第一話
最後の札が飲み込まれた。対価は銀貨が数十枚。掌に収まるちっぽけなこれが最後の希望である。
震える指でそれを納まるべき所へと導いていく。一枚、二枚、三枚……。
これまでレバーを叩いた回数は覚えていない。頭も腕もとうに麻痺していて、一体どれだけの数が計上されるのか想像もつかない。
一つ目のボタンを押す。三列の中段に七の目が止まった。
二つ目のボタンを押す。隣にもう一度現れる七。
ここでふと、彼――如月春斗の目の前にこれまでの人生が光の泡となってフラッシュバックする。
思えば、春斗の人生は一言に始まり、一言で終わるものだ。
――不幸だった。
生まれながらにして親から疎まれ、恋人も友人も知己もいなかった。
春斗は自分に何か恵まれた才能や技量があれば周囲も見直すだろうと色々なものに打ち込んではみたが、結局何かする度に長続きはしないし、金と時と労力の無駄であり、改めて己の無力さを知るだけだった。
決め手となるのは、学校の通学途中に巻き込まれた隕石の落下事故だった。
隕石と言っても、極小サイズの石ころ程度のものが降ってきただけで、周囲への被害はゼロだった。周囲――春斗を除いては。
その時の影響で利き腕の左腕が完全に麻痺してしまった彼は、何をするにもこれまで以上に苦労して、一時期は声も上手く出なかった。
ショック状態の彼の元にクラスメイトがお見舞いに来て、投げかけた言葉がある。
「人は生まれた時点で優劣が決まっている」
言った相手の顔はもう思い出せないが、その通りだと思った。
丁度この頃だ。両親が病院の治療費と春斗を残して夜逃げしたのは。
春斗は神というものに本気で祈った。どうか、他人の一割でも良いから、幸せをくださいと。
彼は病院の看護師のひとりに恋をしていた。理由は至極単純。初めて優しく接してくれた相手だったからだ。
想いを告げた時、彼女がすごく困った顔でこう言ったのを覚えている。
「それは誰でも良いんだよ」
当初、意味が分からなかった。
春斗はその時、震える腕で彼女に掴みかかって、自分の個室の枕元に押し倒した。鼻息が荒くなり、目頭がこれまで感じた事ない程に熱を帯びて、頭ががんがんと揺れた。
怯えた目で自分を見上げる彼女を見て、初めて人の上に立てた気がした。自分の気分次第で彼女をどうにでもできると。優越感に浸った。
結果彼は、泣いた。一生分が詰まってるじゃないかというような、大粒の涙だった。
それ以上何かする気にはなれなかったし、ただでさえ醜い人生のシナリオを汚す事は出来なかった。
駆け足で部屋を去る彼女の後ろ姿を見送りながら、いっそ悪人になる勇気があればどれだけ楽だろうかと思った。
退院後の春斗はどこまでも空虚だった。何をするでもなく学校に一度行ってみたが、待っていたのは無数の同情だった。
劣っている者の中でもさらに自分は劣っていると自覚した。いじめの標的にさえならなかった。
元から無かった居場所がもちろん無い事を確認した彼は、楽しそうに友人と話すクラスメイトの鞄から財布を取り出し、さらにその中から札を数枚だけ取り出した。
誰からも見向きもされない彼にとっては容易い事だった。生まれて初めての悪事に胸が高鳴った。焦り、不安、恐怖が頭の中を埋め尽くした。
早々にその場を撤退した春斗が向かったのは、喧騒と雑音だらけの遊戯屋だった。
勝つ者もいれば負ける者がそれと同じ以上に存在する。ある人は歓喜に震え、またある人は絶望の表情で去っていく。誰もが互いの顔になど見向きもしない。
まるで社会の縮図のような場所で、春斗は人生最後の勝負に挑んだ。僅かでも勝てばあるいは自分の人生にもまだ――
眩い光が消えた。晴れた後には灰色の風景がまた広がっていた。
三つ目のボタンを押した。押していた。
――何も起こらなかった。
もう自分には何も残っていない。勝負のための手札さえ失った。敗者は去るのみだ。
馬鹿げていた。最初から分かっていた。それこそ生まれた時から。
しかし春斗の心境は晴れやかなものだった。今更になって中途半端な生に縋り、この先苦しむことも無くなると考えると気分がとても楽になった。
この街の夜景が見渡せる場所。こんな自分でも、その景色は美しいと思えた。これを最期に見られるなんて、人生の全ての運をここで使い切ったと言われても春斗は納得してしまうだろう。
後は一歩踏み出すだけで全てが終わる。楽になれる。
……のに、足が竦んだ。ここに来て、自分にその覚悟が無いことを知った。そこで踏み出せる勇気があれば、1%くらいは違った人生になっていたかもしれない。
空を仰いだ彼が見たのは、段々と大きくなって自分に迫ってくる一つの塊だった。
春斗は心の中で呟いた。死に方さえろくに選べない。なんて不幸な人生だと。
塊に貫かれ、暗澹としていく意識の中、春斗は神を恨んだ。
☆ ☆ ☆
「なるほどなるほど。大変な人生だったね」
真っ白な空間の中で、相手の姿は見えず、誰と話をしているのかも分からない。意識だけの存在となってなお、“彼”は儘なら無い状況に陥っていた。
「うんうん。僕かい?僕はラプラスと呼ばれている」
声は出なかったが、意思として聞きたい事は伝わったようだ。
次に“彼”は、お前は神なのかと尋ねた。
「違う違う。そんな尊大に見えるかい?僕は君達のところで言う、所謂、悪魔さ。だからね、勘違いしないで欲しいんだ。僕は君が憎むべき相手じゃない」
寧ろ、とラプラスは付け加えた。
「どちらかと言えば君の味方だよ。何もしてくれない神に代わって、君の不幸な人生を精算してあげようじゃないか」
何を言っているのか分からないと、彼は思った。
「だろうね。まぁそれをわざわざ説明する程、僕は親切じゃない。僕が君に与えるのは二つ。機会と、力。後はそれをどう使おうが自由さ」
何も返さずに戸惑っていると、ラプラスの方が口を開いた。
「何、気にする事は無いよ。得るべき対価として君は当然のように享受すれば良い。代金はもういただいてる」
じゃあ、とラプラスは締め括った。
「せっかくの1%違う人生だ。どうかお幸せにね」
☆ ☆ ☆
「んんっ……今日もいい天気です」
黒髪の子供は頬に風を感じながら、独り言を呟いた。
そこは長閑な南の農村だった。近くを流れる川のせせらぎが暖かな日差しと相まって、心地良い眠気を連れて来る。
か細い身体に力を込めて伸びをすると、一気に血の流れが良くなったような良い気分になった。
「よぉボロ布」
「お、おはようございますっ」
背後からぶっきらぼうに声をかけてきたのは、五つ六つ年上の青年だった。彼は他人に事あるごとに難癖を付けたがる嫌味な性格で有名だが村長の孫ということもあって、表立って逆らう事の出来ない相手だった。せっかく気持ちの良い朝に嫌な相手に出くわしてしまった。
「おいおいボロ布。呑気だな。今月の村税はどうした?」
「もう家に何かを払う余裕なんて……」
「いや、いいんだぜ別に。俺はお前みたいな汚いガキが村を出てくれるってんなら願ったりなんだからよ」
「そんな……」
ボロ布と言われるように、黒髪の子供が身に付けているのは凡そ服の体裁をしていない黒い布の切れ端だけだった。衣服を買う余裕が無いので、拾い物で応じているうちに、村の大人達からはそう呼ばれるようになってしまった。
俯く相手を面白がるように、青年は言葉を続ける。
「家を貸して欲しけりゃ、盗みでも何でもして、俺の為に働くんだな」
青年はそう吐き捨てると、背を向けてその場を去った。
「……」
「うぅ……う……」
「ひいっ!」
ボーッとしていたので情けない声が出てしまった。だが、誰だって驚くだろう。いきなり茂みの中から瀕死の人間が現れたら。
「大丈夫ですかっ!?」
「……水を」
言われた通りに飲み水を与えると、彼はそれを勢い良く飲もうとして殆ど零してしまった。
口に含んだ途端、咳き込んで吐いてしまい、結局もう一杯器に汲み直すと、ようやくきちんと喉を通ったようだ。
「あの、大丈夫?自分の名前が分かりますか?」
問いかけに彼は答えた。震えるか細い声で。
「ハルト……ハルトだ。俺は、生きてる……?」
「えぇ、生きてますよ。良かったです」
見ず知らずの子に手を握られた。それは温かく、これまで感じた事の無い感触だった。
胸が一杯になって泣きそうになった。
確かな生を実感出来て、それだけでハルトは満たされた気持ちになった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ハルトが礼を言うと、にこにこと、陽だまりのような笑顔が降り注いだ。
彼の第二の人生が始まった。