『イロアス』
幼い頃から走るのが得意だった。
走ればいつも一等賞。
学校で、地元で俺の事を知らないやつはいない。
中学、高校と進んでも、誰も俺の走りに敵わなかった。
追い着かれまいと必死の形相で前を走るヤツを抜くのが好きだった。
転びそうな速度でコーナーを競り合うのも好きだった。
そして何よりも、誰も視界に入らない先頭を駆けるのが大好きだった。
笑顔で並居る強豪たちを軽々と走り負かす俺の事を、いつしか世間は『日本陸上界の英雄』と呼ぶようになっていた。
しかし俺の足があの頃の様に大地をしっかと踏みしめる事は無い。
あれは代表選考会で優勝し、4年に一度のスポーツの祭典への出場が決まった次の日だった。
代表に選ばれた喜びから、浴びるように祝いの酒を飲んだままバイクに乗った挙句、操作を誤って電信柱に衝突した。
体に残っているアルコールの酩酊感のおかげで、痛みを感じることなく意識を失った。
病院のベッドの上で目覚めた時、俺は何が起こったのか分からなかった。
体が固定され身動きが取れない。
あまりにも左足が痒かったので、なんとか掻き毟ろうと手を伸ばしたが、あるべきものがそこには無かった。
そう。俺の左足は太腿から先が切断されていた。
医者は生きている事が奇跡だと言った。
事故で潰れた車体に左足が挟まれうっ血し、病院に運び込まれた時点で既に壊死していたそうだ。
切断しなければ命が無かった。
医者は全力を尽くしてくれた。
そもそも自分が事故を起こしたのが悪いのだ。
それらを理解はしていたが、認めたくなかった。
俺を風に変え、栄光へと導いてくれた大事な宝物はもうどこにも存在しない。
失意のどん底にあった『堕ちた英雄の残りカス』に世間は優しくなかった。
餌に群がるアリの如く集い、あれほど持て囃したマスコミや周りの人々も、あっという間に俺の周りから去って行った。
恩師だと思っていた人は、新しい才能に鞍替えし、
親友だと思っていたライバルは、俺の事をゴミくずでも見るような目で哀れみ、
恋人だと思っていた女からは、走れない競走馬に用は無いと絶縁状を叩きつけられた。
跡に残ったのは、義足の力を借りなければまともに歩く事も出来ない不自由な身体だけ。
青春の全てを陸上に捧げた俺に学など無く、不祥事を起こした不良品を拾ってくれる企業など無い。
だからといって何もせずに生きていけるほど社会は甘くない。
働かなければ食う事すらできない。
障害者として国から多少の金銭が賄われはするが、それだけで生活できるわけでもない。
それに、かつて強者であった矜持が、ただ養われるままに生きて行く人生になど納得できなかった。
脚を失っても心の脚を奮い立たせ、競技者時代にすらしなかった血の滲む様な努力で這い回った結果、何とか田舎の小さな食品会社に入社する事ができた。
毎日を慣れない流れ作業に神経をすり減らし、あかぎれと肉刺だらけになった手をじっと見詰めると、不意に涙が零れ落ちた。
こんなんじゃない。
俺の人生はこんなものじゃ終われない。
もう一度、あの競技トラックを全力で走りたい。
魂の片隅で、そんな想いが熾き火の様に燻り続けていた。




