第十一章 羽田恵那
時は白井くんと喧嘩をした日まで遡ります。
小学生のような容姿をした姉さんの友人は、白井くんが一番喜ぶことをしてあげればいいと助言をしてくれました。確かに私には彼からの好感度が圧倒的に不足しているでしょう。
しかし、その方法とは一体何でしょうか。私は思案しながら帰路につきました。
玄関を開けると真っ先に飛んできたのは母さんの怒声でした。学校を早退したことは知られていませんでしたが、塾帰りに寄り道してきたことは帰宅時間で気付かれるので仕方のないことだと諦め、私は歯を食いしばり、母の平手打ちを受け入れました。左頬に重い二発を浴び、口内は出血してしまいました。ついでに言いますと夕御飯は罰として抜きです。機嫌が悪ければさらに髪の毛を引っ張られ引きずり回される所でした。
姉さんの部屋の前を通った際に、あの友人の名前が気になり、今年になってから一度も朝の目覚ましをしてくれず、部屋にひきこもり、一度も会話もしていない姉に言葉をかけることにしました。
きっと大晦日の宇宙科学館でのことを気にして籠り続けているのかもしれません。
「姉さん。ただいま」
…………反応がありません。けれど姉さんが好きなアニメの時間なので起きているはずです。これはいわゆるシカトという奴でしょう。パソコンの画面に食い入る様が安易に思い浮かぶので、また明日にでも彼女の名前を聞くことにして、自室で白井くんの幸福について考えることにしましょう。
次の日。考えがまとまった私はそれを実行に移す為、放課後に寺内くんと会っていました。場所は旧図書室。今日は白井くんが風邪の為に早退したので、部屋には二人きりです。チケットを貰った日、白井くんが座っていたソファーに腰掛ける寺内くんに何故か違和感を覚えます。
「最近、よく優とここで会っているだろう」
「ええ……まあ」
白井くんとは始業式ぶりで、しかもここで会ったのはクリスマス以来なので、それは私ではなくもう一人の私の仕業に違いありません。けれどここで私ではない、というと話がややこしくなるので頷きます。胸をもやもやさせながらも。
「ところで話しって何。羽田さんから声をかけてくるなんて珍しいよね」
「ええ、お願いごとがありまして」
「白井の写真が欲しいのかい、それとも住所? 噂? なんでも売るよ」
そう言うと寺内くんは制服のポケットから何かを取り出そうとします。
「ちっ、違う。そうではありません」
寺内くんはふっと軽く笑い、再び視線を私に向けます。
「ではなにかい?」
「またUFOを作って欲しいのです」
「どうして?」
「白井くんと白井くんの弟の為に」
そう答えると寺内くんは途端につまらなそうな顔をしてため息をつきました。
「優の為にか……」
「はい、材料費くらいなら手持ちにありますが、それ以外はまたお小遣いを貰ってから払いますので、お願いします」
「嫌だね」
「えっ」
白井くんと仲の良い寺内くんなら快く引き受けてくれるだろうと思っていましたが、大誤算です。どうして嫌なのでしょうか。
「暇がないからですか? それともお金?」
「違う。もっと簡単なことだよ。君は気付かないだろうが」
決めつけられるのはどこか気分が良くありませんけれど、それ以外に理由を思い浮かべられません。すると寺内くんは立ち上がり、私と目と鼻の位置まで近づいてきました。恥ずかしくて目を背けてしまいます。
「その顔いい」
「恥ずかしいです」
「これからもっと恥ずかしいことをしてもらおうと思う」
「何ですか」
寺内くんの表情は薄ら笑いから真剣な顔つきに変わりました。
「接吻をしようじゃないか」
あまりに唐突で脈絡のない言葉が通り、返事が出来ず思わず固まってしまいます。
「そうしてくれれば、材料費も手間賃もいらない。そのかわり断れば手を貸さない」
「ですが……」
何を迷っているのでしょう。
私一人の手で、自称異星人である白井くんを騙す物がUFOを作れるわけがありません。どのような道具を用い、どのように作り、どのように操縦するかも全く見当がつきません。
ですが、その対価に口付けとはいかがなものでしょうか?
寺内くんを嫌いというわけではありませんが、この国で口付けという位置づけは、本来好き合う者同士が行う、愛の確認といえる行為ではないだと認識しています。その初めてを白井くんではなく、その友人に行うと言うのは気が引けますし、人の道を外れているようにも思えます。
けれど、姉の友人の方は言っていました。嘘には覚悟が必要だと。
それはまさに今ではないでしょうか。それに口付けが初めてかどうかなんて見てわかるはずがありません。ならばためらう理由などないのです。
もしも白井くんと口付けをする日が来ても、このことを伝えずに何気ない顔で唇を合わせればいいのです。
私の罪悪感で白井くんが幸せになれるのならば、それは十二分の価値があります。
「いいですよ」
私は決心し眼を閉じます。すると、顎に指を添えられ、少し上に向くようにと軽く押され、私はそれに従い俯き加減になります。
すると、まぶたの裏には白井くんの顔ばかりが浮かんできました。しかしあまり笑った顔はなく、しかめ面ばかり。
あと何秒後に私の唇は寺内くんの唇とふれあってしまうのでしょう。そして対価として偽物のUFOが手に入るのです。そうすれば白井くんの笑う顔も見られるかもしれません。目を閉じれば白井くんの笑顔が浮かぶかもしれません。
寺内くんの熱が頬から伝わり、もうすぐそこに顔があることがわかります。
初めては白井くんがいい。
そう願った瞬間でした。額に柔らかな感触が伝わり、私は思わず首を傾げてしまいます。
うっすら眼を開けると目の前に彼はいませんでした。
「それでまけとくよ。明日から準備に取りかかるから、学校休むなよ」
背中にその声が響き、振り返ると同時に扉は閉められました。その音を聞いて、私はその場に膝から崩れ落ちます。胸は高鳴りますが緊張は解け、思わず目が潤みます。
まさか口付けに唇以外の物があるとは思っていませんでした。
そして次の日の放課後、私と寺内くんで材料の買い出しを行いました。
疑似UFOの元となる物がまさかフリスビーとは思っていませんでした。どうやらこれに発光塗料という蓄光するペンキがあるらしく、それを塗るそうです。その塗料のお金も私が出したいと言いましたが、寺内くんは親が仕事で使っているから大丈夫だとおっしゃいました。しかし、それでは気が引けてしまうので、ここは引かずにホームセンターに行き購入を試みましたが、その値段に絶句。諭吉さんがバレーボールを行える人数は必要だと知り、失礼ながらも彼の厚意に甘えることにしたのでした。
その後、寺内くんの親の仕事場で(どういう仕事かはわかりませんが、小さな工場でした)フリスビーに発光塗料をひたすら塗り続ける作業を終え、彼とその親にお礼をして帰宅したのでした。
寺内くんは先日のキスの件があったからか、最初はぎこちない感じでありましたが、徐々に会話を交わすことで徐々に彼らしさを取り戻し、ほっとしたのでした。
家に帰り、姉さんの部屋を通った時に、ふと一昨日の小さな姉さんの友達を思い出し、ドアをノックしました。一昨日はアニメの放送時間でしたが、今日はそうではないので答えてくれるはずです。
しかし数秒時間を置いても扉は開きません。もしかすると寝ているのかもしれないので確認のため扉に耳を当て、物音がするか確認します。
ベースの重低音が響いているので音楽を聴いているはずですが……。
もしかしてこの一週間部屋から出てこないのは私と気まずい関係になっているからではなく急性の病を患らっているのでは……。嫌な想像をし、けれど意外と的を射ているのではないかと思い出すと額から冷や汗が流れてきます。
こうしてはいられない気持ちで一杯になり、返事があるまで入ってこないでという約束を破り、扉を開けます。
「姉さん!」
勢い良く名を呼んでみたものの、部屋には姉さんの姿がありませんでした。
恐らく万年床となった敷き布団、炬燵とその上にあるデスクトップ型パソコン、そして漫画ばかりの本棚に菓子袋やペットボトルが転がった床。敷かれたカーペットにはダニが沢山いるに違いありません。それにほこりが充満していて鼻をくすぐられくしゃみをしてしまいます。
姉さんの部屋に入るのは中学生以来なので、その変わりように少し驚きます。あの頃は汚部屋ではなく、ほこりを探すことも難しいくらいに掃除がされていましたし、本棚には漫画はなく参考書や教材ばかりでした。これも学校に行かなくなった変化でしょうか。
見渡すとパソコンの電源が入っているらしく、洋楽のジャンルで言うとロックなるものが聞こえてきます。そしてモニターに眼をやった瞬間でした。背後から「恵那!」と強い声で呼ばれ、驚き振り返ります。
姉さんはゆっくりと扉を閉め、こちらに歩み寄ってきます。町を歩く大怪獣のようなゆるりとした足取りで。
「すみません。あの……ノックをしたのですが、返事がなくて……」
姉さんは今まで感じたことがないくらい怒りの気を身にまとい、獣の様な形相で私を睨みつけます。私の声は届いているのか疑わしいけれど、話しを止めた瞬間に飛びかかってきそうなので、慌てて言葉を探します。
「もしかすると病気をしているのではと不安になって……」
そう言った瞬間でした。姉さんがこちらに飛びかかってきました。言訳はもう聞きたくないと言った勢いです。
「ひゃっ」と思わず声を上げて眼をつむり、体を屈めてしまいます。
伸びてきた手は私の頬を打たずに髪をさわり、そっと上下に撫でたのでした。暴力を覚悟していた私は訳がわからず、きょとんと口を開けて姉の顔を覗きました。すると瞳が潤んでいました。
「姉さん?」
「大丈夫よ。ごめんね、心配かけて。部屋を出なかったのは病気ではないの」
「では、どこに原因が? 博物館のこと?」
「それは……少しあるね」
姉さんは言い辛いのか顔を歪め、口をすぼみました。
「で、何でノックしたのよ」
そして強引に話を脱線させ、誤摩化そうとします。誤摩化す理由が気になりますが、まずこの問いに答えておきましょう。私にも訊きたいことがありますし。
「この間、姉さんの中学生時代の同級生に会いまして、どなたでしたか名を伺いたくて」
「ふーん」
姉さんは私が他人の話をすると途端に機嫌を損ね、言葉に力をなくします。
「小さくて威勢が良くて関西――」弁で喋りましたよ。と、最後まで言う前に両肩を爪痕が出来るくらい強く掴まれ、言葉を遮ります。
「あんた明菜に会ったの?」
姉さんの口臭がすごくて思わず鼻を覆いたくなりますが、傷つきやすい姉さんにそのような態度を取ると、また一週間程部屋にこもる可能性があるのでここは我慢です。
「明菜さんと言うのですか。はい、会いました」
「何かされなかった?」
凄く神妙な面持ちで姉さんは訊ねます。この扱いだと明菜さんが犯罪者や詐欺師の類に思えてきます。
「特には」
「妙なことを吹き込まれなかったでしょうね?」
「いえ、相談を受けてもらっただけです」
そういうと姉は膝から崩れ落ち、そのまま敷き布団に倒れ込みました。そしてうずまりながら「あーあーあーあ」と小さなうめき声を上げます。
「どうしました」
「どーもこーもないよ。あんな人のカスな部分の集合体の様な女の言葉を耳にすると耳が腐って、精神が朽ちるわよ」
酷い言われようです。何をすればここまで姉の嫌悪感を高められるのか見当がつきません。
「姉さんはどうして明菜さんをそこまで嫌うのでしょうか?」
明菜さんを悪い人だと認めない私に苛立っている姉は、舌打ちをしながら起き上がり、表情を強張らせてパソコンのマウスを握りました。
「これは明菜から回されている仕事よ」
モニターには画像編集ソフトが立ち上げられていて、ホテルのベッドルームの画像があり、姉さんはの左中央のライトがある辺りにマウスポインタを合わせました。クリックすると何やらモヤのみたいなものが表示されました。
「何ですか? これは」
「霊よ」
姉さんはそんな非現実的なことを躊躇いも恥ずかしさを見せることもせず、さらりと言いのけました。
「冗談でしょう?」
「本当よ」
まさか姉さんは霊媒体質だから家から出られないと言うのではないでしょうか。撮った写真に霊の霊を、加工ソフトで除霊を施す……いや、もしかすると私は多重人格ではなく、霊に取り憑かれていたのでは。そんな恐怖に震え、血の気を引いてしまいます。
姉さんの唇がゆっくりと動きます。
「大体わかった? あいつはインチキ写真を私に作らせているのよ」
「えっ?」
「わかってないか。ちゃんと説明するわ。明菜は写真屋をやっていて、五人に一人くらいだけど現像した写真を一枚抜き取るわけ。で、その抜き取った写真に私が霊や変な動物や
UFOを貼付けて、後日その人に一枚入れ忘れていました、と連絡して客に返し、そう言えば最近この辺りで変なものを見たという話が多いんです的な話をして、一枚の写真じゃ説得力ないから、さらに何枚か偽写真を用意して信憑性を高めるわけ」
「何故明菜さんはそのようなことを?」
「中にはそういう写真を撮りたくて仕方のない連中がいて、そいつらに来てもらう為に、この写真屋で現像してもらったら何か写るかもしれないというジンクス的なものを作るためよ。で、明菜は上手いこと言って割高で現像するわけ」
「それはなんともけったいな詐欺ですね」
「こんなのまだほんの一部よ」
姉さんは舌打ちをして、ずらずらと彼女の悪行を口にしていきました。
小学生にチビと罵られ注意をしても聞かなかったので、その子の小学校の修学旅行に付いて行くカメラマンに無理矢理なって、現地でその小学生の写真を一枚も撮らないと言った何とも反応し辛いものから、女子高生の写真を撮りネットで売るという私にとって身近な危険、そしてここでは言えない様な黒い仕事まで様々でした。
聞き終わる頃には明菜さんに対する私の評価はツバメの低空飛行くらい下がっていました。
「これが明菜よ。わかった?」
姉御肌が心地よく、いい相談相手になってくれたと思っていたのですが、姉さんの話を聞いてからだと、あの助言は違う意味を持っているように感じます。
相手が喜ぶ嘘なら悪ではない。しかしそれ相応の覚悟が必要。
まるで自分に言い聞かせているようです。
ですが一つわからないことがあります。
「そこまで軽蔑している人の頼み事を何故引き受けるのですか?」
訊ねると姉さんは何も言わずにいきなり頭を床に付け、土下座をしました。
「ごめん。私が妙な心配をしなかったら明菜が恵那を知ることはなかったの」
「どういうことです?」
姉さんは頭だけを上げて私の眼を見つめます。
「恵那の様子がおかしくなって、それが怖くなって狐とか犬とかに憑かれてるんじゃないかって」
姉さんはとうもろこしが材料の物を好むようになり、朝食時にいつもと違う様の私をおかしく思い明菜さんに相談したそうです。彼女が心理学や民俗学にも学があり、探偵のようなことも行っていることを知ったそうです。
「恵那のことを調べる代償でこの仕事を引き受けたの」
どうやら私が二人いることで様々な人に、様々な迷惑を与えているようです。これはもう放っておける心境ではありません。私かもう一人の私、どちらかにこの体を与えなくてはなりません。そしてそれは明日決意できるでしょう。
「いえ、姉さんの心配は最もです。こちらこそ迷惑をおかけしました」
疑似UFO作戦のあとに。
「くっそお、全然駄目だ!」
冷たい日本海の風が肌を切り刻むように強く吹き荒れ、目の前が真っ白な程に降り散る雪。そうはちぼんの山に寺内くんの叫びは響かず風音にかき消されます。天気は最悪。そんな山の中でフリスビーを放りますが、風と雪が疑似UFOを墜落せんとばかりに吹き付け、五メートルも飛ばずに山の森の中へ消えていきます。
日が暮れた中、木に引っかかる光ったフリスビーはクリスマスツリーのようで皮肉にも少し美しく思えます。時計を見ると約束の時間まで五分を切っていますが、フリスビーはUFOのように舞う気配はまるでありません。
ところで約束と言うのは、夕方頃に白井くんの弟にUFOを見せると言ったことです。ちなみに病室は学校の先生に聞きました。
「どうすりゃいいんだ」
落胆と苛々を込めた右足で寺内くんは横に置いていた自作フリスビーシューターを蹴り上げました。前回はバレーボールの練習機を改造したこのシューターで綺麗にフリスビーは勢いよく空を舞ったそうですが、今回は機械が故障したらしく、電源が入ってくれません。
私も横なげでフリスビーを一枚放りますが、すぐに風にさらわれ、木々の飾りに変わってしまいます。暗いうちは綺麗ですが日が出ればただのゴミなので無闇に投げることは気が進みません。けれど白井くんを喜ばせる為に少し心を濁らせるくらいは覚悟のうちです。ですが、風と雪のせいで体が冷えたせいか、段々と意識が遠のいていきます。白井くんは今日も風邪で学校を休みました。もしも私とのことで気まずくなり仮病で休んでいるとすれば申し訳ないな……と思いっていると頭の中が真っ白になり、体の感覚がなくなります。
「おい、どこ行くんだ羽田さん!」
風の音の隙間を縫って微かに聞こえる寺内くんの声を聞き、私は意識を失ったのでした。
眼を覚ますとそこには白い景色が広がっていました。
「起きたか!」
その声で頭の中の眠気というモヤは吹き飛び、白い景色が天井であることに気付きます。そして仄かに香る消毒液の匂い、点滴で少し痺れる腕。ここは病院。そしてその声の主は白井くん。
「私は……どうして?」
「山で倒れたんだよ」
「そうですか」
開始時刻前に倒れてしまうなんて……寺内くんはきっと看病をしてくれたので白井くんの弟にUFOを見せることはできなかったのでしょう。手伝うつもりが、これではただの邪魔者です。
しょげて首をもたげる私に対し、白井くんは口を開きました。
「ありがとうな」
「あっ、いえ。お礼をされるなんて」
どうやら白井くんは私が二度目の疑似UFOを飛来させる件について知っているようです。眠っているうちに色々と寺内くんから話を聞いたのかもしれません。けれど、私は失敗してしまったのだから、感謝などされる筋合いはありません。いえ、弟さんを騙そうとしたのだから責められるの筋と言うものです。しかし白井くんは……。
「本当に感謝している。弟は大興奮だったよ」
笑っていました。私の冷えた心を温める程に。
「いきなり山から大きな光が出たってな、雷みたいに」
「でもそれはUFOではないのでは?」
「あいつはUFOだって信じている。ちゃんと異星人が予告をしにきたからな」
そして白井くんはぼそっと言いました。これであいつは外の世界に興味を持ってくれたと。
白井くんが喜んでくれたことはこの上ない幸せですが、ひとつ訂正しなければならないことがあります。
「でも、それは私が行ったのではないでしょう?」
「いや、お前だ」
「いえ、もう一人の――」
言いかけた私の言葉を遮り、白井くんは少し影のある笑顔を見せかぶせてきます。
「羽田は羽田だ。誰もいない」
それはまるで自分に言い聞かせる様な言い草でした。
きっと白井くんはもう一人の私を忘れる準備を、私よりも少し早く始めていたのでしょう。ならば私も始めなくてはなりません。大きな劣等感を消す為に。
「白井くん。色々とありがとうございました」
私の言葉に少し驚いた表情を見せましたが、小さな声で「おう」と答え、少し微笑む彼の横顔を見て、この瞬間を一生忘れないと誓うのでした。
三日後に退院してから、学園生活に大きな変化はありませんでした。少しの変化と言えば、白井くんは異星人と名乗ることを辞め、私は少し肩の力を抜いて日々を過ごしたくらいです。それによって、私も白井くんも、少しだけ笑顔が増え、少しだけ他人との距離を縮められ、少しだけ明日を待ち遠しく思い、昨日を寂しく思えるようになったと感じます。
けれど二人の距離に進展はなく、会話は挨拶程度。特別なことをしたとすれば、それはこの交換日記でしょうか。これを交換日記と呼んでよいものかわかりませんが、私はもう一人の彼女のことが気になり、白井くんに頼み、あの出来事を遡ってノートに書き記し合う事を決めたのです。
そして最後の部分を書いたまま白井くんに渡すことを忘れ卒業式を終えたのでした。
それは、どうしてでしょうか。もしかすると卒業後に会う口実を作ろうために無意識がそのような働きを行ったのかもしれません。




