8着目
ツンと鼻をつく刺激臭。
発生源は私に半ば抱えられ、その腕を痛いほど握りしめる少女だろう。距離は5ハードほど、地面に打ち付けられた水滴がはじけてけぶるようなこの雨の中、熊の唇が嗜虐的に歪んだように見えたのは成り行きの見せる幻だろうか。熊の目は覚束ないものだというし、鼻も耳もこの土砂降りで制限されているかもしれないが、今のは確実にばれた。そんなことを確信する。
しかしどうにも動きが鈍い。角灯の炎に巻かれたのが思いのほか効いたのか、それともいるのはわかっても距離のせいで見切り切れてないのか。ナタを腰に戻し、代わりを掴む。さて、熊の狙いは今どうなっているだろうか。私が優先されているのか、それともこの子が優先されているか。
「っふー」
深く深く息を吸い、そして吐き出す。認識を今からけして切り離さないように、想像する。
「……すー」
まあどちらにせよ、だ。私に興味が無いなら持ってもらう。優先順位が低いならあげさせる。いやでも目につくようにしてやる。死ぬか生きるかの瀬戸際で、消耗する体力の限界に思いを馳せてもしようがない。脱いだ外套を少女に巻き付け、鞄の中の灯油をその上からぶちまける。窒息の心配はあるけど、それでも熊がこれに近づきたがるとも思えないし、他に手っ取り早い手段が無かった。とりあえずそのまま馬車の下に押し込む。そこでじっとしていてくれれば良い。
VoA? VoAAAAAAAAAAAAAA!!
いらだつような声。威嚇と言うよりも『邪魔をするなうっとうしい』とか、そんな意図を、何となく感じる。もしかしたら私の思い込みかもだけど、邪魔者であっても獲物ではないのか、私は。もちろん彼女を見捨てれば逃げ切れるとは思っていたけれど、それはたとえ熊に狙われても、と言う話であって最初から相手にされていない、と言うのは想定外だ。
すこし馬車から距離を取る。熊の目が私を追っている。その顔に、隠しようが無い怒りが浮かんだ。獲物をどこにやったと、問いただしたいのだろうか。だとしたら大成功だけど。いや、なんか違う気がする、これ自体を憎悪するような……? 前傾になった熊が口を大きく開いた。
Gof……Go……GoAA……GoAAAAAAAAAAAA!! GoAAAAAAAAAAAA!!
熊の目(どう見たって黒目しか見えないものだと思っていたその目が)が血走りそれがわかるほど見開かれて、唇がめくり上がった牙があらわになった口からは威嚇するようによだれと蒸気をを吐散らす。普段の、ちょっと鼻に引っかかるような声じゃない、喉の奥から吹き出すような、聞いているだけで皮膚が粟立つ……そんな声が。馬車の下、水でずっしりぬれた外套越しにも聞こえるのか、少し震えているのが見える。
かくいう私もさっきとっさに箱から引っ張りだした武器を握る手が粟立って……そういえばナタよりましだと思って適当に引っ掴んだけど、一体何を……
「槍……か」
まあ一番多く入っていたから妥当かもしれない。継ぎ足し用の柄だけのとかじゃなくてよかったけど、実質的な長さは剣と同じであることを考えると何とも頼りない。円匙か剣が良かったな。
そういえば、あの武器の運び方は……
「きゃっ」
ついさっきまで睨みつけるだけだった熊が、突然近くの木の幹を爪で薙いだ。削れて飛んだ木の皮や破片がかすめて、少しびっくりする。あれだけ吠えていたのに突然無言での示威行為……もしくは攻撃。どうにも熊の苛立ち方がおかしく感じる。思わず悲鳴を上げてしまったけど、流石に当たって痛そうなものはここまで飛んでこないし、目を切るほどでもない。身構えたままじっと熊と目を合わせ続けると、熊はなおも苛立った様子を見せる。
なにかおかしい。
まず熊がおかしい。苛立ちの割に全く動く気配がない。私の隙を探るような……妙に慎重な動きだ。
そして私。それなりの胆力は身につけたつもりだけど、この状況に恐怖を感じないほどじゃない。
GuuuuU……
熊が弱々しくうなる。いや、本当にどうした。
まさかたかが槍一本にそれほどおびえるとも思えないし、木箱に雑多に詰め込まれていたこの槍が、物語に出てくる魔法の武器なんてことも無いと思う。
風雨、緊張、燃焼。このまま膠着状態が続けばどうしたって先に私の体力が尽きるのに、あまりにも相手の動きが不透明すぎて迂闊に動くことも出来ない。そして私以上に少女の命が危ない。今の精神状態や環境を考えると、そういつまでも持つわけが無い。いくら外套に灯油をぶちまけて水避けにしたとしても、そもそもたっぷり水を吸ってるあれにそんな力が……
もしかして、この熊は手負いなんだろうか? それも、それを怒りに変えるのではなく臆病とに挿げ替える程の? 先の角灯による放火が、それをさらに追いつめたのだとしたら。
文字通り私に全ての獲物を奪われたのだとしたら。
(まずい……)
今はまだ先の炎、灯油の匂いにでも警戒を抱いているのだろうけど、明らかに弱っている。弱っていると言うことは、後が無いと言うこと。
今こうしておびえている間も、私はじわじわと相手を追いつめている。
つまり。
つまり。
「ふっ」
思考がまとまるより先に、私は走り出していた。