かわたれの姫
残照を浴びて刀を振るう少女と少年。子供の声が広い庭にキンキンと響き渡る。
「あー、弥三郎のばか!また顔狙ったでしょー!」
「狙ってねーよ! おりんが避けねぇからだろー!」
少年の刀が掠め取った少女の髪を、入れ替わるように風が攫っていく。ひらひらと宙を漂ったそれは、音もなく地へと舞い降りた。
しばらく間合いを取って睨み合ったあと、どちらからともなく声を上げて笑う。えへへ、と甲高いその声に呼応するかのように、縁側にドタバタと慌ただしい足音がこだまする。
「おりんに弥三郎! アンタたちまた真剣で! こないだ渡した竹刀はどうしたの!」
「あ、母さまー」
少女――おりんが呑気に女性へと駆け寄った。へらへらと笑いながら真紅の打掛に縋りつく。
女性が戸惑いながらも顔を顰める様子に、少年――弥三郎が笑みをこぼした。
ぺちん、とおりんの頭を軽く叩くその女性は、まさしくおりんの母親である穂姫だ。真剣で打ち合う娘が心配で駆けつけたが、いざ怒鳴ろうとしたときに抱きつかれてしまい、その可愛さに根負けしそうになっている。なんとも微笑ましい光景だった。
だからその隙に、と踵を返そうとした弥三郎の襟首を穂姫が光速で掴む。
「弥三郎、ちょっとおばさんとお話ししようね?」
「……はーい」
ただ刀を振るっているだけでよかった。人の命を取ることも、自分の命が取られることも、考えていなかった。
夢中になって、腕を磨いて、ひたすら高みを目指すだけの"趣味"だった。日に日に研ぎ澄まされていく自分たちの腕を誇りに思った。
『弥三郎は強いなぁ』
『弥三郎がいれば御家も安泰だなぁ』
女であるおりんが真っ当に評価されることはなかったが、弥三郎との腕はほとんど互角といっても差し支えなかった。おりんにとって弥三郎が褒められることは、自分が褒められることと同義だった。
刀の腕前を褒められることは、純粋に嬉しい。一国の姫でありながら勉学も舞いも繕いものも苦手だったおりんの、唯一の特技だ。
けれど弥三郎にとっては、そう簡単な話ではなかった。
男の子が、強いということは。
「……いくさ?」
うん、と弥三郎が頷く。
このとき、もう弥三郎は弥三郎ではなかった。おりんに"本当の名前"があるように、弥三郎も大人になって名前を貰ったらしい。けれどおりんにとって弥三郎は弥三郎でしかない。本人もとくに何も言わなかったし、そのまま弥三郎と呼んでいた。
「ふふん、ついに初陣だぞ!」
「いいなー! おりんも行きたい!」
きゃっきゃと騒ぐおりんの頭を、ぺちんと穂姫が叩く。
「女の子は戦には行かないの! 弥三郎も、もう稽古じゃないんだから。油断してたら死んでしまうのよ」
ふと真面目な顔をして告げる穂姫に、うっと弥三郎が息を詰まらせる。その様子におりんも顔を曇らせた。今にも泣き出しそうなその顔に、弥三郎のほうが慌て出す。
「お、俺はおりんを残して死んだりしねぇし!」
えっ、とおりんと穂姫が声を上げる前に弥三郎はさっさと縁側を駆けていってしまった。
「うふふ、おりんと弥三郎は仲良しなのね」
幸せそうに微笑む穂姫の優しい声が屋敷にこだましていた。
* * *
初めて戦場から戻ってきた弥三郎は、笑顔を失っていた。
二度目に戦場から戻ってきた弥三郎は、自信を失っていた。
三度目に戦場から戻ってきた弥三郎は――。
「母さま! もう弥三郎を戦に連れて行かないで!」
おりんの悲痛な叫びが穂姫の耳を貫く。非力な母は、ただ眉間に皺を寄せるだけだった。
「それは、母さまにはどうにもできないわ」
弥三郎が戦場から戻るたびに、おりんはその労をねぎらいに行った。
会うたびに弥三郎はやつれ、その瞳からは生気が失われていっていた。
「……俺、戦って武士と武士が自分の力量を見せ合うための場だと思ってた」
それが、おりんが見た最後の弥三郎の微笑みだった。
「早く平和な世になればいいな」
「……そうだね」
三度目に戦場から戻ってきた弥三郎は、すべてを悟ったようだった。
四度目は、なかった。
大阪夏の陣を最後に、戦の時代は幕を閉じた。
ちちち、と小鳥のさえずりに目を覚ます城下の人々。しばらくすると田畑を耕しに外へ出てくる。
その顔は皆、今までに見たことのないほど爽やかな笑顔だ。きらきらと山の縁から顔を出す朝日が、それらをいっそう輝かせる。
幼い頃の自分のように、木の枝を振り回す子供たち。しかし彼らの刀が人を傷つけることは、もうない。
――これが、平和。
「あはは、弥三郎のいたころとは別世界かも」
欄干に身を預けながら、おりんがぽつりと呟いた。
叶うことならば、こんな時代に生まれたかった。
今なら最期まで弥三郎と一緒にいられたかもしれない。
ほろり、涙が一筋頬を伝った。
――弥三郎がいなくなってから初めて、泣いた。
「弥三郎の本当の名前、私まだ呼んでない……私の本当の名前、呼んでもらってない……!」
募る後悔の念に、堰を切ったように涙が溢れてきた。
一度聞いただけの弥三郎の本当の名前。ずっと記憶の片隅に留まっていたそれを口にすれば、呼応するかのように木の葉が宙を舞い、ひらりと足元へ着地する。
『――』
聞こえるはずのない懐かしい声が聞こえた気がした。
「今度は、平和な世で逢おうね」
庭の隅で貝細工の花が揺れていた。