第五話
「ハルトさん!」
ハルトがラースとフロワを連れて村に戻ると、真っ先にエレナが駆け寄ってきた。目には涙を溜めて、それでもハルト達が無事戻ったのを心から喜ぶような表情で。
「ただいま。絶対帰るって言ったろ」
ハルトも彼女の笑顔を見て、安堵したのかドッと疲れが押し寄せてきた。
「お帰りなさい。本当にラースさんを……ありがとうございます」
脚を怪我して、ハルトに肩を借りた状態でラースはフンと鼻を鳴らした。
「悪態の一つも満足に吐けねぇのか。俺がお前に何をしようとしたか分かるだろ」
「はい。でもハルトさんが助けてくれましたから」
ラースは心底呆れていた。この少女は一体どこまでお人好しなのか。自分がした事を考えれば、殺されても文句は言えないというのに。
「随分好かれてるんだね、この子に」
フロワがにやにやとからかうように言った。ハルトは苦笑いで頷いた。他人から改めて指摘されると妙に気恥ずかしいものがある。
「エレナ、ちょっと」
「はい?」
ハルトはエレナに対して違和感を覚え、彼女を呼び止めてその顔を覗き込む。
「は、ハルトさん……?」
「その怪我、どうした?」
エレナの薄い唇には小さな切り傷があり、白雪が紅く火照ったような頬には痣があった。どちらも、ハルトと別れる前には無かったものだ。
「ちょっと、転んでしまって……」
「顔から転ぶなんて、ドジなんだね」
フロワが横から冷たく言った。ハルトも彼女の嘘には気付いていた。
「誰にやられた?」
ハルトが訊くとエレナは困ったように目を逸らす。後退りして、答えを拒否している。
「やっと村を出たと思った疫病神が、のこのこ戻って来たから気に障ったんだろ。どいつがやったかは分かんねぇが」
代わりにラースが口を開いた。
「何だそれ……どうしてそんな酷い事を」
「こんなの、何でもないですから。ね、ハルトさん」
無理に笑うエレナを見るのが、ハルトは余計に辛かった。
ふと気が付けば、帰ってきたラースを迎える為か、余所者のハルトやフロワが珍しいのか、何人もの村人が少しの距離を置いてこちらを見ていた。ある者は指をさして何か囁き、ある者はくすくすと笑っていた。
この視線には身に覚えがあった。前世で幾度となく向けられてきた、侮蔑の目。
ハルトは全身を刺されるような悪寒を覚えずにはいられなかった。
「エレナ、一緒にこんな所出よう。君がこれ以上傷付けられるなら、俺は彼らを殺してしまうかもしれない」
震える肩を抱いて、ハルトはエレナに訴える。
「ハルトさん、私は平気……」
「そんな訳無い!お願いだから、辛いと言ってくれ。こんな所から逃げ出したいって」
ハルトはエレナがどうしてまだ笑っていられるのか理解出来なかった。前世の自分は耐えられず、すぐさま逃げ出したというのに。
「余所者、持ってけ」
ラースが不意に、ハルトに一つの瓶を投げて寄越した。これは?とハルトが尋ねると、ラースは溜め息を吐いた。
「半竜の血に決まってんだろ。売れば当面の宿代くらいにはなる」
つまり、ハルト達に向けてラースは暗に出て行けと言っているのだ。それは彼らが憎いからではなく、村にいても互いに負の感情しか生み出せない事が分かっているからだった。
「あぁ。言われなくても」
「……こうするしか無ぇんだ。俺には時期長として村を守る義務がある」
それはラース個人の、色々な想いを含んで、必死に選んだ言葉だった。
ハルトはエレナの手を取ると、村に背を向けてよろよろと歩き出した。
背後では数人の笑い声と共に、小石が幾つか二人に飛んできた。だがそれは青年の怒声ですぐに止んだ。
「ハルトさん……」
ハルトの横を歩くエレナが心配そうに彼の顔を覗くと、何やら無気力に呟いているのが分かった。エレナにはそれが何と言っているのか聞き取ることが出来なかったが、決して前向きな言葉では無いという事だけは理解できた。
「こんなのは間違ってる……」
☆ ☆ ☆
「あんたはどうする?あんなもの見た後でまだここに居たいか?」
ハルトとエレナが去った後、残るフロワにラースが問いかけた。フロワは薄く微笑んで首を振った。
「ボクももうここに用は無いし、さっさと出て行くよ。あの二人も心配だからね」
そうか、と一言だけ言ってラースは頷いた。
「君の立場を考えると仕方無いよね。長として村は守らなきゃいけない。だったら厄災をもたらす穢人は追い出すしか無いもの」
フロワはまるで子供に童話を読み聞かせるように優しく言った。
「そういえば、この辺じゃ未知の疫病が流行ってるんだってね。身体に紫色の斑点が浮かんで、高熱に魘されながら苦しみ、最後は身体も心も人喰い鬼に変貌する。半竜の血はそれを防ぐために、村のみんなを守るために取ってきたんだ」
「だったら何だ」
「それ、もう必要無いよ」
ラースが怪訝そうにフロワを見ると、彼女は小さく笑った。
「湿地一帯、ボクの氷で殺菌しておいたからね」
「何だと?」
「それが仕事だったの。じゃ、縁があったらまた」
最後にそれだけ言うと、フロワの前に白い霧が現れ、ラースの目の前から彼女は姿を消した。
☆ ☆ ☆
ハルト達は村を出て、現在巨人の階段地帯から南の森を歩いていた。そこは背の高い木々が鬱蒼と生い茂っていて、陽光を遮り、辺りは夜のように薄暗かった。
実際の時間も夕方くらいで、気温も少しずつ下がってきていた。このままここで夜を迎えるのは危険だと、二人とも分かっていた。分かってはいたが、ただでさえ重い足取りに加え、ハルトの熱が下がらない事で思うように進む事が出来ずにいた。目を背けていただけで、彼の身体は疲労でとっくに限界を迎えていたのだ。
「ごめん、エレナ。俺のせいで」
「そんな、ハルトさんは何も……」
ハルトは歯痒かった。自分がこのまま意識を失えば、森の獣達にか弱いエレナを晒す事になる。かといって少しでも無理をすれば身体が保つかは分からない。どちらにせよジリ貧である。
逃げるように飛び込んだが、森に入ったのは失敗だった。今も周囲で隙を窺う獣達の殺気を感じる。
だが、命に代えてもエレナだけは無事に安全な所へ送り届ける。その執念だけがハルトの精神をぎりぎりで鼓舞していた。
「グオォ!!」
「ハルトさん!!」
不意に、一匹のオオカミのような魔物が飛びかかってきた。応戦しようとハルトは構えるが、視界がぐらぐらと揺れて焦点が合わない。
確率操作を試みるも、頭痛が酷過ぎて計算に集中出来ない。
一回目の攻撃は倒れるようにして何とか回避した。だが、もう一度立ち上がる気力は残っていない。
「エレナ……」
呟くように名前を呼ぶと、ハルトの両手を握る彼女が返事をした。
「ハルトさん」
危機的状況にも関わらず、エレナは驚くほど落ち着いていた。僅かに微笑んでさえいる。というのも、既に覚悟を決めたからだった。
「ハルトさん、私はあの時、本当は死ぬはずでした。それをあなたに助けてもらって、その上一緒に暮らそうと言ってくれて、あんなに嬉しい事は初めてで、私は、私は幸せでした」
「……何言ってるんだ。これからじゃないか。まだ何も精算出来てない」
エレナは首を振った。
「もう充分です。ハルトさんの手、すごく温かった。あなたに会えて本当に良かった」
「エレナ、何を……!?」
「大丈夫。穢人の私はこの身に莫大な魔力を宿しています。それを解放すれば、獣達を追い払えるでしょう。こんな私ですが、少しでもハルトさんの役に立ちたいんです」
そんな事をすればエレナが無事で済まない事は容易に想像できた。
「やめろ、エレナ!」
ハルトは絞り出すように叫んだ。エレナは立ち上がって振り返ると、無垢に笑った。まるで、恐い事は何も無いというように。
「この命は、あなたのものですから」
「なら、簡単に捨てちゃダメだよ」
声と共に、凍てつくような寒さが辺りを包んだ。
それは静かにやって来て、瞬く間に死という名の沈黙を魔物達に与えた。
「フロワさん……?」
白い靄の中から現れたのは、さっき別れたフロワだった。
「君の犠牲の上でハルトくんは生きられない。そんな残酷な事しちゃダメだ。分かるよね」
フロワは厳しい口調でエレナに言った。
「私は、私は……」
言葉に詰まった。彼女の言うとおりだ。だが、ハルトが害されるのはそれ以上に辛いのだ。
「診せて」
フロワが熱を帯びたハルトの額に触れると、荒い息を立てていた彼はいくらか表情が柔いだようだった。
「間に合って良かった。ちょっと無理しちゃったみたいだね」
「助かるんですか……?」
「うん。ボクが来たからにはもう大丈夫」
今更になって恐怖と安堵が同時にやって来たのか、エレナはぽろぽろと涙を流しながらフロワに感謝の言葉を述べた。
「エレナ……」
「ふふ。寝てても君の名前を呼んでる」
エレナはハルトの胸に顔を埋め、静かになったかと思うと、既にすやすやと寝息を立てていた。
「まだ森の中だっていうのに、これじゃボクの立場が無いよ」
やれやれと、フロワは肩を竦めて笑った。