第八章 羽田恵那
初夢は悪夢でした。
小学校の教室にいる私は、小さな机と椅子に体を無理矢理に押し込み、体をきしませながら座っているのでした。机の上には給食。教室にはたくさんの机が並べられていますけれど、誰もいません。先生すら。けれど壁や窓の向こうからは児童達のざわつく声が聞こえてきます。笑い、泣き、話す声が。
それらを耳にしながら、私は一人、窮屈な姿勢で給食を食べるのです。
茶色のこげがついた長いパン、五目うどん、ほうれん草のおひたし、そして牛乳。どれも口に運ぶ度に嗚咽してしまいます。普段なら嫌いではない料理ですけれど、給食ということでひどく不味く、口に合わなくなってしまうです。
パンは何の味もなく、ただ口内の水分を奪っていくだけ。うどんは暖かいつゆに何十分も浸されたままなので麺がのびきり、食感がふにふにとしてまるで良さが出ていません。ほうれん草のおひたしも同様に浸しすぎて味が濃いのです。牛乳は水で薄めたのかと思うくらいに味は薄いのですが、特有の臭みはそのままなので、臭い水を飲んでいる様な味がするのです。
どれも箸を付けたくない物ばかりですが、給食を残して教室から出て家に帰ることは出来ません。母さんに酷く叱られるからです。
早く食べないと習い事の時間に間に合わない、日が暮れてします、誰もいなくなってしまう。そう考えた途端に背筋が凍り、一気に追い込まれた感情になって、その勢いでうどんを口に運びます。うっぷ、うっぷ、と吐き出しそうになり、口を手で押さえながらなんとか飲み込み、次はパンと牛乳を詰め込みます。牛乳の臭みが口いっぱいに広がって眼が潤んできますけれど、なんとか食し、最後はおひたしをかき込みます。胃液が出てきて口の中がすっぱくなり気分は悪いですがなんとか食べ終わり、ごちそうさまでした、と手を合わせ一息ついた瞬間でした。
お皿には再び同じ料理が盛られているのです。
一食分を食べ終えたことで満腹になりましたが、まだ給食が私の机に置かれていると言うことは、これは私が食べなければいけません。一食分で給食が終わりなどという決まりはないのですから。
涙ぐみながら私はまた給食を食べるのです。今度は満腹感と戦いながら。
それは長い長い夢でした。普段見る夢は体感時間で長くて十分程度ですが、初夢は四時間くらいあったように思いました。その間、私は六回も給食を平らげました。最後の二時間は食べた物をもどしながら食べていました。考えるだけで気色が悪いです。
そのような話を朝一番、凛と澄みきった空気が漂う晴天の気持ちのいい元日、しかも初詣に行く道中、隣を歩く赤い振袖が似合う織絵さんに話すことを出来る訳がなく、夢の断片を思い出しながらもやもやした気持ちを抱くのでした。いえ、昨日の白井くんとのことがあって、もはや、もやもやどころではなく、もじゃもじゃといったところでしょうか。
タイムマシンがあればすぐにでも約束した日まで戻って約束を取り消しに行くぐらい、大晦日は嫌な日になったのですから。
そんなもじゃもじゃ状態の私を見て、織絵さんは「どうしたの?」と訊ねないはずがありません。好奇心で燦々とした瞳とふわふわした足取りは気になって仕方がないと言うことを、体で表してくれています。けれど、それを訊ねるタイミングがわからないと言った所でしょうか。信号で足を止める度にちらりちらりと私の顔を見てきます。「紺の振袖かわいいね」と他愛のない会話もしてきます。そして青に変わると何事もなかったかの様な顔をして足を踏み出すのです。
それを何度か繰り返し、神社の看板が見えた頃でした。織絵さんは痺れを切らしたように口を開きました。
「あーもう。いいや、聞いちゃえっ」
私の前までぐんと足を伸ばして立ち止まり、じろりと大きな瞳で顔を覗いてきました。
「どうしたの? 織絵さん」
「その言葉をそっくりそのまま恵那ちゃんにお返しするよ!」
彼女は口を少し膨らませ地団駄を踏みながらそう言いました。
「どうしたと言われても……」
ただ夢の事と、昨日の過ちを思っていただけです。
どうしてあの様な夢を見たのでしょう? 夢と言うものは人の深層心理を映すと言います。ならばあの夢は私の無意識の固まりなのでしょうか?
私はあの夢の通り、小学校低学年までは昼休み前の掃除時間まで給食をよく食べていました。あの頃はまだ人並みに食に対し好き嫌いがあったので、涙を溜めながら食べていた覚えがあります。級友には掃除をさぼる為にわざとやっているだろうと文句を言われることも少なくありませんでした。それに掃除をしているため、砂埃が舞う中の食事は当たり前です。けれど、たまにどうしても食べられない物があった時、級友が食べてくれることがあって、その度に友達っていいな、と強く思いました。
そんな私は、勉強が出来るわけではなく、絵も下手で、運動も出来ず、口数も少ないので友達があまりいませんでした。ですが、給食を時間内に食べられるようになり始めた小学生の中学年くらいから、どれも平均的な能力を身につけ、中学二年生の頃には学年で上位の成績を収めるようになっていました。これはひとえに、日々の努力の賜物以外ありません。年三百四十日のピアノ、絵画、水泳、バレー、塾といった習い事のお陰なのです。何も出来ない私に何か出来るようにしてくれたことと引き換えに、私は友人と関わる機会が学校以外でほとんどありませんでした。
それでも寂しくなかったのはどうしてでしょう? 林間学校も修学旅行も毎日の学校生活も、ひと時もそのような気持ちに陥ったことはありませんでした。もしかして友達がいないことになれていたからでしょうか?
いつまで経っても続きを話さない私に嫌気がさしたのか、織絵さんはぷいっと膨れっ面のまま勢い良く前を向き、先に歩いてきました。私も慌てて追って行きます。
近づくと織絵さんはにたりと笑って私の方を振り返りました。
「もしかして昨日もこんなんだったんじゃないの?」
「こんなん?」
「白井と出かけたんでしょう? そのとき、あいつは先へ先へとあたしみたいに歩いたでしょう」
行きと帰りと、そして途中に用を足した記憶しかない私ですが、織絵さんの言うことに違いはなく、うんうんと何度も頷きました。
「話しもしないでさっさと歩いて、あたし達のペースを考えないで好き勝手やっていたんでしょう? ねえ?」
「どうしてわかるの?」
織絵さんのまるで昨日の私達の行動を見ていたかのような言葉のせいで、雪崩のように次々と昨日の痛々しい記憶が生々しく浮かび上がります。
「わかるわよ。男なんてそんな奴ばっかよ。それでどうだった?」
どうだった。その言葉はずしりと私の心を重くします。
「歩くのがとにかく速くて、私が少しよそ見や立ち止まるとすぐ距離が開いちゃって、埋める為に小走りするの。それでも一言もないの、気付いてないの。会話もないから何か話さなくちゃ、でも気分を悪くさせる様なことはだめだから、なんて選んでいる間に時間が過ぎていって、結局どうでもいいことを口にすると、つまらなそうな顔をするの。なのに訳のわからない所で笑って……もう本当にわからないの。何が考えているか。異星人だとか関係無しよ。もう全然……ぜんぜん」
みしりみしりと瓦礫が崩れる様な音が心からしている気がします。けれど言葉は止まりません。
「全然楽しくないよ」
「そう」
ボソリと私が言うと織絵さんは静かに頷きました。
鳥居をくぐるとクリスマスに見た境内が映って、あの日に戻れたらと再び思ってしまいます。するとおみくじ売り場の方で手を振る人達が映りました。織絵さんを見ると大きく手を振り返しています。
「ちょっとごめんね、すぐ戻るから」
そう言って彼女はおみくじ売り場に駆けて行きました。途端に大きな声を出し、笑い声を上げています。私の前では決して見せない姿です。織絵さんは友人が多く気さくなので、私の様な暗い性格をした者とは合っていないのかもしれません。けれど織絵さんは優しいので、こうやって一人で年初めを迎えようとしていた私を、初詣に誘ってくれました。
彼女はこれからあの方達と遊びに行ってしまうのでしょう。そして私は一人で山を下り、電車に乗って、部屋で塾の問題集をするのです。これからもそういった日々が続くのでしょう。
話し終わったのか、織絵さんは私の方へ走って戻ってきました。息を切らしています。
「ごめんね、待たせてしまったね」
「いいよ。気にしてない。それよりもう行っちゃう?」
「へっ? どこに……って。なるほどね」
このこの、と言いながら織絵さんは私の頭を人差し指で突いてきます。
「なんです。や、痛い」
「へー、嬉しいねー。私は嬉しいよ、恵那ちゃん」
「えっ?」
「だって、高校に入ってから一つも相談事もしてこないし、泣かないしで、寂しかったんだよ。そんな恵那ちゃんが私に久しぶりに愚痴を言ってくれるし焼きもちも焼いてくれるし、今年はこれから嫌なことしかないんじゃないかってくらい幸せづくし」
織絵さんは私の不幸話を聞いてどこかうれしそう……というよりは安心したといった表情を浮かべます。
「小学校の頃とは見違えるくらい成績も上がって、友達も出来てさ、もうあたしなんていらないだって思っちゃったよ」
「そ、それは私のセリフ。いっぱいの友達がいる織絵さんに私なんて……」
「なにそれ」
こらえきれないといった具合に、彼女は口を抑えて小さく笑い出しました。
「私のこの性格は持って生まれたモノ。友達が多いのはその副作用なの。言い換えれば成長していないってことなのかな? その点、恵那ちゃんは小学校の頃のドジで間抜けから石を積み上げるみたいに地道な努力で成長したの。本当に尊敬してる」
「それは私のセリフよ」
織絵さんの言葉を聞いた瞬間、映画のフィルムのように断片的に思い出が溢れてきます。
小学一年生の頃、下校を一緒にしようと誘ってくれたこと、体育で二人組を組んでくれたこと、嫌いな給食を食べてくれたこと、写生の時にモデルになってくれたこと、林間学校のとき、登山で疲れた私の手を引いて歩いてくれたこと、卒業式に皆の前で泣けない私と公園で泣いてくれたこと、中学一年の自己紹介の時言葉に詰まった際に気の利いた一言で皆を笑わせてくれたこと、顧問の先生にバレー部の部長にされ、後押しして支えてくれたこと、塾であまり文化祭の準備に参加できず、周りから避けられ始めたとき、皆を説得してくれたこと、修学旅行でグループを組めない私を入れてくれたこと、卒業式で泣くあなたをみてもらい泣きしてしまった私にハンカチを貸してくれたこと……。
「私は織絵さんがいないと本当に駄目で……学校に通ってなかったかもしれない……本当に尊敬しているの」
「そこまで言われると照れるよ」
織絵さんは境内の方に体を向けて、「行くよ」と歩き出しました。
「じゃあ、これは運動も勉強も芸術も頑張った恵那ちゃんの最後の試練かもね」
「これって?」
「白井のことよ。こればっかりはあたしがどうこうするモノじゃないでしょ。人の恋路に手を加えたって良いことなんてありゃしなかったのよ。だからこれまでの経験で恵那ちゃんは白井の心をつかみなさい」
「できるかな?」
「できるわよ。好きなんでしょう?」
昨日は全く楽しくなくて疲れが凄く溜まりました。けれど……その気持ちが消えることはありませんでした。
「はい」
一礼をし、賽銭箱に五円を放ってじゃらじゃらと鈴を鳴らし、願うは彼のこと。
去年までは一家健康という言葉でしたが、たまにはこういう年もあってはいいのではないかと思うのです。
私は恋に溺れる決意をしたのでした。




