親交を結ぶ1
案内に先立ちディーネの手を引いて歩きだそうとすると、
「あぁ、すまない。実は妻と子供達も一緒に来ているんだ。妻には既に会ったことはあると思うが改めて紹介するよ」
さっと馬車に歩み寄ったランドハイア伯が遮り、止める間もなく扉を開ける。
「出ておいで、リズ」
呼びかけられてまず返事があり、それからやや間があってから3、4歳くらいの利発そうな少年の手を引いたリズベットが降りてきた。後ろにすやすやと眠る赤子を抱いた乳母が付きそっている。
「妻のリズベットと息子のエルヴィン。それから小さいのが先日生まれた次男のリヒトだ」
伯爵の隣に立ったリズベットは強ばった表情で会釈し、父親似の息子は会釈したもののディーネの傷を見ると母親のドレスの後ろに隠れた。
「エル。こちらがリベーテ家のアレス君と、その奥様のディーネ姫だよ」
母親のスカートの裏に隠れている長男に向けられた紹介を聞きながら、咄嗟にディーネを背中に庇う。リズベットは一瞬眉を跳ね上げたが、伯爵が肩に手をおくと渋々と言った様子で言葉を呑んで俯いた。
「リズはずっと姫に会いたがっていたのだけれど、産前産後の療養が必要だったものだから私が止めていたんだよ。長いこと嫌な思いをしたままにしてすまなかったね」
「いいえ、そんな……」
伯爵の穏やかな謝罪を受けたディーネは自ら足を踏み出して私の前に進み出た。伯爵はそっとリズベットの背中を押し、肩に手を置いた。
「……リズ。ずっと、姫に言いたいことがあったんだろう?」
リズベットは俯いたまま頷いたが、言葉は出てこない。
まさか公爵までいる場で意地悪などしないだろうとは思うが、それでもわずかな緊張から身構えた。そこへ、ひょこっとリズベットのスカートの後ろから子供が飛び出てきてその前に立ちふさがった。
「お母様をいじめたら、ボクが許さないよ!」
幼い少年が、震える声で叫んでディーネを睨んだ。
一瞬目を丸めたディーネがほんの少し悲しげな笑みを作りそうになり、私も抗議の声を上げようとした。けれども、それよりも早くリズベットが頭を押さえて窘める。
「ちょっとエルヴィン! なに言ってるのよ!!」
父親によく似た小さな騎士がくるんと振り返って強い目でリズベットを見上げる。
「だって、お母様がいっぱいいっぱい泣いてたのは、このひとのせいなんでしょう? ボク、ちゃんと見てたんだからね!」
「ちっ…違うわよ! それは、私が……っ」
リズベットは珍しく言い淀み、勢いをなくしていき、エルヴィンはますます鼻を膨らませた。
「僕、おばけだって怖くないよ! ちゃんとお母様を守――」
残酷な一言に、空気が凍り付いた。
けれどそれは少年が言葉を終えるより先に砕かれることになる。
――ぱしんっ!
小気味いい平手打ちの音が響き、ぽかんとしたまま赤く腫れた頬を押さえる子供の目に、みるみる涙が溢れた。
「謝りなさい! おばけなんかじゃないんだから!!」
けれどリズベットは仁王立ちで容赦なくぴしゃりと叱りつけ、直立不動で動けない少年が唇を噛みしめてぼろぼろと涙を落とした。
「……あ、あの……私のことなら、そんな……」
「嫌な思いをさせておいてこういうのも悪いんだけどね、うちの躾に口出し無用に願おうか」
ディーネがおたおたと口を挟もうとしたが、伯爵は苦笑いでそれを止めた。
「だって……この傷がおばけみたいだって、不気味がられるって、自分でもわかっているんです。だからイグニス様、止めてください。守ろうとしたお母様に叱られるなんてあの子がかわいそうです!」
私も殴ってやりたいところだったのだが、どこまでも自分のことはあとまわしにしてお子様を庇おうとするディーネの肩に手をおいて、伯爵は頷いた。
「うん、わかっているよ。けれども、もっと大事なことがあるからリズは怒ってるんだ。姫も少し一緒に聞いておいてくれるかい?」
そういって伯爵が投げた視線につられ、私もディーネも肩を怒らせているリズベットに視線を投げた。
リズベットはひとつ息をつくと膝をつき、声も上げずに歯を食いしばって泣いている子供とまっすぐに目線を合わせた。
「痛い? でもね、あの傷は、あなたのその痛みよりもっとずっと痛い思いをしたっていうことよ」
少年はちらりとディーネの頭に巻かれた包帯を見るともじもじと手遊びをする自分の手を見つめた。リズベットはそれを許さず、ぐいっと顎を持ち上げる。
「痛い思いをしただけでも辛いのに、そのあとも無神経な人の言葉や態度で辛い思いをしているのよ。だから怪我をした人をからかったりひどいことを言ってはいけないの。もちろん、彼女だけじゃなくてほかの怪我をした人にも同じよ?」
幼い少年は、ゆっくりと時間をかけて「はい」と返事をして頷いた。途端に手のひらを返したようにしおらしくなったリズベットが、子供を抱き寄せる。
「……守ろうとしてくれたのに、叩いてごめんね」
赤く腫れた頬を撫でられると、すん、と鼻をすする音が聞こえる。
「あなたはランドハイア家を継ぎ、たくさんの人の上に立つ。誰かを守ろうとする気持ちは大事だけど、思いこみで人を傷つけるのは一番してはいけないこと。人の痛みをわかり、いたわってあげられる優しさを一番に持つようにしなさいね」
「……はい。ごめんなさい」
少年がくぐもった声で謝罪する。
「お母様にではなくて、あのお姉様に謝らなければね?」
少年がこくんと頷くと、リズベットは優しいほほえみを浮かべて息子と額を合わせた。
「……お母様もね、あなたと同じことをしてしまったの。彼女はなにも悪くないのに、ひどいことを言ってしまって、でもずっと謝ることができなかったの。それが苦しくて辛くて泣いちゃったけど、悪いのはお母様のほうなの。だから、一緒に謝ってくれる?」
再度こくんと頷いた息子と手を取り合い、リズベットはディーネに向き直った。
「息子が失礼なことを言ってごめんなさい」
「ごめんなさい」
母親と一緒にきっちり深々と頭を下げた少年の頭に、ディーネは腰を下ろしてそっと手を伸ばした。
「本当に酷い顔なのは自覚しておりますので、かまいませんよ」
ほんのりと痛みを押し隠した笑顔でディーネはそれに応じ、優しく髪を撫でた。
「それより、とても勇敢で驚きました。将来はイグニス様のように立派になるのでしょうね」
優しい笑みを浮かべたディーネに、エルヴィンは再度呻くようにごめんなさいと謝った。ディーネが「もういいんですよ」と声をかけていると、アベルが「くぅん?」と気遣わしげに少年の頬を舐める。エルヴィンがくすぐったがって笑ってしまうとアベルは誇らしげにふぁさっと尻尾を高くあげた。
「――お茶会の時のこと、」
アベルをねぎらって撫でているディーネに、リズベットが絞り出すように声をかける。
「ごめんなさい……」
リズベットはディーネの手を取り、額を当てて呻くように謝った。
「……あの、泣いて…いらしたんですか?」
ディーネが不思議そうに顔色を伺うと、リズベットは照れ隠しなのか息子の頭をぐりぐりと撫でなわしながら苦笑いを浮かべた。
「マタニティブルーも相まって、時々ね」
「なぜ…ですか……? あなたはそんなに気になさるほどのことなんか……」
過呼吸を起こすほどのことをされて気にするほどのことじゃなかったとか言ってしまうのはどうなんだ、と内心愚痴をこぼしてみたけれど、あの呪いをかけていた妖精ですら哀れんだディーネにしてみれば、リズベットの意地悪なんかなにもされていないも同然なのかもしれないと、憂鬱な気持ちを持て余してしまう。
「呪いが解けたと聞いて安心したわ。懐妊の噂を聞いてから、私のせいであなたが死んじゃうんじゃないかって、ずっと怖かった……。でも身重で謝りにも行けなくて……本当に、ごめんなさい……」
「…………っ」
震え声の謝罪にディーネが胸を打たれているのが傍目にもよくわかる。
「リズベット様……ごめんなさい……そんなに心労をおかけしていたなんて……私、全然考えもしていませんでした……」
そんな真摯な謝罪を受けてディーネが許さないなどと言うはずがなく、涙ぐんで逆に気遣う始末だ。
「あれくらいのことで倒れたのは私の事情なんです。だから……あの、お願いですからもう顔を上げてください」
懸命に慰めの言葉をかけるディーネに、ゆっくりと顔を上げたリズベットは苦笑いを深めて涙を拭った。
「……あなたって……なんだか無性になでなでしたくなる子ねぇ……」
言いながら実際にディーネの頭をしみじみと撫でるリズベットを、公爵がそうだろうそうだろうと大きく頷いて見ていた。