嵐のあと
どっぷりとした疲れから早々にベッドに潜り込んでどれくらい時間が経ったのか――決して不貞寝ではない。疲れていただけだ――丁寧にお礼状を書き綴り終えてからようやく眠る支度を整えたディーネがそろりを掛布を持ち上げて滑り込んでくる気配がした。
「……お子様達、とってもかわいらしかったですね」
目を開けると、ディーネはそういいながらいつものように脇の下に滑り込んでくる。
「かわいかったか? 小憎たらしかっただけのような気がするが」
私の感覚ではランドハイア一家は揃って天敵だが、こうも無邪気に慕っているディーネにはとてもじゃないが言い出せそうにない。
「だって、お母様を守るんだ!ってあの小さな体で飛び出してきちゃうんですよ? もう思い出すだけできゅんきゅんしちゃいます。私にもあんなかわいい男の子がいたらいいなぁって思ってしまいました」
思い出すディーネの目はきらきらと輝いている。けれども私はその目を合わせられず、抱き寄せて誤魔化した。
「……子供、欲しいのか?」
「はい。リヒト君もとってもちっちゃくて、手のひらいっぱい使ってようやく私の指をきゅって握るんですよ? それにほっぺがふにふにで、あのふわっと笑う顔がもう……っ」
弾むように熱っぽく語るディーネの髪を、手で梳きとかす。
「コウノトリは運んでこないぞ?」
「ふふ、アレス様ったらいまさらです」
未だにお伽話を信じていそうな純真さを残しているくせにさらりと答えるので、こっちが困惑してしまう。
「…………怖く、ないのか?」
「大丈夫ですよ。呪いのことを最初から最後までハンドハイア夫妻に全く問題なく話すこともできましたから。もう本当に呪いが解けているんだなと実感できました」
「………………そうか」
あの一家に感謝するのはなんとなく癪だがディーネが安心できたのなら、悪夢のような今日一日も無駄ではなかったのかもしれない――そう思うと、疲れが緩やかに解けていくような気がした。
「――子供を育てるって、あんなふうにたくさんの愛情を注ぎ続けるってことなんですよね」
そう言うディーネの口元が、わずかに歪んでいた。
「それはきっととても大変だけれども、きっととても幸せだろうなって……思ったんです」
「……ディーネ……」
それは妖精に奪われた子供の未来を想っているのかそれとも……という疑問が喉元にひっかかった。ディーネは脇の下でお腹を守るようにぎゅっと小さく体を丸め、控えめに私の袖を摘む。
「私、子供を授かってもちゃんと育てられるのか不安でした。でもリズさんが『子供をかわいいって思えるなら大丈夫』って、言ってくれたんです。だから――」
すん、と鼻をすする音が一度だけした。
けれど顔を上げたディーネはいつものように笑顔だった。
「きっと、妖精だって子育てが大変で楽しくて幸せで――人の幸せを妬んで悪戯する暇もなくなってしまいますよね?」
「―――あぁ、おそらく」
根拠も自信のない相槌だったけれど、それでもディーネは口元を綻ばせて猫のように寄り添った。
「アレス様のお子様はきっと、リヒト君やエルヴィン君より、もっとずっとかわいらしいでしょうね」
なんと返事をすればいいのかよくわからず、ただ抱きしめた。ディーネはそれ以上なにも言わず、ぴたりと身を寄せる。
寄り添ってくる柔らかな感触に、穏やかな空気がじわりと色めきはじめる。
「……ディーネは、男の子がほしいのか?」
その微妙な空気が居心地悪く、誤魔化そうと話題を探す。
「はい。リズさんのお子様たちがとってもかわいらしかったので」
「そうか。では、そのように励んでみようか?」
「……………?」
からかい半分、のってくるかどうかの賭半分に、ちゅっと軽く額にキスをして尋ねるとディーネは首を傾げた。
「そのように励むって……子供の性別って神様が決めるんじゃないんですか?」
「この前、兄上に引っ張って行かれた晩餐会で聞いたんだ。確実ではないが産み分けというのがあるんそうだ」
意地悪く言ったつもりなのだが、途端ディーネはキラキラッと目を輝かせた。
「アレス様が世間の噂話を耳に入れるなんて……っ!」
「……そこに感動するな……」
両手を組んで感動に潤んだ瞳で見つめてくるディーネはそれがどれほどの暴言か完全に無自覚で、げんなりと肩を落として髪をかきあげる。
「今までだって、必要最低限の付き合いには顔を出してきたし、適当に話を合わせるくらいのことはしてきた」
「でも、全部右から左に聞き流してきたんですよね?」
ぽやんとしているくせに時々妙に鋭い指摘をしてくるから、思わず言葉を失うほど辛辣に聞こえる。
確かにその通りだが――と、しばし言い訳を探している私を、ディーネがかなり真剣かつ期待を秘めた無垢な瞳で見上げてきていることに気づき、言い訳など忘れて迂闊な発言を後悔した。
「……それで、なにをすると男の子を授かるんです?」
そのキラキラした目から察するに、ディーネはきっとなにかおまじないのような――それこそコウノトリへのお願いのやりかたのような――かわいらしいことでも想像しているのだろう。だが、その噂の出所というのはかなり酒の入った男共だ。そして内容はこの無垢な瞳を直視して口にするのを躊躇うような猥雑極まる噂だった。
「そんなに真剣になるほど、男の子がほしいのか?」
ディーネは真剣な顔をこくこくと縦に振った。
「アレス様みたいに優しくて勇敢な男の子がいてくれたら、幸せが2倍になりそうですから」
どうにもディーネは私のこともリズベットのことも買いかぶっていて面映ゆい。
「………やっぱりかわいい姫君にしておかないか?」
「もしかしてやきもちですか? 自分の子供相手に?」
ディーネがにやりと笑うと、なんとなく腹が立った。
「実技で教えてやるから覚悟しろ」
「あはははは、アレス様は性根が優しいので覚悟しなくても平気です」
不機嫌な顔を作って覆い被さってみるが、ディーネは楽しげな笑い声をあげた。
「ほう、随分言うようになったじゃないか」
「きゃぁっ! くっ、くすぐらないでください~~っ」
ひらりとしたネグリジェをめくりあげて腰のくびれのあたりをこしょこしょとくすぐると、ディーネは逃げを打つ。
「覚悟しなくても平気なんだろう?」
「子供の性別とくすぐるのって関係ないんでしょう!?」
「なくもない」
「……それ、嘘ですね? 嘘ですよねっ!? ちゃんと方法教えてください!」
「だから実技で教えてやるといってるだろう」
「もうっ! ふざけな……~っ!!」
文句を言う口を、唇で塞ぐ。
続けて繰り返すキスの合間に、もう一度子供がほしいのかと尋ねると、ディーネは耳まで真っ赤に染めた顔で小さく頷いた。
腕の上から愛しい重みとぬくもりが消えて、うっすらと意識が揺り起こされた。
薄く白んできた空がカーテンの隙間から見える。
薄闇の中で身を起こしたディーネは、そっと両手を組み合わせてなにかを祈っているようだった。
白い背中に流れる銀色の髪が揺れるときらりと清浄な朝の光を弾く。
それは触れてはいけない神聖なもののように思えて、声をかけるのが躊躇われた。
それどもなぜかその背中がひどく切なくて、聞き取れない祈りは泣いているようにも聞こえたから。
背中を包み込むように、抱きしめる。
「……ディーネ、どうした?」
びくっと怯えたように身を強ばらせたディーネは、私の声を聞くとゆるゆると緊張を解いていく。
「なんでもないですよ。目が覚めてしまっただけですから」
ぽつりと落ちた返事は、なんでもないようには聞こえない。
……取り戻すことを諦めた命への罪悪感だろうか。
新しい命を授かろうとすることへの後ろめたさか、それとも育てることへの不安だろうか。
そのどれだったとしても、機転の利いた慰めの言葉など思いつかないけれど。
それでもひとつだけ、浮かんだ言葉があった。
「―――ディーネ。私も、公爵も、アベルも……それに多分ハンドハイア一家も、ディーネに幸せになってほしいと思っている」
「…………はい」
小さな返事に、わずかに笑みが混じった。
「私も、苦手だが、努力する。だからディーネは幸せになる努力をしてくれないか」
返事は、なかった。
ただきゅっと私の腕に両手を添えただけだった。
すっかり朝日が上って明るくなるまで、ふたりとも一度も口をきくこともなく、そのまま互いの心音に耳を傾けていた。