第六話
「……俺、寝てたのか」
「あ、おはようハルトくん」
目を覚ましたハルトは寝ていたベッドから身体を起こす。ふかふかとした心地良い感触に包まれていたからか、一瞬、もう少し寝ていたい衝動に駆られる。
段々視界がはっきりしてくると、ハルトは、出来る事ならもう一度気を失いたいと思った。でなければ夢であってくれと思った。
「あの、フロワ……?」
何故なら、上半身に薄い白のシャツを着ただけの下着姿のフロワが、ハルトの上で妖艶な笑みを浮かべていたからだ。
「ボク、寝る時はいつもこうなんだ。暑くて」
「それは良いけど、いや良くないけど、どいてくれるとありがたいというか」
ハルトは口が上手く回らなくなっていた。視線をどこに固定していいか分からない。せめて人前では服をちゃんと着てほしい。
フロワはそんなハルトの様子を見てくすくすと笑った。
「あはは、勘違いしないでよ。君の熱があんまり酷いから、冷ましてたの」
ハルトはそれを聞いてホッとした。彼女に特殊な性癖があるのかと、一瞬、疑ってしまった。
いや、よく考えたら全然半裸である事の説明になっていないではないか。ハルトは考えるのをやめた。
「フロワが助けてくれたんだ。ありがとう」
フロワは不意打ちでハルトから純真無垢な笑顔を向けられて、つい目を背けてしまった。
「う、ううん。好きでやった事だから……いいの」
心なしかフロワの顔が赤く見えるのは、熱がうつったからではないかとハルトはちょっと心配になった。
ところで、と言うハルトの顔つきが変わった。
「エレナは?」
フロワは窓の外へ人差し指をくいっと向けた。
そよ風で揺れるカーテンの向こう側に、楽しそうに鳥達と戯れる少女の姿があった。
それは世界で最も優しくて美しい部分だけを切り取った一枚絵のように見えた。
ハルトは無意識のうちに、部屋にあった筆と紙を手に取り、その光景をスケッチする。
途中、何度もエレナの姿に見惚れて手が止まった。その度にフロワから肩を叩かれた。
描き終わると、フロワが横で拍手した。
「ハルトくん上手いね」
「入院してた頃、よく描いてたから」
それを聞いたフロワは、雪のように白い人差し指でハルトの頬をつついた。それはひんやりとしていて、ハルトは全身がびくっと震えた。
「いきなり何?」
「君は普段から無茶ばかりしているんだね。そんなんじゃ命がいくつあっても足りないよ?」
否定しなかった。言われてみれば、自分はこの数日で何度意識を失ったのだろう。
少しは後先考えるという事を覚えなければと、深く反省した。
沈黙を破るように、フロワはコホンと咳払いした。
「朝ご飯が出来てるから、エレナちゃんを呼んで来て。君が起きるのをこの三日間ずっと待ってたんだから」
「あぁ、分かったよ。……え?」
聞き違いでなければハルトは丸三日も寝ていたという事になる。確かに頭痛も引いているし、熱も下がった。だが、まさかそんなに長い時間寝たきりだったとは思いもしなかった。
ハルトは腰くらいの高さの窓枠を飛び越えると、エレナのいる方へ走った。彼女は途中でハルトに気付き、こちらに向かって手を振っている。
長閑な緑の中、白いワンピース姿がとても似合っていた。
「ハルトさん、具合はどうですか?」
「うん。休んだおかげですっかり良くなったよ」
エレナはハルトの胸元に顔を埋めるようにして抱き着いた。
「私、神様にお祈りしてたんです。ハルトさんが早く良くなるようにって」
ハルトはエレナの頭を撫でながら苦笑いした。ここまでまっすぐに慕われては嬉しい反面、何だか照れくさい。
「ありがとう、エレナ。朝食ができてるって、フロワが」
ぐうぅと、ハルトの腹が鳴る。三日分の空腹が押し寄せてきたのだろう。
「分かりました。行きましょう」
二人が食堂を訪れると、フロワがこっちこっちと手招きしている。軽装だが今度はちゃんと服も着ていたのでホッとした。
食堂は六人座れるテーブルが三セットあり、奥には台所があるようだ。漂ってくる食べ物の美味しそうな匂いが口内に涎たを持ってくる。
「いいのかな。こんなにご馳走になっちゃって」
ハルトが俯きながら小声で尋ねると、フロワは口に手を当ててくすっと笑った。
「人の好意は素直に受け取ろうね」
でも、とまだ躊躇うハルトの口を、フロワは自分の指を当てて塞いだ。
「ね?」
「……はい」
一瞬、場の空気が凍りついた気がして、ハルトは怖くなって頷いた。この人に逆らうのは危険だと直感した。
「お待たせしました」
運ばれてきたのはステーキのような細切れの肉だった。ピンクピッグという生物のものらしい。ハルトは口に入れるのを最初躊躇ったが、ナイフを使って美味しそうに頬張るエレナを見て、自分も食べてみると何の事はないただの豚肉だった。
付け合せのスープは謎の緑色だったが、これも飲んでみれば程良い辛味が食を進めた。
「こんなの子供の頃から食べてきてるでしょ?」
からかうような口調でフロワは言った。
「いいえ。こんなに美味しい物は初めてです」
「お、俺も」
ハルトとエレナが否定するのを見て、フロワは蒼い目を丸くした。
まさか突然、彼女にこの世界に来て間もないという事を告げても信用してもらえないだろう。
「ある意味、君達希少種だよ。まぁ、穢人は本当に珍しいけど」
「その、穢人って何なんだ?」
前々から気になっていた事だったので何の気無しに尋ねると、その瞬間にフロワは椅子から転げ落ちた。彼女は今度こそ口を押さえて驚きを隠せないでいる。
「ハルトくん、本気?」
「え、何が?」
「災厄の王。黒魔導師の遺産、ですよ」
ハルトが呆気に取られていると、不意にエレナが口を開いた。彼女は俯きがちに、呟くように続ける。
「黒魔導師……?」
「百年前、この世界――ヴェルトラントを混乱の渦に陥れた張本人です」
エレナの顔色を窺うと、彼女の唇は怯えるように震えていた。隣りに座るハルトは、そっと少女の肩に手を置いた。
「彼はそのあらん限りの魔力と宝具を使って、世界中の人々を虐殺し、この世に特異な因子をばら撒いたんだ」
代わりに、フロワが続けた。
「因子?」
「ウイルスだよ。今は魔力という名の」
「それが、一体何なんだ?」
「魔力はボクら魔導師の力の源。同時に、その身を滅ぼす毒にもなる。過剰に取り込めば体内の魔力炉が暴走して命を失う事になる」
ハルトはちょっと待った、と手の平をフロワに向けた。
「エレナは身体に沢山の魔力があるって……」
そうです、とエレナが頷いた。
「穢人はその魔力を色濃く受け継いで生まれて来た者。故に、“穢れた人間”。黒魔導師の遺産なのです」
「穢人の特徴はハルトくん、その身に宿す大量の魔力の影響で黒魔導師同様、目と髪が黒いことだよ」
ドクンと、心臓が一度、大きく波打つ。ハルトは絶句した。
自分の前髪を引っ張って確かめる。目に映ったのは、言わずもがな穢人である証明。
「エレナは、大丈夫なのか?」
フロワはにこっと笑って答える。
「穢人は多くの魔力を持てるように、その貯蔵庫も大きいから、無茶さえしなければすぐには心配無いよ。それよりハルトくん、自分の心配は?」
ホッと胸を撫で下ろすハルトに、でもね、とフロワが言った。
「普通の人より何倍も魔力を持ってるって事は、それだけ身体への負担が大きいんだ。だから一般的に、穢人は短命と言われている。君達のように、生存している穢人は珍しいの」
安堵していたハルトは、急に深い谷のどん底へ突き落とされたような気分だった。
「それに、穢人は災厄の象徴ですから、不吉な存在としてほとんどが……」
ハルトには、エレナがその先を言わなくても分かった。彼女がこれまでに何度も身をもって経験している事だ。
だが、一方でまるで分からなかった。どうしてこんなに優しい子が理不尽な目に遭わなければならないのか。
「世の中にはそういう人もいるけど、ボクにそんな偏見は無いから安心して。だって、君達には何の罪も無いんだから……」
「……」
俯いて何も言わないハルトに、フロワは心配そうな顔を向けている。初めて知るには些かショックな内容だったに違いない。
しかし、予想に反してハルトは穏やかに笑っていた。
「どうしたの?ハルトくん」
尋ねるとハルトは、虚ろな顔で独り言のように淡々と答えた。
「いや、嬉しいんだ。ちょっとでも、エレナと同じだから」
「……そう」
フロワがこの時感じたのは、紛れも無く恐怖だった。どれだけ彼はこの子に依存しているのだろうか、と。
また、同時に彼がどうしようもなく脆く儚げにも見えた。例えば彼女がいなくなった時、ハルトは壊れてしまわないだろうか、と。
「ねぇ、ハルトくん」
フロワは迷っていた自己問答に既に決着を着けていた。彼らを放っておくことは出来ない。どうやら、思った以上に自分はハルトに入れ込んでいたようだ。
「何?フロワ」
「エレナちゃんと一緒に、ボクらの職場へ来ないかい?」