形勢逆転4
……霧の、中?
朧気な景色は、どこにいるのか釈然としない。それに、どこからどうやってきたのかも。
ぼんやりとあたりを伺っていると、霧の向こうから声が聞こえた。
ぐずる赤子の泣き声と、そして穏やかで優しい子守歌だった。
聞き覚えがあるその声は―――もしかして?
「あぁ、煩いわ。せっかく寝付いたっていうのに」
子守歌が途切れ、代わりに苛立たしげな呟きがこぼれ、確信を得る。
耳を澄ませば確かに、湖の畔で涼む仲のいい恋人達の話し声や、月明かりを弾く金色の網目の向こうに揺れる屋敷からかすかに片づけをする使用人達の喧噪が聞こえる。
そんなわずかな喧噪よりももっと大きな溜息が落ちた。
「口惜しいこと。このところまじないをかける魔力すら薄らいでいくわ。……あなたのせいよね、絶対」
口惜しいと言っているのに、その声には不思議と刺々しさが感じられなかった。
とーん とーん と赤子の背を優しく叩く音がする。再び、子守歌が聞こえはじめる。赤子の泣き声がふにゃあふにゃぁと弱々しくなっていく。
「――――おやすみなさい、エリー」
泣き声が止んだ後、静かに聞こえた妖精の声は優しさと穏やかさに満ちていた。
(……エリーと、名付けたのか……)
複雑な気分がした。
ディーネは子供が妖精の孤独を癒すことを願って手放すことを決意したようだったし、子守歌を歌って寝かしつける妖精は利用するためなどではなく母親の情をかけている。けれどやはりディーネがそれを手放しで喜ぶようには思えなかった。
なにも言わないけれど、きっと後悔も罪悪感も抱えている。
逡巡の最中にふわりと腕の中に重みが現れ反射的に支えると――驚くことにそこに青い瞳の赤子がいた。
「…………エ…リー……――?」
名を呼ぶと、赤子はふんわりと笑った。
ディーネによく似た笑みに胸が締め付けられるようで、腕に力を込め喉元にその小さな頭を押しつける。
――私は人の摂理に悖る存在。だから人の世には生きられません。
頭の中に凛とした声が響いたような気がした途端、思考は深い霧に覆われるように混濁していく。白濁した意識の中に、声が響く。
――どうか、あなたも幸せになってくださいと、伝えてください。
* * *
腕の中がすうっと冷たくて、目が覚めた。
「…………?」
いつもならあるはずの滑らかな触り心地の髪の感触が、腕の中にない。
ゆうべの記憶を掘り起こしてみるが、どうにも曖昧だ。接客によほど疲れたのか、ベッドに入ってからの記憶が、特に。
ディーネにくすぐられたのは覚えているが、しかしその後――。
ぼんやりと霞がかかったような頭のまま起き上がり、ディーネはどこにいるのか見回す。と、ベッドの端っこのほうに、胎児みたいに小さくうずくまって頭まで掛布をかぶっている塊があった。
「……ディーネ、どうしたんだ?」
ぺらりと掛布をめくると、きちんと部屋着を着ているディーネは恨みがましい視線をじとりと送り、ぷいっとそっぽを向いた。
ネグリジェではなく部屋着ということは、おそらくずいぶん前から起きているのだろう。なのにベッドの隅にもぐりこんでいるというのはどういうことか、寝起きの頭ではよくわからない。
「………アレス様、キライです………」
「はぁ?」
わけがわからず、聞き間違えたんじゃないかと素っ頓狂な声を上げた。
ディーネは自分で言っておいて自分が傷ついて泣きそうになっているようだ。なんだかよくわからないが、自己嫌悪に陥っているようにも見える。だが、なんとか涙を堪えて私を必死に睨んだ。
「……もう、大っキライですからねっ!」
涙を溜め、しかもよく見ると泣きはらしたのか眠れなかったのかわからないが充血している目で必死に睨んでくるディーネにたじろいでしまう。
「待て。待て待て待て待て。なんだ急に?」
狼狽える私の顔に全く怒られる心当たりがないと書いてあることが、ディーネの怒りの炎にさらなる油を注ぐ。わなわなと震える拳を握り、震える喉を振り絞って叫んだ。
「……エリーって、誰ですか?」
「は? 誰だ、それ」
「知りませんっ!!」
容赦なく肩を怒らせたディーネは、急に勢いを無くして肩を落とし、今度は両手で顔を覆って泣き始める。
「私、これでも頑張ってるんですよ……? リズお姉様のことだって、ちゃんとあんなふうにキッパリ自分の意見を言えるようになりたいって憧れて……だから、私なりに一生懸命、考えたりしてますしっ、それに、いいって言ったじゃないですか!」
「いや、待て。頑張ってるのはわかっているし、それとディーネが怒っている意味がさっぱり繋がらないんだが」
「だからっ! エリーというのはどこのどちら様なんです!?」
泣きながらも強い目で睨まれ、やましいことなどなにもないのに言葉に詰まった。
「――エリー?」
口にすると、それが呼び水となって朧気だった夢の記憶が呼び覚まされる。
「……えぇと…娘、だな」
誰の娘というべきか迷ってしまうと、ディーネは嫌悪感を露わにベッドの端まで身を引いた。
「かっ……隠し子ですか?」
「待て。頼むから少し冷静に話を聞いてくれ」
信用ならないという目で私を睨む間にもぽろぽろと涙がこぼすので、痛む頭を抱え込む。
「それは妖精の悪戯だ」
さめざめと泣き続けていたディーネの涙は、妖精の単語が出た途端、ぴたりと止まった。昨夜見た夢を思いだし思いだし語る間に、怒ってるんですからねと主張していたふくれっつらはくしゃりと歪み、顔色を隠すように俯く。
「私達を喧嘩させようとして妖精が私の意識を呼んだんだろう。それに便乗してエリーが言伝を――」
憶測にわだかまりはあるがどうにか締めくくると、ディーネはしばし湖のほうを疑い深く見つめた。
「妖精の思い通りに喧嘩してどうするんだ。だから機嫌をなお――」
ここぞとばかりに畳みかけ、肩に手を乗せる。と、
「……アレス様……絵を、描いてもらいましょう。アレス様と私が仲良く寄り添う絵を」
静かに、呻くように、ディーネは言ったのだ。
「絵?」
「そうです。そしてこの別荘に掛けておくんです。……私、負けません。こんな傷があろうとなかろうと、私はアレス様もリズお姉様達にも可愛がられますし!子供だってあなたより立派に育ててみせますからね!見ておきなさいよ!!って、妖精に永遠に見せつけてやるんです――!!」
ぐっと拳を握って湖に向かって宣戦布告をするディーネはもう完全にリズベットのテンションで、思わず目を覆った。
「……ディーネ、やっぱり友人は選ぶべきだと思うんだが」
「だめです。親友なんです!」
「いつのまに親友に格上げしたんだ!!」
くるりと振り返ったかと思えばびし!と私の鼻先に勢いよく指を突きつけられて勢いこちらも叫んだが、ディーネは全く動じない。完膚無きまでに敗北した私は、うなだれるしかなかった。
「もういい……早く、たくさん友人をつくってくれ……」
ちょっとでもリズベットの影響が減りますようにと心の中で祈りつつ呻いたのだが、その額面通りに許可と取ったディーネはふわりと笑った。
悔しいが、この笑顔にはかなわない。
「……ディーネ」
名前を呼びながら肩を抱き寄せると、素直にことんと寄り添ってくれた。先日買い直したばかりの水仙の香水がディーネの首筋から匂い立って、胸が痛む。
「仕返しといえば、ゆうべの仕返しをしないとな」
胸の痛みを誤魔化し、肩から耳元に指を這わせて囁くと、ディーネはびくりと震えて慌てて離れていこうとした。
「ひゃっ……い、嫌です!!」
「勝手を言うな」
逃がすまいと腕を掴むと、ディーネは威嚇する猫みたいに怒った。
「い・や・で・す!!」
ぷいっと髪を揺らし背中を向けたけれど、それ以上どこにいくわけでもない。その背中に、ようやく普段着に着替えながらもベッドの端っこにもぐりこんでいた理由を理解する。
出て行こうとして、でも思い出の香水をつけて――ベッドの端でそうやって葛藤している姿が目に浮かぶ。それがあまりにもいじらしくて、笑いがこみあげてくる。
「ディーネ」
呼びかけると、口を尖らせてはいるけれども、綻びそうになるのを必死に堪えてわなわなと震えていた。
「……愛している」
それは自然と口をついて出た言葉だった。
「――――………もうっ!」
手を広げると、ふくれっつらがくしゃりと崩れて笑みがこぼれ、ふわりと風にように腕の中に転がり込んできて、私たちのまわりは水仙の香水の香りにふんわりと包まれた。
. ** END ** .
こんなアホなお話に最後までおつき合いいただいて本当にありがとうございます。
「妖精の湖」もうひとつの甘ったるい(?)エンディング、くすりとほほえましくよんでいただけたら幸いです。
本編の決別を書いてる時「実はリズと仲良くなって、ディーネが心配してるような偏見とか先入観から守ってくれたりして、傷があろうがなかろうが周りに愛されて生きていくんだ!」ってぼんやりイメージしていたものを、きちんとかたちにしてみたのが、この番外編になります。冷静なアレス様が完全にツッコミキャラになったり、ディーネちゃん天然ボケ激しかったりと、あまりにも毛色が違うので本編とは切り離しておりますが、それでも雰囲気違いすぎて「これ、読まなきゃよかった」と思われないといいな、とびくびくです。
アレスもディーネも人間性が発展途上ですが、彼らを見守ってくれるリズもロランもイグニスもいいキャラしてて大変賑やかに悪ノリしてしまいました。
雰囲気に幅がある妖精シリーズ番外編もあとはアベルのお話を残すのみとなりました。まだ脳内から出てきていないので更新時期は不明ですが、あちらはそんなに長くないはずなので、お時間のある方はおつきあいくださると嬉しいです。
それでは末筆となりましたが、もう一度、お付き合いいただきありがとうございました!