネ」
「はい」
ディーネは判決を待つ罪人が裁判官を見上げるような緊張した面を上げた。
「そういう、人の都合のいい人形になるのはもうやめるんじゃなかったのか?」
苦々しさを拭えないままに顔を背けると、ディーネは一瞬きょとんとし、
「………はい」
それから、花が綻ぶような笑顔を咲かせたのだった。