プロローグ
そう。
あの悪夢の一日は、朝食を済ませたディーネが火傷の手当を受け包帯を巻き直してもらっているところにグラ公爵ロランからディーネに一通の手紙が舞い込んだことにより始まった――。
ディーネの体調が回復してレテ湖の別荘から居城に戻り、2週間が経っていた。
ディーネは私が紙婚祝いに贈った便箋のおよそ半分を使い、グラ一族を呪っていた魔女がレテ湖の妖精であったことや、その妖精と対峙して怪我を負い子供を失った代わりに呪いが解けたことを報告する長い長い手紙を父である公爵に宛てて書き送ってから10日ほど経っていたので、おそらくはその返事だろう。
通常は片道一週間かかる距離だから、返信は早馬を使ったと推察される。
ディーネは口元に喜びと緊張を湛えながら封を切り、ゆっくりと視線を下ろした。
「あら。アレス様、大変です」
手紙に目を通していたディーネが唐突に声を上げ、不安げに私を見た。
「お父様が、こちらに来られるそうです」
「いつ?」
「それが……一刻も早く会いたいのですぐに馬車を飛ばしてくると」
「そうか。愛娘の大事だったんだ。気にしなくてもいい」
ぽんぽんと頭を撫でたが、ディーネの気がかりは晴れないようだった。
事前に了解を取らずに一方的に来訪の予告というのは礼を失する行為だし、うちの使用人達を大いに慌てさせるのを気にしているのだろう。
「公爵はディーネの怪我と流産の一報を受けた時も、すぐに駆けつけたがっていた。命に別状はないから面会できるほど回復してからお越しくださいと待ってもらっていたから、いつでも対応できるように用意はしてあるはずだ」
「本当ですか?」
そう告げると、ディーネの表情が今度こそぱぁっと輝いた。
結婚式以来ずっと会っていなかった父の来訪に胸躍らせているのが、傍目にもよくわかるほどの幸せそうな笑みだった。
「よかった。ランドハイア伯のお屋敷からなので、昼過ぎには着くそうですよ」
「………は? 昼過ぎ? 今日の?」
満面の笑みを浮かべたディーネの言葉は、公爵号を持つディーネの父をもてなす用意をするにはいくらなんでも急過ぎて、素っ頓狂な声が出た。
「はい。イグニス様もご一緒にいらっしゃるそうですよ」
なのにディーネはそれに気づかず、大事そうに手紙を胸に抱いて、この一帯の最有力名家ランドハイア伯爵のおまけつきだと無垢な笑顔で添えてきた。
そういえば今日は親も兄も出払っていて、来客があれば対応は私がしなければならないんだったと思い出して、思わず顔がひきつりそうになる。
……私の顔色を伺ったディーネがしょんぼりと肩を落としたところを見ると、実際にひきつっていたのかもしれない。
「……やっぱり、いくらなんでもご迷惑ですよね。少しゆっくり来ていただくように伝令をお願いしましょうね」
ディーネは力なく執事を呼ぼうと立ち上がる。
もやっと霧に巻かれた気分がした。
なんだか、無性に。
急ぎ、掴まえてディーネを留める。
「……………?」
掴んだ手のぬくもりが居心地悪く、急いで手を離して目を背ける。
「………いつ着いてもいいように、急いで用意する」
ディーネはぱちりと大きく目を瞬かせて、不思議そうに私を見つめた。
「妖精の呪いが解けたと知ってグラ公爵が早く愛娘に会いたがる気持ちも察することはできるし、それに――ディーネも一刻も早く会いたいんだろう?」
ディーネはもう一度ぱちりと目を瞬かせた。
2、3度ぱちぱちと瞬きを繰り返してから、ようやくくすぐったそうに笑顔を浮かべた。
「……お気遣い、ありがとうございます」
その花がほろほろと崩れてしまいそうな笑みに、やっぱり父に会いたかったんだなとしみじみ感じた。
ディーネは相変わらず自らなにかを望むということが、ほとんどない。
私のそばにいたいと、たったそれだけのことしか望まない。
その謙虚な姿勢は遠慮や我慢ではなく、今まで人形のように生きようと自我の大半を捨ててきたせいなのだと思うと、切なかった。萌芽したばかりの自我で、これから自発性を育てようと決意して努力しているらしいが、現実的にはこのとおり、まだ自身でなにを望むのか自覚できない有様だった。
「では、急いで準備に取りかからないといけませんね」
「わふっ♪」
「アベルもお手伝いお願いね」
足下で嬉しそうに尻尾を振るアベルの顎をもふもふと撫でるディーネを見ていると、ついついこちらまで顔が綻び「こういうのも悪くないな」と思う。
どうすれば相手が喜ぶか考えるなんて億劫で仕方なかったけれど、案外悪くない。
そう。
ディーネがあまりにも嬉しそうだったから。
そしてあまりにも突然のグラ公爵及びランドハイア伯爵の来訪準備に忙殺されたから。
うっかり、失念していたのだ。
なぜランドハイア伯邸から、しかも伯爵まで一緒にやってくるのか、とか。
ランドハイア伯といえば大変に気まずい問題を未解決のまま放置していたことを――。