第二話
パンの焼ける香ばしいにおいが鼻をつつく。嗅いだことは無いがどこか懐かしい、そんな芳醇さだった。
「こんなものしかありませんが」
黒髪の子が申し訳無さそうに苦笑いで言った。
目の前に出された皿は、こんがりと炙られたトーストに、蜜のようなシロップを塗り、脇にはレタスのような野菜が添えられた朝食テイストな一品だった。
ハルトは何も言わずにすぐそれを口に運んだ。起きてから腹が減って減って仕方ない。貪るように何度も噛み、それを食す。
食べ物が喉を通った感触は筆舌に尽くしがたい。この幸福な時間が何時までも続けば良いのにと本気で思った。
パンが詰まらないようにと、水で流し込む。ここまできて、ハルトは呼吸を忘れていた事に気付いた。水を少し吐きながら咳き込む。
「そんなに慌てなくても、誰も取りませんから」
小さな手で背中を擦られた。ハルトはそれだけで目の上に熱を感じた。
目を擦ると不意に、違和感を覚える。
「君の分は……?」
どうして今まで気付かなかったのか。食事を摂っているのは自分だけで、目の前の子はそれをただ見ているだけだと言う事に。
ハルトの問いかけに、黒髪の子は最初にしたのと同じように苦笑して答えた。
「私はもう食べましたから」
嘘だった。本当の事を言う時、人はあんなに困った顔をしない。
周りを見渡す。よく見れば小さな部屋には物らしい物が殆ど無い。彼女が着ているのは服なのかさえ分からないボロボロの布だ。もしかしてあれが最後の食糧だったのではないだろうか。
「……」
今度こそハルトは頬を濡らさずにいられなかった。感動と後悔とでごちゃごちゃになった感情が雫となって両の目から溢れ出す。
「……辛い事でもあったんですか?良いですよ。好きなだけ泣いてください」
堪らず小さな身体を抱きしめた。そうする他無かった。
腕の中にほんのり温かさを感じる。後ほんの少しだけ力を加えれば砕けてしまいそうだ。こんなに弱くて温かいものをハルトは知らなかった。故に、どうしていいのか分からない。
「……ごめん。ごめん」
ただ、ぽつりぽつりと掠れた声で謝り続けるハルト。そんな彼を撫でてくれる優しい手の平。まるで時間がゆっくりと流れているような感覚だった。
「ハルトさん、隠れて下さい!」
それが突然、半ば悲鳴のような声に変わる。
ハルトは言われるまま、咄嗟に部屋の隅にあった木製の戸棚の中へと身を潜めた。
「おいボロ布、人の声がしなかったかぁ?」
訪問者は村長の孫だった。荒々しい足取りで家に上がり込んでくる。
「すみません。独り言が大きくて。以後気を付けます」
急拵えで繕った嘘だが、声が震えてしまっていた。
「男の声がしたなぁ。どこだ?」
暗闇の中でハルトは不穏な空気を感じずにいられなかった。匿われているという事を今更理解した。
「だ、誰もいませんよ!ここには私だけだって知っているでしょう!?」
「余所者を勝手に連れ込んだらどうなるか分かってんだろうな」
村の掟として、許可無く外部の者を招き入れた事が発覚した場合、その者と招き入れられた者を双方処断するというものがある。これは争いが無いこの村において、危険因子を持ち込まないための絶対遵守の不文律だった。
「帰ってください!ここには何もありませんから!」
自分のためにあの子が必死になってくれているという事実に、ずきずきと胸が痛む。ハルトは葛藤していた。自分が大人しく出て行けば済む話なのではないかと。
「まぁ大方お前の事だ。浮浪者でも拾ったんじゃないのか?」
図星だった。ハルトが戸を開こうと手をかけた瞬間、
「見逃してやるよ」
「……え?」
「だから、見逃してやるって。お前が俺の為に働くんなら、ここでの事は見なかった事にしてやる」
そう言うと、青年は手書きのメモを乱暴に少女に渡した。
「よろしく頼むぜ。穢人さんよぉ」
それだけ言って少女の肩を叩くと、男はその場を後にした。
後に残ったのは、重い沈黙と少女への罪悪感だった。
「……大丈夫か?」
そっと中から出てきたハルトが声をかけると、彼女はぱっと明るく笑った。
「ここの人って余所からの人を嫌うみたいで……」
「そうなのか。そうだよな、普通は」
普通じゃないこの子の方が余程ハルトには尊く見えた。こんな良く分からない場所で、いきなり浮浪者として捕まるところだった。彼女はハルトにとって命の恩人である。
「君、名前は?」
たどたどしい口調でハルトは聞いた。
「私……エレナといいます」
ぎこちない笑顔だったが、ハルトもエレナに笑いかけた。
「助けてくれてありがとう。エレナ」
それで、とハルトは続けた。
「さっきのは?」
今度は口調もはっきりしていたし、目つきが人を寄せ付けなかった生前の様に険しかった。エレナは俯きがちに答える。
「あの人はラースさん。この村であの人に逆らえば、もうここにはいられなくなってしまいます」
言い終わると唐突に、エレナはハルトの手を握った。
「でも大丈夫です。私がハルトさんを守りますから、好きなだけここにいてください」
それは嬉しい提案だったが、ハルトだってただ甘えているわけにはいかない。エレナにさっきのような迷惑はもうかけたくない。
「いや、俺はここを出て行くよ」
ハルトは突然胸元に飛び込んできたエレナに押し倒される形で仰向けになった。彼の上には跨るように少女の姿があって、さっきまで太陽のように笑っていたその顔は心なしか涙ぐんでいるように見えた。
「そんなの嫌です。ここにいてください」
布の間から所々に見える白雪のような肌は触れれば溶けてしまいそうに細く繊細で、儚げな彼女の姿は一瞬、ハルトに天使の様相を思わせた。
綺麗だ。と、口から零れたのを誤魔化すように言葉を続ける。
「これ以上迷惑をかけたくない」
「迷惑なんかじゃありません。……い、一緒にいたい、のに」
泣き出しそうになるエレナを見かねて、ハルトは自分でも無意識のうちに彼女の手を取っていた。
「分かった。じゃあその代わりに、俺が君の錘にならないように責任だけは取らせてくれ」
「責任……?」
ハルトは自分の着ていた上着を一枚脱ぐと、エレナに着せてやった。
「今後あらゆる悪意から君を守る。1%も君には触れさせない」
「……分かりました。それでハルトさんが良いなら」
エレナはほっとして満面の笑みを浮かべた。