第三話
「ここです」
ハルトとエレナの二人は、ラースに来いと指示された場所に辿り着いた。そこは村から歩いて小一時間程の台地で、“巨人の階段地帯”と呼ばれる場所だった。
大小様々ではあるが(一番小さい物でも数十メートルの高さがある)、数百メートル距離をおいて所々にそびえ立つ巨大な建造物は、見る者を畏怖させる荘厳な雰囲気が漂っていた。
「それじゃ、俺は隠れてるよ。何かあったらすぐ出て行く」
というのはエレナからハルトに頼んでいた事で、ついて来てくれるのは頼もしいが、ラースにハルトの顔を見られるのは避けたかったからだ。今後面倒な事になりかねない。
幸い、辺りには薄い霧が漂っているので、目を凝らしても近くに人がいるとは分かりにくいだろう。
「それじゃあ、行ってきます」
エレナはそう言うとここまで来る道中、はぐれないようにと繋いでいた手をぱっと放した。
ハルトも念の為、側にあった岩陰に隠れながら様子を伺う。
じっと待っていると、白い息が口から漏れた。先程エレナに上着をやってしまったので、少し肌寒さを感じたが我慢出来ないほどではない。
薄っすら見えるエレナの影に、三つの人影が近付いてきた。ラース達が来たのだろうと、ハルトの身体が強張った。相手が三人もいるとは思わなかったからだ。
「きゃっ!」
唐突に聞こえてきたエレナの悲鳴に、ハルトは駆け出した。段々とはっきり見えてくる人影は思ったより小さく、それが異形の主のものだと気付いた時には両者の距離が二メートルも無くなってからだった。
「この!」
足元に転がっていた石を拾い、それを握った左腕に力を込めて思い切り叩く。短く悲鳴のような鳴き声を上げて、影は霧の向こうへと吹っ飛んでいった。
異形の正体はゴブリンだった。ハルトの持ち得る知識でそれが一番近い姿をしていた。ハルトより少し小さな身の丈に、緑がかった肌の表面には紫色の斑点が浮かんでいて、耳と鼻が鋭く尖っていた。加えて目は大きく、ぎょろぎょろと動き回り、邂逅の瞬間目が合った。
殴った感触は肌がざらざらとしていて硬かったように思えた。
「エレナ!」
ハルトは荒くなった呼吸のまま叫ぶように後ろを振り返ったが、返ってきたのは大気にこだました自分の声だけだった。
エレナが攫われた。一瞬の出来事だった。自分がついていながらと、握り拳で湿った地面を叩いた。
「おい、お前も“巨人の宝具”目当ての踏破者か?」
不意に背中から呼びかけられて振り返る。この声にはエレナの家で聞き覚えがある。
「何の事だ」
「隠したって無駄だぜ、穢人の兄ちゃん。此処らはグリーンオーガの出没地帯だが、お前は運が良いな。幸い今は餌に夢中だ」
ハルトはギリッと奥歯を噛んだ。ラースを憎悪のこもった目で睨み付けながら掴み掛かる。
「その為にあの子を呼んだのか!?」
「おい、放せよ素人。お前だって安全にここを通れるんだから悪い話じゃねぇだろ。それともお前、まさかあのガキの家族か何かか?」
ハルトはラースを締め上げる手にさらに力を込めた。
「エレナがどこへ行ったか教えろ」
「知らねーよ。奴らを追うなら足跡でも辿りやがれ。人喰いの巣に自分から飛び込むなんてイカれてんのか?」
ラースが吐き捨てるように言ったのを聞いて、ハルトは彼を解放した。
湿地帯にはくっきりと三つの足跡が残っていた。ハルトは走り出した。注意深く地面を見ながらそれを辿っていく。
途中、何度も見失いそうになりながらも、何とか見当をつけて進んでいく。この広い場所でエレナを見つけられる可能性は限りなく低いが、彼女はハルトにとって命の恩人同然である。四肢が動くうちは諦めるわけにはいかない。
だが、歩を進める度に刻々と体力だけは浪費していた。
ついに、完全に足跡を見失ってしまう。
「……」
「おやおや、お困りかい」
ふと、誰かの声がして辺りを見回す。だが、それらしい人影は見当たらない。
「ふふ。君の頭の中に話しかけているのさ」
「ラプラス?」
その声には聞き覚えがあった。春斗の死後、不思議な空間で言葉を交わした悪魔を名乗る者。
「ご名答。今回は初回サービスという事で、君にヒントだ。算数は好きかい?」
もちろん好きに決まっている。数は普遍のものであり、変わることは無い。人間関係のような複雑怪奇なものではなく、決まった問には必ず決まった答えが存在する。数字は裏切らない。ハルトはこくりと頷いた。
「いい返事だね。そんな君に与えたのは事象の再計算能力。いわゆる確率操作ってやつさ」
でもね、とラプラスは続ける。
「この力は決して万能なんかじゃない。100%確定した運命には抗え無い。神様でもなきゃそんな事は出来やしない。同じように0%の確率も覆せやしない」
「どうすればエレナを救える?」
ハルトは縋るように尋ねた。ラプラスは不敵に笑う。
「このまま君があの子を探し続けて、生きている内に自力で見つけ出す確率は……3%。これをひっくり返す」
ハルトの眼前に無数の数字が浮かび上がってくる。その中から100と3とが交互に現れ、最後に97という数字に変わった。
「……ぐっ!?」
ハルトの脳内に稲妻に打たれたような衝撃が走った。頭痛のせいでその場に膝を付いて蹲ってしまう。感じた事の無い痛みに目を開くのも難しい。
「よしよしいい子だ。無事に計算は終わったよ。さぁ、この世に偶然なんて無いって事を子鬼共に分からせてやるんだ」
「う……うぅ」
「あぁ、それと、無茶な計算は負担も大きいから気を付けてね。それじゃ」
その声を最後に、うるさいくらいの静寂が帰ってきた。同時に、頭痛も引いていた。
立ち上がると、足元に違和感を覚える。
探ってみると、そこにはエレナが着ていたハルトの上着が落ちていた。方向は合っていたようだ。
偶然見つけられ、内心喜んだ事をすぐに訂正した。これは必然だと。当然の事だと自分に言い聞かせた。
そこからはとんとん拍子だった。カモフラージュされた足跡を再び発見し、二方向に別れた所で左のものは小股で歩を刻み、わざと見つけやすいようにしてある。ハルトはブラフだと読んで右へ進んだ。
程無くして、ゴブリン達の巣と思しき洞穴に辿り着いた。エレナはここにいると確信した。
ハルトが目を瞑り念じると、また視界に無数の数字が出現する。
「ここに入って俺が生きてエレナと出られる確率……32%を三倍の96%へ……痛っ」
チリっと目の前で火花が散った。今度はそれほど強くない痛みだった。
計算を終えるとハルトは一歩目を踏み出した。壁の材質等から罠を仕掛ける余地は無いと踏んだ。ならばと、一気に駆け抜ける。
道を突き当たりまで行くと、六畳半程の開けたスペースで、エレナが手足を縛られたまま横になっていた。
「エレナ!」
「ハルト……さん?」
ハルトは安堵で大きく溜め息を吐いた。エレナの拘束を解いてやる。
「どうしてここに?」
「助けに来たんだ」
縄を解きながら、何の躊躇いもなくハルトが告げると、エレナは顔を背けてしまった。後ろ姿が震えている。
「そんな、危ないですよハルトさん。ここの鬼達は人喰いって言われてて、その、すごく怖くて……だから」
エレナはついに堪え切れずに泣き出してしまった。ハルトが来たことで気丈に振舞っていた気持ちの栓が外れたのだろう。大声を上げてハルトの胸の中で鼻を啜っている。
「ごめん。守るって言ったのに」
「いいえ。私、こんなに人に優しくしてもらったことないから、どうしていいか……」
「俺もだよ。君に救われた」
二人は手を取り合うと、口付けを交わした。
その温かさは、鳥肌の立つような洞窟の肌寒さなど忘れさせてくれた。
「不思議です。初めて見た時から、ずっとあなたを待っていた気がします」
そのままずっと二人はそうしていたかったが、今は時間が許してくれないだろう。
「グリーンオーガ達が戻ってくる前にここを出よう」
ハルトの提案にエレナは頷いた。
二人は手を繋いで元来た道を引き返していく。何事も無く進んでいき、ようやく出口を抜けた所で、鬼達の奇襲にあった。棍棒のような物で、ハルトは右頬を強く殴られた。
恐らく、グリーンオーガは乗り込んで来たところを一網打尽にしようとわざと自分を誘い入れたのだろうとハルトは瞬間的に思った。
「ハルトさん……!」
「大丈夫。下がって」
口の中で血の味がした。どろどろとした不快な感触の塊を吐き捨てながらハルトは考えていた。確率操作をして、とりあえず二人とも生きて洞窟を出る事は出来た。だが、出た後の結果にまでは能力が作用するのだろうかと。
いや、きっとしないだろう。そこまで都合良く物事が進まない事は、前世で身をもって経験済みだ。
ならばと、ハルトは再び目を閉じた。ラプラスの忠告が脳裏を反芻したが今はそれどころではない。
二人がこの危難を避けるための、偶然や不運の介入する余地が無い絶対的な結果とは――グリーンオーガを殺す事。
目前には歪に歪んだ眼でハルトを見つめる三匹の鬼達。口元からは涎のような体液が漏れ出ていて、そこから覗く犬歯が今にも喉元に食い付かんとしているのが分かる。
再計算。ハルトがグリーンオーガ三匹を殺す確率……31%。
ハルトは首を振った。これじゃまだ足りない。偶然という凶刃に背を刺されるかもしれない。
さらに再計算だ。“エレナに一切危害が及ばずに”子鬼達を殲滅する確率。
ハルトの脳内に8という数字が浮かんだ。思ったよりはずっと少ない確率だ。普通にやれば12回に1回成功するかどうかというところだ。
だが今回はその1回を引き寄せる。再計算の末、確率は92%に引き上げられた。
頭痛に悩んでいる暇は無い。鬼達が三方向から一斉にハルト目掛けて飛び込んで来た。
「……こんのっ!」
ハルトは正面から向かってきた鬼に向かって迎え撃つように飛び込んだ。空中で標的を見失った二匹のグリーンオーガが後方でぶつかった。一匹は打ち所が悪かったのか、ぴくぴくと痙攣して起き上がれないでいる。
息つく暇もなく、ハルトは馬乗りになってグリーンオーガから棍棒を取り上げ、何度も殴った。棍棒を振り上げる度、奇怪な悲鳴が続いた。
エレナを連携して攫ったり、後を追わせないよう撹乱したり、罠を仕掛けておびき寄せたりと、人喰いの怪物に変わりないが、鬼達は明確な知性を感じさせた。喧嘩もろくにした事のないハルトは、殺意を持ってこうやって何かに対峙したことはもちろん無かった。
木製の棒の先端が青い血で染められていくに従って、ハルトの指先がどんどん冷たくなっていくのが分かった。まるで氷の塊で叩いているみたいだと思った。
荒い呼吸を整えると、足元に“それまで生物だった何か”が転がっていた。原型を留めていないそれはとうに息絶えていた。
「ハルトさん後ろ!」
ハルトは振り返りの遠心力を利用して思い切り棍棒を薙ぎ払った。突っ込んできた鬼にクリーンヒットした棒はいつからそうなっていたのか真っ黒だった。
地面に横たわる二匹の鬼にとどめを刺すと、ハルトはふうっと深い溜め息を吐いた。
「エレナ、怪我はない?」
彼女は問いかけの意味が分からないのか、返事をせずに肩を震わせながらじっとハルトを見ている。
「エレナ?」
もう一度呼びかけると、ぴくりと少女の身体が動いた。
「ハルトさん……泣いてるんですか?」
「え?」
目を瞑って顔をゴシゴシと拭うと、確かに濡れていた。自分が?どうして?
ハルトは訳が分からなかった。エレナに怪我は無いし、自分も生きてる。二人とも無事だ。それなのに――
目を開けると、両手は血で黒く染まっていた。それを見た瞬間、目の前の風景が一気に遠くなっていく。ハルトはその場に倒れて意識を失った。