『イロアス』:ビーチフラッグス
今まで自分の走りには絶対の自信を持っていた。
単純な身体能力では各国の選手達に比べて見劣りするのは仕方が無い。
しかし、技術とか身体の扱いとか精神力とか、そういったものを含めた総合力で敵わないと思った事は今まで一度も無かったのだ。
勝敗は常に僅差であり、順位の上下という幅は、組み合わせとか運とかコンディションの波とか、そういった自分でどうにかするには限界のある要素からの結果でしかなかったはずなのだ。
しかし今、俺の前を悠々と駆けるものがいる。
手を抜いているわけではない。
己の全てをもってしても敵わない。
かつて戦ってきた好敵手達とは全く違うモノ。
人の肉体に宿った獣。
両の腕をも走る為の機関に変え、風を纏って走るその姿に、前に進むことも忘れてただ呆然と見送った。
圧倒的美しさを持った速さ。
憧れすらも通り越した衝撃で、ただただそれを見つめることしかできなかったのだ。
人では到達できない境地があった。
姿かたちは確かに人の身であるというのに、その存在には有無を言わせぬ説得力があった。
次に頭に浮かんだのは『アレと走りたい』だった。
今迄の自分という限界に、先が存在するという可能性をまざまざと見せ付けられたのだ。
俺はもしかしたらまだまだ進化できるのかもしれない。
そう思うと、フツフツと心が沸き立つのを感じた。
久しく感じることの無かった、自分以外の何かに挑むということ。
とても幸せな気分だ。
今の俺には、限界とその先を目指す事ができる肉体があるのだ。
そう、『走りたい』という想いは『どうやってアレに勝つか』へと進んだ。
幸いにもビーチフラッグという競技は、ビリにならない限り何本も走るチャンスがある。
勝敗など目に見えていたが、何度でも(限りはあるが)挑戦できるのだ。
俺はその事実に興奮した。
他のものから見れば異常なまでに熱狂していた。
あの走りに喰らい着きたい。
一歩でも、一秒でもアレに追いつきたい。
自分が当初このゲームに求めていた以上の最高のシチュエーションを前にして、自重という概念は吹き飛んでしまった。
刹那の距離を削り取る為に、肉体と頭脳はフル回転する。
砂地を駆ける為に最適な歩幅、蹴り足、踏み込む場所やコース、それらを維持するための腕の振り、腰や身体の捻り、肺の中の酸素の割り振りにまで拘る。
限界などとっくの昔に超えている。
ここが現実世界であれば既に疲労と酸欠で倒れていてもおかしくは無かったはずだ。
本当の事ではないのかもしれないが、既に現実の世界では実現しえなくなった、俺の夢の残滓がここに結実しているのだ。
楽しい、砂が軟らかい、歩幅調整、息苦しい、腕の振りとバランス調整……
脳はただ前に追いつく為のことだけを考え、心は常に狂奔していた。
無我夢中や明鏡止水といった言葉さえも生ぬるい境地。
いわゆるアスリートが『ゾーン』と呼ぶ領域。
そんな最高の時、俺の意識は強烈な衝撃と共に暗転した。
誰かに呼ばれた気がする。
うっすらと覚醒して行く意識の中で、俺は先程まで何をしていたのかをハッキリと思い出した。
勢い良く起き上がり、ゴールを確認する。
残っていた競技者は全て完走した後だった。
……いや、ハルオ君がいない。
そう思ってふと横を見ると、ハルオくんがそこにいた。
ああ、もう試合は終わったんだ。と思って何か憑き物が落ちたかのように気が抜けた。
折角の挑戦も何がなんだか分からんうちに終わりか。と思ったが、良く見るとゴールには未だ旗が一本残っている。
不思議に思って隣に立つハルオ君に問いただしてみると、驚くべき事に彼は俺に権利を譲ると言う。
彼の今迄の行動や言動を見るに、そんな事を言い出すとは思えなかった。
だが俺に向かって彼は、それで良いと言うのだ。
彼は俺に、アレに勝ちたいんだろう?とも言ってきた。
アレに勝つという事がどういうことなのか。
それを彼が分かっていない訳が無い。
俺のため?
馬鹿なヤツだ。
俺はもう自重などしない。
チャンスがあるというのなら、それを生かすのみ。
ハルオ君は本当にバカヤロウ様だ。
本当に……
それからも俺は何度もアレに挑んだ。
残り少なくなっていくチャンスを最大限に生かすために状況に気を配り、少しずつ肉体のパフォーマンスを向上させ、相手と駆け引きが出来る領域にまで踏み込んだ。
しかしこのまま走りこんでも未だ半歩、いや一歩及ばないだろう。
最終走に至ってなおこれ以上の差は埋まらなかった。
恐らくこの走りは俺の生涯において最高のものだ。
これ以上の走りをこの先経験することは無いだろう。
最後の走りを華々しい勝利で飾りたい。
そして何より、俺を信じたバカヤロウ達の想いが俺の背中を押した。
ガッ!!
出来るだけ硬そうな地面に踏み込んだ右足に渾身の力を溜め込む。
左足が軽く地を蹴り、半身が宙に浮くと同時に右足に溜め込んだ緊張を一気に開放する。
さながら燃料に点火したかのような、爆発的な一歩が生まれる。
その推進力を以って、前傾した身体はロケット花火の如き勢いで空を切った。
しかし俺の研ぎ澄まされて感覚は、その奇跡的な跳躍を以ってしても未だあとほんの僅かな差を埋めることが出来ない事を悟ってしまう。
とどけえッッ!!!
限界まで伸ばされた指の先が、本来なら届き得なかったはずの彼女のアギトの隙間からフラッグを弾き跳ばす。
勝った!!!
ガチンと咬み合わせた口に旗は無い。
勢い余って急には止まれず急転進が必要な彼女と、このまま横に弾かれた旗を掴めば良い俺。
この時点で俺の勝利は確定している。
だが、果たしてこのままこの旗を掴み取って良いのだろうか?
勝利を前にして喜び以上に疑問が俺の胸に湧き上がる。
この旗を掴む事を俺にとって、そして他の誰にとっても最高の結果ではないか。
そう思うのだが、どうしても旗を掴む気になれない。
元の世界では二度とこのような勝負は出来ないのだ!
このチャンスを生かさなければ報われないではないか!!
俺がアレに勝つことをハルオ君だって望んでくれたではないか!!!
そう考えた瞬間、俺はハタと気付いてしまった。
自分の本当の望みを……
俺は試合に負けて勝負に勝った。
もう満足だ。




