第二章 羽田恵那
かちゃかちゃくちゃくちゃ。
フォークとスプーンが皿に触れ合う音と咀嚼する音だけがリビングに響きます。
塾が終わって家についても安らぐ事はありません。
ドラマで見かける様なテレビを付け、一家団欒で笑顔を浮かべる夕食なんてこの羽田家にはありえないのです。
お母さんはサラダに手を伸ばしつつも、ちらちらと私に視線を向けます。もし少しでも間違った食器の使い方、行儀の悪い作法をすると注意の言葉が飛んでくるのです。けれど、私の隣で座り、このリビングを響かせる音の八割を発しながら食事をする姉さんには注意しません。片膝を立てても、スパゲティをすすっても、フォークをサラダに突き刺したままにしてもです。
母さんが姉さんに何も言わなくなったのは大学受験を失敗した辺りからです。そしてその分、私は厳しくしつけをされて育ちました。
お母さんと私の食事が終わると、お母さんは通知表について話し始めました。私の隣にはまだ、ポタージュスープをすすりながら携帯電話を眺めると姉さんがいます。
「二学期の成績についてだけれど、全て十だからと言って満足しない事。学校で一番だとしてもね。塾で全国試験が行われたでしょう? その順位はいくらだったのかしら?」
「五二位です、お母さん」
「そうでしょう? 上には上がいます。精進なさい」
「はい、ありがとうございます」
重苦しい空気の中での堅苦しい会話。お母さんの心に触れないように気をつけて、細心の注意を払って言葉を選びます。そうでもしないとお母さんは気が狂ったように荒れてしまい、自分を傷つけてしまうのです。だから私はお母さんを守る為に従順します。それがパパとの約束だから。
そのパパは夕飯時に帰らない事が多く、更に出張も多いのです。私にとってそれは少々心が痛みます。けれどそれは私だけでなくパパも、お母さんも、それに姉さんも同じはずなので、心の奥底にいつもその濁った不満をしまい込むのです。
食事が終わるとリビングに用はないので、ダラダラと食事をしている姉とキビキビと食器を洗うお母さんを置いて二階にある自室に向かいます。
ここまではいつも通りの日常です。本番はここからです、ここからいつもと違うのです。そう意気込むと、途端に鼓動は蒸気機関車みたく不安定になり、けれど、どこか心地の良い大きな脈を打ちます。
学校の友達の話では、夜にはコンビニやファーストフード、それにカラオケなどの娯楽施設へ遊びに行くようですが、私は塾の場合を除き一九時を過ぎれば外出禁止です。現在の時刻を携帯電話で確認すると十九時半。部屋で塾の宿題をしながら、お母さんに気付かれない最適な頃合いを待つとします。席に着き参考書とノートを広げるも気が気でなく、中々勉強に集中できません。
それでも時間はゆるりと流れ、しばらくすると開け放った窓からシャワーの滴る音が響いてきました。私の部屋のほぼ真下にお風呂はあるので間違いありません。音の種類も間違いなくお母さんです。必要最低限の湯量しか使っていないからです。それに比べて姉さんはまるで体に油が付着いているのではないかというくらいの勢いでシャワーを使います。なので絶対に聞き間違うわけがないのです。
シャワーの音を聞く為に窓を開け放しにしていたので、外着くらい着込んでいましたが、山は更に寒いはずなので、コートを羽織り、カイロや毛布などの防寒具が入ったカバンを持ち、いよいよ玄関に向かおうとドアノブに手をかけた、その瞬間でした。ドアの向こう側から声が聞こえてきたのです。
「おーい、恵那。ちょっといい?」
右手の二の腕から肩に、そして背中へと鳥肌が波の様に伝います。
どうやら姉さんもお母さんの隙をうかがっていたようです。ここで拒否をしてしまうと怪しまれてしまうので、泣く泣くドアを開けることにしました。
「どうしたの姉さん」
「いや、どうもしないけどさ」と言いながら扉を押して一歩、二歩と部屋の中に姉さんは足を踏み入れてきます。扉の前で立ち、入ってこないでとさりげなく主張しているのですが、まるで気付いていません。
「なんでこんなにさっぶいの?」
それは先ほどまで窓を全開にしていたから……とは言えず、言葉を探していると、姉さんは布団にくるまり、胎児のような体勢で話しかけてきました。
「そんなに厚着してバックパックまで持ってどこ行くのさ? クリスマス? 乳くりあいにでもいくの?」
「し、しませんっ! そんなこと。ただの気まぐれな夜の散歩です」
「だからそのバックパックはなんなのさ?」
「そのような物、私は持っていません」
バックパック。それを見て姉さんは乳繰りあうだなんて厭らしい想像を働かしたのでしょうが、私にはさっぱり何の事だかわかりません。まさかクリスマスに性的な意味があるはずはないでしょう、キリストの誕生日なのですから。……バックパックとはどのような性的な意味を持つのでしょうか、想像すればする程、わけがわからなくなります。バックとは後ろで、パックとは……パックリの略?
「顔赤くしてどうしたの? まさかバックパックが何かわからなくてエロい物だと思ってるんじゃないんだろうな?」
「どうしてそれを!」
「恵那のお姉さんだからな」
姉さんはふふんと機嫌良さそうに鼻を鳴らします。
「バックパックってのはリュックサックのことだよ」
「あー、リュックのことですか」
私は背負ったリュックサックをぽんぽんと叩きます。なるほど、背中の荷物ということですね。さすがにこれを持って散歩なんて可笑しいです、何キロ歩くのかという話しになってきます。
「でもその服装だとデートってわけじゃないよね」
「ええ、少し遠くまで……山で星でも見ようかと」
「なーんだ」と姉さんは腑抜けた声を出し、ゴロゴロと転がりながら布団を剥いで立ち上がり、すれ違いに「安心した。クリスマスに星を見るなんてロマンだね。また帰る頃に連絡しな。母さんの状況を伝えるから」と言って部屋を出て行きました。
一体何の用だったのか見当がつかなかったけれど、やっと仕切り直しが出来ます。
大きく息を吸ってから扉を開け、足音を立てないようにゆっくり、そろりそろりと廊下を歩きます。心の中はまさにくの一です。難所である「つ」の字の階段もほとんど音を立てずに降りれ、そのまま玄関に進み、靴は履かず手に持ちます。その理由は履いている間にお母さんに見られれば一巻の終わりだからです。それに、そのような危険を冒すかもしれない状態で上手に靴を履けそうにありません。
扉に背中を向け、廊下からお母さんの姿が見えないか確認しながら、ドアノブを下に押し踵から外に出ます。冷たい風がドアの隙間から流れ、もうすぐこの緊張から解放されるのかと思うとその冷たさも良い物で、少し持ち良くなります。
体を完全に外に出してからドアを閉め、視線をあげ、任務遂行と心で呟いた瞬間でした。目の前に人が立っていたのです。私は息をのみます、その見覚えのある姿に。
赤い帽子に白い長い髭……ではなく、いえ、そうなのですが、それだと今日と言う日でややこしく誤解が生じます。恰幅の良い体つきで……ああ、もういくら言葉にしてもサンタクロースを連想させてしまう単語しか思いつきません。あれこれ考えるのが面倒になった私は、その柔らかそうな体に飛びつきました。
「お帰りなさい」
今日はもうパパと会えないと思っていたので、その分喜びも一入です。
「た、ただいま。まさか恵那が出てくると思っていなかった。こんな中途半端な格好ですまない」
話を聞くと、どうやらサンタクロースの格好をして私と姉を喜ばせようとしていたらしいのです。家の中だとそのような格好をするとお母さんに見つかれば叱られるので、外で着替え、私と姉と同じようにお風呂のシャワーの音を聞いてお母さんに見られないタイミングで家に入ろうと思っていた所に私と八会わせた、というのです。パパの足下には着るはずだったサンタクロースの衣装が置かれています。
「そうでしたか、見つけてしまってごめんなさい」
「いや、謝ることではないよ。……で、こんな時間から外出か?」
「そ、それは」
パパはお母さんと違い、私をしつけで締め付けようとはしません。けれどもこの時間から外出となればさすがに叱られるでしょう。
私は眼をじっと瞑り少し顎を下げ、頭を突きだしました。どうぞ殴って下さい。その覚悟はできています。
けれど待てども待てども拳は飛んできません。しかし頭を撫でられる様な感触が伝いました。何故褒められたのだろうと眼を薄らと開きパパの表情を除くと何やらニヤニヤしています。
「メリークリスマス」
「め、メリークリスマス?」
そう言葉を返した後、徐々に頭の天辺辺りがほかほかと暖かくなってきました。何かと思い手で触れてみるとふかふかと羊のような感触がいたします。もしかしてこれは?
「帽子ですか?」
「ああ、この年になっておもちゃもどうかと思ってな。香水とかも考えたんだけどよくわからんし、かと言ってネックレスとかだと季節感無いからな」
パパから頂いたニット帽は全て白い毛糸で出来ていているようです。天辺にもふもふとした丸い物がついていて、編み目で雪の結晶が作られていてとても素敵でした。
「ありがとうございます、私からは何も用意できていないのですが……」
「いいよいいよ。喜んでいる姿を見られただけで満足している。それよりも友達と待ち合わせているんじゃないのか?」
「え、っと、まあ」
あの方が待っているのは私ではなくUFOですけれども。
「うん、いってらっしゃい。別れついでに。すまないが明日から出張で一週間程家を空けることになった。俺がいない間、皆を頼む」
贈り物を頂いた嬉しさを全て失ってしまうくらいに聞きたくない言葉でしたが、私は覚られないように下を向き。すれ違いに「安心していってらっしゃい。そしていってきます」と言って門をくぐりました。
思わず感情があふれ、どうにかなってしまいそうでしたが、気を紛らわそうと帽子のもふもふに手を伸ばしもふもふしていると、何だか心ももふもふしてきて、そのうち早く白井くんに会いたくなって駆け出していました。




