心馳せ1
(……部屋に戻りたい)
切に、そう願う。
ムカムカした胃の不快感は次第にキリキリキリキリとした痛みに変わってきつつある。苦し紛れに目の前のテーブルに置かれたカップに手を伸ばすが、口元にもってきただけで飲む気になれず、口をつけるフリだけして元のソーサーへと戻した。
客人が公爵だけならディーネと親子水入らずでと勧めて戻ることができたかもしれないが、油断ならないランドハイア伯爵一家もいるとなるとそういうわけにはいかず、渋々応接室に座している。
できることなら部屋に引き籠もってもう出てきたくないとさらに強く願いながら、持て余した両手を組んで庭に視線を投げた。
緑あふれる庭園に続く硝子張りの扉は開け放たれ、燦々と降り注ぐ光の筋。花の香りを含んだ風が心地よく吹き込んでレースカーテンを揺らす。
同じくレースのクロスがかけられたテーブルの上には紅茶と一緒に銀の皿に乗せられた焼き菓子やらサンドイッチなどがひしめいて甘い香りが漂っている。
予想以上に玄関先での立ち話が長くなったために、応接室にはアフタヌーンティーの用意が――なにも命じずとも応接間にとおす頃には予告外のランドハイア伯爵夫人及びご子息の分まできちんとセッティングされていたから執事をはじめとする使用人達の働きぶりには感心する――すっかりできあがっていたのだ。
その眠たくなるほど心地よい陽気のなか、小鳥のさえずりのような心地の良い声でディーネが熱心におしゃべりをしている。
そう。
このソファに針山でも仕込まれてないかと思うほどの居心地悪さの原因は、ディーネが今熱を込めて滔々と語っている例の《アレス様英雄譚》のせいだった。
ただでさえ全身がむず痒くなるような内容に「違う」と口を挟みたいのは山々なのだが――。
ちらりと盗み見た公爵はうんうんと相槌を打ちながら耳を傾けているのだけれど、それは話を聞いているというより、小鳥のさえずりに耳を澄ますようにディーネの声を楽しんでいるようにしか見えないし。
リズベットは憐れみを含んだ目でディーネを見ているし。
伯爵はなにかよくわからない含み笑いを押し殺しているし……!
この状況で下手に口を挟んでせっかくディーネがうまく伏せてくれている公爵に後ろ暗いいくつかの出来事が暴露されてしまうと、本当にディーネをさらって帰った上でリベーテ家は一族揃って命がないという空気はさすがの私にも読める。だからこれはもういっそ英雄だと勘違いしていてもらうのが我が身のためだと自分に言い聞かせてなんとかこの苦行を耐え忍んでいるのだ。
公爵に倣い、内容を聞き流して頬を上気させて嬉々として懸命に語っているディーネを微笑ましく眺め続けてどのくらいの時間が経ったのかわからないが、ようやく苦行の英雄譚披露が一通り終了した。
ほっとして長い息をつくと、リズベットが伯爵の袖を引いてやおら口を開いた。
「ねぇイグニス様、帰りにレテ湖に寄って散歩していきましょうよ」
こともなげに言われ、さすがの伯爵も驚愕の表情でまじまじと妻を見つめた。
「それは遠回りな離縁の申し出だったりするのかな?」
ほんのり弱腰な伯爵を、リズベットはひたと静かに見据える。
「かわいい息子が生まれたばかりで何を言ってるんです。ディーネちゃんがこんなに幸せそうなんですよ。私たちだって大丈夫に決まってるじゃありませんか!」
喧嘩腰を疑うほどの妻の剣幕を伯爵は苦笑いでかわし、私とディーネを交互に見つめてから、再度妻を振り返る。
「……彼らには悪いけど、せめてあと半年とか一年くらい様子をみてからじゃいけないのかな?」
「なにを気弱なこと言ってるんです! あなたの気持ちはあの二人に負けちゃう程度のものなんですか!?」
血が沸騰しているんじゃないかというリズベットの剣幕に、伯爵は軽く両手を上げて降参を示した。
「…………わかった。わかったよ、でも今日は仕事が立て込んでいるから次の休みにね」
普段は定規のようにぴしっとしているランドハイア伯爵が溜息混じりに肩を落とすのを眺めつつ、認識を改めることにした。この地方一帯の最有力権を持っているのは、ランドハイア伯ではなくその夫人なんじゃないか――と。
「……え。いえあの、やめたほうがいいのでは? 私を解放したからと言って、いたずらをやめたとは限らないですし。もし怪我でもしたら――」
一方のディーネはおろおろとリズベットの手を取った。
「イグニス様なら妖精くらい簡単にやっつけてくれるわよ」
ディーネの手を握り返したリズベットは鼻高々と言い放ったのだが、伯爵は微苦笑を漏らす。
「うん……目移りしない自信とかリズを嫌いにならない自信、あるいは趣味じゃないけど斬り伏せられる自信なら、あるんだけどね。……ただその妖精って、あのマルティナ様の姿なんだろう?」
伯爵はちらと公爵に視線を投げた。
「ロラン、私は自分の家族を守るためにやむを得ないならマルティナ様でも躊躇しないよ」
公爵は両手を組んで鼻につけると、静かに目を伏せた。
――この子の体を手に入れたら、あなたはまた毎日通ってくれるのでしょうね?
不意に、妖精の言葉が蘇ってひやりと背筋が冷えた。
――愛しくて。寂しくて。後ろめたくて。憎くて。悔しくて。でも、会いたい。会わずにはいられない。そうやって苦悩する姿を、どのくらい長く楽しませてくれるのかしら?
明日は我が身であったかもしれない公爵の心痛を思うと、リズベットの無神経さに苛立ちを覚え、なにも言えないままに公爵の反応を伺ってしまう。
一呼吸閉じていた目をゆっくりと上げてランドハイア伯爵を見た公爵は、口元にほのかな笑みを作っていた。
「………イグニス。それはマリーではなく、マリーの姿をした魔女だ。なにも私の了解を得ることではない」
ほほえみを浮かべていても、それは血を吐くような苦しげな呻きに聞こえた。
「それにね。マリーは君たちのような幸せな家庭を壊すくらいなら、自分が傷つくほうを選ぶ子だったんだよ」
余談ですが、彼らの食事リズムは中世西洋風の設定なので基本朝夕2食+そのあいだにアフタヌーンティーです。