「気の利かぬ地味な女だ」と捨てられた公爵令嬢——その夜会から、誰も次の一言を継げなくなった
「エルフリーデ。婚約を、白紙に戻す」
そう言われて、わたくしがまず思ったのは——あ、今日の席次、誰が直すの、ということだった。
いえ、誤解しないでいただきたい。悲しくなかったわけではない。八年も婚約していた殿方に、広間のど真ん中で別れを告げられて、平気な令嬢がいたら見てみたいものですわ。
ただ、わたくしの頭はそういうふうに出来ていないのだ。
婚約破棄、なるほど。けれど今夜のこの夜会、北の伯爵と西の子爵の席を、わたくしはわざわざ三つ離して組んである。あの二家は領境の水利で揉めていて、隣同士に座らせると、三杯目あたりで必ず殴り合いが始まる。誰が直すの、これ。それから隣国の使者様。今夜お出しした林檎酒の銘柄、あれは故郷の味に近いと喜んでくださっていたけれど、間違えるとあの方は三日は不機嫌になる。明日からの取り次ぎは、どなたが——。
「……エルフリーデ。聞いているのか」
「は。失礼いたしました、殿下」
わたくしは慌てて、思考の引き出しを閉めた。
悪い癖だ。場のことを考えはじめると、止まらない。
話を、少し戻したい。
夜会の前というのは、たいていわたくしの屋敷から始まる。
「お嬢様。今夜の席次表、こちらでよろしいですか」
老侍女のハンナが、紙を一枚、わたくしに差し出した。
「ええと……まあ、ハンナ。北の伯爵様と西の子爵様、隣同士ですわよ」
「あら。いけませんでしたか」
「いけませんとも。あの二家、領境の水利でずっと揉めているのよ。隣に座らせたら、三杯目で殴り合いが始まりますわ」
「……三杯目で」
「ええ。前に一度、四杯目まで待ってしまって、卓がひっくり返りましたの。だから三杯目の手前で離す。これが鉄則ですわ」
わたくしは羽根ペンを取って、席を三つ、ずらした。あいだには、誰からも好かれる温厚な老臣を一人。
「それから、隣国の使者様。林檎酒は、北の地のものを。あの方、酒の銘柄を間違えると三日は不機嫌になりますの」
「三日も」
「三日も。一度、南の酒をお出ししてしまって、翌日からの取り次ぎが、それはもう大変で」
ハンナは、目を丸くした。
「お嬢様。よく、そんなことまで覚えていらっしゃいますねえ」
「覚えているのではないの。聴こえてしまうのよ。誰と誰が、隣にいると軋むか。どの席が、ほどけそうか。——困った耳でしょう」
わたくしは、苦笑した。
これが、わたくしの仕事だった。誰と誰を離すか。どの来賓に先に酒を運ばせるか。気まずい沈黙が落ちかけた一瞬に、何でもない一言を差し込むこと。
地味でしょう。自分でも思う。
でもこの地味さで、王家の夜会は八年、一度も荒れずに回ってきたのですわよ。——と、声を大にして言いたいところだけれど、もちろん言わない。淑女だから。
「お嬢様の才は、立派な才でございますよ」
「あら。剣も魔法も使えませんのに?」
「席をひとつずらすだけで、殿方の殴り合いを止められる令嬢が、ほかにおりますか」
「……そう言ってくれるの、ハンナだけよ」
わたくしは、ふっと笑った。
そう。そうなのだ。
わたくしの結ぶ糸は、誰の目にも映らない。起こらなかったことは、誰にも見えないのだから。
「それで、よかったの」
とも、思っていた。気づかれぬことこそ、仕事の証だと信じていたから。
……いま思えば、そこが、甘かったのだ。
幾年も、同じことを続けた。
ある夜会では、隣国の使者が殿下の冗談に気を悪くして、ふと黙り込んだ。広間に、ひやりとした沈黙が落ちかけた。糸が切れる前に、わたくしは何でもない顔で一言を継いだ。
「使者様。あちらの林檎酒は、北の地のものですわ。あなた様の故郷の味に近いと、伺っております」
使者の硬い頬が、ゆるんだ。
「ほう。故郷の味を、こんな遠い宮廷で」
「ええ。遠い場所でも、舌は故郷を覚えておりますもの」
「いや、まったく。あなたのような方がいて、この国は果報者だ」
「もったいないお言葉ですわ」
沈黙は、ほどけた。
殿下は、ご自分の冗談が使者を傷つけかけたことに、最後まで気づかなかった。
「やはり、酒の話は通じるな」
などと、にこにこと仰っていた。——通じてなどおりませんわ、殿下。あなた様の冗談、危うく国際問題でしたのよ。と、わたくしは扇の陰で、ひっそり思った。
またある夜は、殿下が他家の当主の前で、こう仰りかけた。
「ところで卿の領地は、相変わらず痩せ地で——」
「殿下。庭の薔薇が、今年はよく咲きましたのよ」
わたくしは扇をひらいて、言葉を遮った。
「卿のお屋敷の薔薇園も、見事だと伺っております。今年の出来は、いかがでしたの」
「おお、よくぞ聞いてくださった。今年は格別でしてな」
当主の顔が、ぱっと晴れた。殿下は、自分が何を言いかけたのかも知らぬまま、機嫌よく笑っていた。痩せ地、と言いかけたこと、ご本人はもう忘れていらっしゃる。
わたくしは、手柄を名乗らなかった。
名乗れば、それは献身ではなく、取り引きになる。気づかれぬまま場が回れば、それでいい。それがわたくしの信条だった。
立派な信条でしょう。本当に、立派だと思う。
ただ、その立派さには、一つだけ落とし穴があった。
気づかれぬということは——要らぬ者、と思われる、ということでもあったのだ。
そのことに、わたくしはずっと、目を背けていた。
婚約破棄を告げられたのは、春の入口の夜会だった。
その夜、殿下の隣に、見慣れぬ令嬢がいた。
ベルクハイト伯爵家の、アマーリエ様。緋色のドレスをまとい、よく笑い、よく喋る、それはそれは華やかな方だった。物怖じということを、生まれてから一度もしたことがなさそうな。広間の中央で、太陽のように人を惹きつけていた。
わたくしは、いつものように広間の隅にいた。場の音を聴きながら。
まあ、お似合いだこと——と素直に思った。本当に。皮肉ではなく。
ただ、わたくしの目は、別のところを見ていた。
アマーリエ様、北の伯爵様の前を横切るとき、もう少し裾を上げないと踏みますわよ。あ、踏んだ。それから今、笑いながら西の子爵様に背を向けましたわね。あの方、ああいうのを根に持つたちで……。
いえ。もう、わたくしの仕事ではないのだけれど。
そんなことを考えていたら、殿下がわたくしの前に立った。
「エルフリーデ。話がある」
「はい、殿下」
「婚約を、白紙に戻す」
その声に、ためらいはなかった。
広間の音が、すっと引いた。誰もが、聞き耳を立てている。継がれない沈黙が、わたくしのまわりに静かに落ちはじめる。その音を、わたくしは聴いた。聴き慣れた音だった。いつもなら、わたくしが真っ先に拾いにいく音。
「そなたは、よくやってくれた。だが——」
殿下は、わずかに眉を寄せた。心底、不思議そうに。
「そなたといると、どうも退屈なのだ。気が利くわけでもなく、華があるわけでもない。隅で黙っているばかりで。私の隣には、もっと、場を明るくする女がいい」
気が利くわけでもなく。
……はい?
わたくしは、危うく口に出すところだった。
今この広間が平和なの、どなたのおかげだと思っていらっしゃるの。北の伯爵様と西の子爵様、今夜まだ一度も睨み合っておりませんでしょう。使者様、上機嫌でいらっしゃるでしょう。八年、この広間が一度も荒れなかったの、奇跡だとでもお思いでしたの。
わたくしが結んできた、八年ぶんの席。継いできた、数えきれない一言。逸らしてきた、いくつもの諍い。
そのどれにも、殿下は気づいていなかった。気づかぬまま、わたくしを「気の利かぬ女」と呼ぶ。
可笑しい。本当に、可笑しかった。
わたくしが結んでいた糸を、この方は最初から、見てさえいなかったのだ。
でも——わたくしは、笑わなかった。怒りもしなかった。広間じゅうの目が、わたくしに注がれている。ここで取り乱せば、せっかく八年保ってきた場の糸が、最後の最後でほどけてしまう。
わたくしは、深く礼をした。
「かしこまりました、殿下。長らくの御恩、忘れません」
それだけを言って、背を向けた。
広間を出るまで、足音は立てなかった。淑女は、去り際にこそ品が出る。母から、そう教わった。だから、ゆっくりと静かに歩いた。
扉の手前で、ほんの一瞬だけ、足が止まった。
ふり返りたかったわけではない。ただ——八年聴いてきた、あの広間の音を、もう二度と聴かないのだと思ったら、足が勝手に止まったのだ。
その一瞬だけ、自分に許した。それが、わたくしに残された、たった一つの未練だった。
屋敷に戻ると、老侍女のハンナが灯りをともして待っていた。
わたくしが何も言わずとも、ハンナにはすべてわかっているようだった。長く仕えてくれた人の目は、ごまかせない。
「お嬢様」
「ハンナ。婚約は、なくなったわ」
「……さようでございますか」
「ええ。『気が利かぬ、華もない』ですって。八年も席次を組んできた女に、ずいぶんな言いようよねえ」
わたくしは、わざと軽く言ってみた。けれど語尾が思ったより萎んでしまった。
ハンナは、それ以上は問わなかった。ただ、冷えたわたくしの手を両手でそっと包んだ。皺の寄った、温かい手だった。
「お嬢様の手は」
ハンナは、ぽつりと言った。
「いつも、誰かのために動いておりました。御自分のためには、一度も」
その言葉に、わたくしは不意を突かれた。
軽口を続けようとしていたのに、喉のあたりで、何かがつかえた。
「……ハンナ」
「はい」
「わたくしはずっと、誰かの場にいただけだったわ」
声が、わずかに崩れた。
「夜会の隅で、誰かの糸を結んで。気づかれずに、場を回して。——でも、わたくし自身の場所は、どこにもなかったのね。わたくし、自分がここにいていい者なのか、もう、わからないの」
ハンナは、何も言わなかった。
ただ、わたくしの手を、いっそうきつく握った。その握りが、言葉のかわりだった。
わたくしは目を閉じた。涙はこぼさなかった。こぼせば止まらなくなる。だから飲み込んだ。これまでずっとそうしてきたように。
窓の外を、遅い雪が音もなく落ちていた。
その人がリューデンスの屋敷を訪ねてきたのは、雪のとけかけた頃だった。
ヴァイデン辺境伯、コンラート様。
北の辺境を守る、地味な領主だという。社交界では、ほとんど名を聞かない。華やかな宮廷とは縁の遠い、土の匂いのする人——と、噂に聞いたことがあるだけだった。
応接の間で、その人と向かい合った。
長身で、肩幅が広い。日に焼けた肌に、節くれだった手。仕立ての良い装いも、どこか着馴れていない。襟元を窮屈そうに、指でひとつ、ゆるめた。
……正直に申しますと、最初に思ったのは「大きいわね」だった。熊かしら、と。失礼ですわね、わたくし。
「突然の訪い、許していただきたい」
その声は、低く、飾りがなかった。
「わたくしに、御用でしょうか」
「……御用、というか」
彼は、言葉に詰まった。何かを言おうとして、うまく言えず、しばらく黙り、それから結局こう言った。
「あなたに、礼を言いに来た」
「礼、ですか」
「ああ。八年前の」
彼は節くれだった手を、膝の上でひとつ握り直した。
「八年前、私は初めて王宮の宴に出た。辺境の田舎者だ。作法など何も知らなかった。来賓への挨拶の順を間違えて、大恥をかきかけた。広間じゅうの目が私に集まって——息が、できなかった」
わたくしは、彼の顔を見た。
覚えのない話だった。八年前の宴。何度も出た。何百という顔を見送った夜会。
「そのとき、誰かが私の隣で、さりげなく言ったんだ。『辺境伯様。北の客人を先にもてなすのが、この国の古い習いですわ。あなた様は、それをよくご存じでいらした』と」
わたくしの息が止まった。
「私は知らなかった。間違えていた。だが、その一言で、私の失敗は、まるで作法をわきまえた振る舞いのように塗り替えられた。広間の目が私から逸れた。——あなただった。あなたが、私を救ったんだ」
わたくしは、何も言えなかった。
覚えていない。本当に、ひとつも覚えていない。八年のあいだに誰にも気づかれず継いだ、数えきれない一言の、ただの一つ。継いだそばから忘れていた。継ぐことが当たり前だったから。
「……申し訳、ございません」
わたくしは、ようやくそれだけを言った。
「わたくし、覚えておりませんの。あなた様にとっては、忘れられない一言だったのに。わたくしにとっては——」
「何でもない、一言だった」
彼が、わたくしの言葉を引き取った。
「ああ。わかっている。あなたにとっては、何でもなかったんだろう。だが、私には、忘れられなかった。八年、ずっと」
「八年も、ですか」
「八年も、だ」
大真面目に、そう繰り返すものだから、わたくしの肩から、ふっと力が抜けた。
だって、おかしいでしょう。たった一言。わたくしが忘れてしまうような、何でもない一言。それを、この大きな人が、八年も握りしめていたなんて。
「……あの、失礼を承知で伺いますけれど」
「ああ」
「八年のあいだ、ずっと、それを言うために、わたくしを捜していらしたの」
「ああ」
「捜すのに、八年」
「……辺境は、遠い」
あまりに正直なお答えだったので、今度こそ、わたくしは笑ってしまった。
ずいぶん久しぶりに、扇のいらない笑いだった。
婚約の話は、彼ももう聞き及んでいるようだった。
「人づてに、聞いた」
彼は、言いにくそうに続けた。
「あなたが、その……気の利かぬ女だと言われて、退けられた、と」
「ええ。そう言われましたわ。八年も席次を組んだ女を捕まえて、ねえ」
わたくしは、淡々と答えたつもりだった。けれど、語尾にほんの少しだけ、棘がにじんだかもしれない。
「気が利かぬ、と。華がない、と。——きっと、その通りなのでしょうね」
「違う」
彼の声が、急に強くなった。
自分でも驚いたように、彼は一度、口をつぐんだ。それから、ゆっくりと言葉を探した。
「……気の利かぬ女が、八年前の私を、救えるはずがない。あなたは誰よりも、場が見えている。ただ——その手柄を、名乗らないだけだ」
わたくしは、目を伏せた。
この人は、見ていた。八年、誰も見なかったものを。たった一つの一言から、わたくしの八年をたどり当てていた。
「ヴァイデンに、来ないか」
彼は、唐突にそう言った。
「辺境だ。華やかなものは、何もない。だが——あなたの手が、休まる場所は、あるかもしれない」
「わたくしの、手が」
「ああ。八年、休まなかった手だ。少し、休ませてやってくれ」
わたくしは、自分の手のひらを見た。
令嬢の手にしては荒れている。八年、扇を握り、席次を直し、誰かの場を結び続けた手。誰のためにも動いて、自分のためには一度も動かなかった手。
その手を、この人は、見ていた。
「……熊のお屋敷に、ですの」
「熊?」
「いえ。なんでもありませんわ」
わたくしは、慌てて口をつぐんだ。声に出してしまった。いけない。
彼はきょとんとして、それからまた、襟元をひとつゆるめた。
その不器用な仕草を見ていたら——気づけば、わたくしはこう答えていた。
「……はい。参りますわ」
「いいのか」
「あら。今度は、お確かめになりますの」
「……大事なことだ」
「ええ。参ります。熊のお屋敷でも、どこへでも」
「……熊では、ない」
大真面目に否定なさるので、わたくしは、また笑ってしまった。
ヴァイデンの辺境は、噂のとおり、地味な土地だった。
石造りの小さな館。実りの少ない畑。遠くに連なる、雪をかぶった山々。華やかなものは、本当に、何もない。
けれど、土の匂いがした。風が、まっすぐに吹いていた。
館の戸口で、村の老女マルタが、わたくしを迎えた。
「あんた、よう来なすった」
しわだらけの顔を、くしゃりとほころばせて。
「うちの領主様が、ええ人を連れて帰ったって、村じゅうで噂よ。ささ、寒いでしょ。火にあたんなさい」
「あの……わたくしは、何も、立派な者では」
「あら。立派かどうかは、こっちが決めるよ。あんたが決めるこっちゃない」
「ですが」
「ですが、もなし。領主様が連れて帰った人を、村が悪く言うわけ、ないでしょ」
「領主様は、いつも、こんなふうに、女性を連れて」
「まさか。あの人が女連れで帰ったの、生まれて初めてよ」
マルタは、からからと笑った。
「八年、あんたの話ばっかりしてたのにねえ。やっと連れて帰ったと思ったら、辺境の田舎に。気の利かない男でしょ」
「……八年、わたくしの話を」
「ええ。宮廷で誰かに救われた、って。名も知らない令嬢に。——その人を捜してるって、酒が入るたびに言ってたよ。毎回、毎回。聞かされる身にもなっておくれ」
わたくしは、言葉を失った。
わたくしが忘れてしまった一言を、この人は八年、酒を飲むたびに語っていたらしい。
……可笑しいやら、泣きそうやら、よくわからなかった。マルタのからからとした笑いの前で、わたくしは、ただ立ち尽くしていた。
辺境の暮らしは、静かで、素朴だった。
夜の食卓は、小さかった。コンラート様と、わたくしと、ときどきマルタ。豪奢な料理はなく、温かいスープと固いパン、辺境の蜂蜜があるだけ。
その食卓で、わたくしは初めて気づいた。
誰の顔色も読まなくていい。
誰が気まずいか、どの沈黙が危ういか、どの席が誰の顔を潰すか——そんなことを、もう聴かなくていいのだ。聴かなくていいのだと、わたくしの耳がようやくほどけていった。
その夜、わたくしは生まれて初めてのように、自分の食事に手をつけた。
八年、夜会の席で満足に食べたことなど一度もなかった。場の音を聴くのに忙しくて、自分の皿のことを、いつも忘れていたから。
温かいスープが、喉をゆっくりと通っていく。
「……おいしい」
思わず、声が漏れた。
「そうか」
コンラート様が、ぽつりと言う。
「……おかわりは」
「いただきますわ」
「……まだ、一口だぞ」
「ええ。でも、二杯目があるとわかっていたほうが、一杯目を、ゆっくり味わえますの」
「……なるほど」
大真面目にうなずくものだから、わたくしは、つい笑ってしまった。
彼は、気の利いた言葉を言おうとして、言えなかったらしい。少し考えて、それから、こう続けた。
「……よかった。食べる人で」
「あら。それ、誉め言葉ですの」
「私のなかでは、最上級だ」
「あなた様は、言葉を選ぶのが、お下手ですのね」
「……ああ。昔から、そうだ」
「八年前のあの一言も、よくよく思えば、ずいぶん回りくどい礼でしたわ。北の客人がどうの、古い習いがどうの、と」
「……あれでも、半年、考えた」
「半年も?」
「言葉を選ぶのに、半年かかった」
わたくしは、また笑った。スープの匙を置く間もなく。
「では、伺いますけれど。お館の作法は、いつもどなたが」
「マルタだ。私より、ずっと口がうまい」
「まあ。心強いですこと」
「ああ。私が黙っていても、あれが勝手に喋ってくれる」
「黙っていらっしゃるの、得意でしょうから」
「……得意だ」
胸を張って言うものだから、彼もばつが悪そうに、口の端をひとつ、ゆるめた。
気まずさを埋めようと、誰かが必死に一言を継ぐ——宮廷では、いつもわたくしの役目だった。けれど今、わたくしの代わりに、その一言を継いでくれているのは、目の前の、不器用な人のほうだった。
「気の利いたことを言おうとすると、いつも言葉に詰まる。だから——」
彼はふいに立ち上がると、棚から何かを取って、わたくしの前にことりと置いた。
辺境の、木の実だった。脈絡もなく。
「……これは」
「うまい。食べてくれ」
それだけだった。
わたくしは、その不器用な木の実を、しばらく見つめた。
言葉が足りないかわりに、この人はいつも、何かを差し出す。蜂蜜を。木の実を。火のそばの席を。八年前の、忘れられない一言を。
それは、どんな美辞麗句よりもまっすぐに、わたくしの胸に届いた。
「いただきますわ。——でも、次は、言葉も、いただきたいですわね」
「……善処する」
「半年、かけずに」
「それは、約束できない」
わたくしは木の実をひとつ、口に入れた。素朴な、けれど確かな甘さが、舌の上でゆっくりとほどけた。
辺境にも、宮廷の噂は風に乗って届いた。
ある日、行商の便りを読んでいたマルタが、面白そうに声をあげた。
「ねえお嬢さん。あんたのいた王宮、えらいことになってるらしいよ」
「あら。どうなさったの」
「夜会が、毎回荒れてるんだって。客の順番を間違えて、隣国の使者様がぷりぷり怒って帰っちまったとか」
わたくしは、繕い物の手を止めた。
「……まあ。林檎酒の銘柄、間違えましたのね、きっと」
「林檎酒?」
「あの使者様、銘柄を間違えると三日は不機嫌になりますの。それから、北の伯爵様と西の子爵様、たぶん隣同士に座らせてしまったのではないかしら。あの二家、放っておくと殴り合いますのよ」
マルタは、ぽかんとした。
「あんた、辺境にいながら、王宮の喧嘩まで言い当てるのかい」
「言い当てるのではないわ。八年、その地雷を踏ませずに来ただけ。踏む人がいなくなったら、そりゃあ、踏むでしょう」
「……ありゃ。それ、ぜんぶあんたが捌いてたのかい」
「ええ。『気の利かぬ女』が、ね」
わたくしは、肩をすくめた。
不思議と、勝ち誇る気持ちは湧かなかった。
ねえ殿下。あれ、ぜんぶ「気の利かぬ女」がやっていたことですのよ。——と、ほんの少しだけ思って、それから、思い直した。いえ。意地悪はよしましょう。淑女ですもの。
わたくしが結んでいた糸は、はじめから、わたくしのものではなかったのだ。あれは王家の場の糸。わたくしは八年、ほどけぬように結び続けただけ。糸が手を離れれば、ほどけるのは当たり前。わたくしの手柄でもなければ、罪でもない。ただ、結ぶ者がいなくなった。それだけのこと。
便りには、もう一行、こう書かれていたという。
「殿下が、誰もいなくなった広間で、長くお一人で黙っておられたそうな」
マルタが、それを読んで首をかしげた。
「この殿下ってのが、あんたを捨てた間抜けかい」
「マルタ。間抜けは、言いすぎですわ」
「だってそうだろ。あんたみたいな掘り出し物を捨てて、自分で広間をめちゃくちゃにして、ひとりで黙りこくってるんだろ。間抜け以外の何だい」
……否定できなかった。淑女として、努力はしたのだけれど。
「もう、わたくしには関わりのないことですわ」
わたくしは、その便りを火にくべた。紙がゆっくりと縮れて、灰になった。
「何の便りだ」
コンラート様が、戸口から声をかけた。
「遠い、誰かの話ですわ。——ところで、あなた様。蜂蜜、もう少しいただいても?」
「……いくらでも」
「まあ。今夜は、言葉が短くて済みましたわね」
「短いほうが、間違えない」
彼が、ぼそりと言うので、わたくしはまた、笑ってしまった。
春が来ると、辺境の村はにわかに忙しくなった。
雪がとけ、畑が動きはじめる。種をまく順、水を引く順、誰の畑から手をつけるか。村の者たちが戸口で言い争っているのを、わたくしはたまたま見かけた。
古い水路の使い方をめぐって、二軒の農家がぎこちなく睨み合っている。どちらも引かない。あいだに立った若い衆が、おろおろするばかりで言葉を継げずにいる。
その光景に、わたくしの耳がひとりでに動いた。
ほどけかけた糸の、あの軋み。八年聴き分けてきた音だった。
……いけない。もう、わたくしの仕事ではないのに。
そう思ったのに、気づけば二人のあいだに立っていた。困った癖ですわ、本当に。
「あの。差し出口でしたら、お許しくださいね」
二人が、けげんそうに、わたくしを見た。
「上の畑から水を引けば、こぼれた分が下の畑にも回りますわ。先に使うほうが損をするのではなく——あとに使うほうへ水を送ることになります。だから、順番を争うものではないのかもしれませんわね」
二人は、顔を見合わせた。
「……なるほどなあ。そういや、昔は、そうやってたわ」
「先代が、よう言うとった。水は、上から順に、分け合うもんだと」
張り詰めていた糸が、ふっとほどけた。二人はばつが悪そうに笑って、それぞれの畑へ戻っていく。
「助かったわ、お嬢さん」
通りかかったマルタが、わたくしの肩を、ぽんと叩いた。
「あんた、そういうの得意なんだねえ。人と人のあいだに立つの」
「……得意、でしょうか」
「ええ。あの二人、放っといたらひと月は口きかなかったよ」
「あら。それは放っておけませんわね」
「ほうら。やっぱり得意だ」
「マルタ。それ、誉めてくださってます?」
「もちろんだよ。うちの宝だね」
マルタは、からからと笑って畑のほうへ歩いていった。
わたくしは、しばらくその場に立っていた。
宮廷では、誰もわたくしに礼など言わなかった。気づかれぬことが、仕事の証だったから。けれどここでは、ほどいた糸を人が見ている。助かった、と言ってくれる。肩を叩いてくれる。
わたくしの手が、誰かの役に立っている。それを、誰かが見ている。
たったそれだけのことが、八年こらえてきた胸の奥を、じんわりと温めた。
——わたくしは、ここにいて、いいのかもしれない。
初めて、そう思えた。
辺境の暮らしのなかで、わたくしの手は少しずつ別のものを覚えていった。
繕い物の糸を結ぶこと。畑の苗を結わえること。マルタに教わって、保存食の袋の口をきつく結ぶこと。
手柄にもならない、誰の顔も立てない、ただの暮らしの手仕事。
ある日、わたくしの繕い物を見て、マルタが噴き出した。
「お嬢さん。そんなに固く結んだら、ほどくとき難儀するよ」
「あら。しっかり結べていますでしょう」
「しっかりしすぎだよ。これじゃ、はさみがいる。あんた、なんでも固く結びすぎるねえ。ほどけないように、ほどけないように、って」
わたくしは、手を止めた。
ほどけないように。
……八年、わたくしが場の糸にしてきたことだった。ほどけぬように、ほどけぬように。誰の顔も潰れぬように。誰一人、恥をかかぬように。固く、固く、結び続けてきた。
「……癖、なのですわ」
わたくしは、小さく笑った。
「ほどけることが、こわかったのかもしれません。ずっと」
その夜、コンラート様が、わたくしの繕い物を手に取った。
固く結ばれたわたくしの結び目を、節くれだった指で、しばらく見ていた。
「あなたの手は」
彼が、ぽつりと言った。
「人を、結ぶ手だ」
わたくしは、彼を見た。
「八年、誰の場でも、ほどけぬように結んできた手だ。誰も、それに気づかなかった。だが——その手は、確かに、人と人を、結んでいた」
彼は、わたくしの手を見ていた。荒れて、節くれだった、令嬢らしからぬ手を。
「私は、その手を」
彼は、また言葉に詰まった。
しばらく、黙っていた。今度ばかりは、わたくしも口を挟まず、待った。
それから彼は、襟元をゆるめることもせず、まっすぐにわたくしを見た。
「私は、その手を、結びたい」
火が、ぱちりと爆ぜた。
「うまく、言えない。気の利いたことは、何も。だが——あなたとなら、長く、静かに、笑っていける気がする。派手なものは、何もやれない。蜂蜜と、木の実と、この辺境しか。それでも、よければ」
わたくしは、その不器用な求婚を、聴いた。
飾りのない、まっすぐな声だった。八年前、わたくしを覚えていてくれた、あの声。場を明るくする女がいい、と言ったあの方の、対極にいる人の声。
胸の奥で、八年こらえてきたものが、ようやく、ほどけた。
「……あなたは」
声が、崩れた。気づけば、淑女の丁寧な言葉づかいが、するりと外れていた。
「あなたは、本当に、言葉を選ぶのが下手ね」
わたくしは、笑おうとして、失敗した。代わりに、目から、ひと滴こぼれた。
八年、こらえてきた涙だった。望めば崩れてしまうと、ずっと自分に言い聞かせてきた、その涙。
けれど、その涙は——苦くは、なかった。
「でも」
わたくしは、こぼれたものを拭いもせずに、言った。
「その下手な言葉のほうが、わたくしには、どんな美辞麗句より、まっすぐに届きますわ」
「……それは」
彼が、わずかにたじろいだ。
「了承、ということで、いいのか」
わたくしは、思わず、泣き笑いになった。
「あなたは、そういうところも、お下手ね」
「どういう、ところだ」
「人が泣いて、笑っているときに。『了承ということでいいのか』とお訊きになる方は、なかなかおりませんわ」
「……すまない。確かめたかった」
「ええ。わかっておりますとも」
わたくしは、こぼれたものを指で拭った。それから、ようやく、まっすぐに彼を見た。
「ふつつか者ですが——いいえ。気の利かぬ、地味な女ですが」
わたくしは初めて、その言葉を、自分から口にした。けれど、もう、痛くはなかった。むしろ、少しだけ、可笑しかった。
「そんなわたくしで、よろしければ」
彼は、長いあいだ、わたくしを見ていた。
それから、ようやく、節くれだった手を、そっとわたくしのほうへ伸ばした。乱暴に奪わない手だった。一度ためらって、それから、わたくしの手を、静かに包んだ。
「気の利かぬ女など、どこにもいない」
彼が、ぽつりと言った。
「ここにいるのは、私が八年捜していた人だ」
……まあ。
半年かけずとも、そういうことが言えるのではありませんか。
と、思ったけれど、今度は、口に出さなかった。
手のひらの熱が、八年冷えていたわたくしの指に、ゆっくりと、移ってきた。
その冬、わたくしたちは辺境の小さな館で、ささやかに祝言をあげた。
宮廷の夜会のような華やかさは何もなかった。村の者たちが集まって、マルタの作った素朴な料理を囲み、辺境の蜂蜜酒でわたくしたちを祝ってくれた。
「ほうら、お嬢さん。今日くらい、皿を気にせず食べなさいよ」
「ええ、マルタ。今日は、誰の席次も直しませんわ」
「あったりまえだろ。あんたが主役なんだから」
わたくしは、その夜、何度も笑った。
扇の陰の作りものの笑みではなかった。心の底からほどけた、八年ぶりの、わたくし自身の笑いだった。
夜が更けて、客が帰り、館にわたくしとコンラート様だけが残った。
わたくしは、繕いかけの布を手に取った。糸を結ぶ。けれど、もう固くは結ばなかった。ほどけてもいいように。いつでも、もう一度結び直せるように。
「ずいぶん、ゆるく結ぶようになったな」
コンラート様が、向かいに腰を下ろして言った。
「ええ」
わたくしは、結んだ糸を、灯りにかざした。
「ほどけることを、こわがらなくなりましたの。——ほどけても、隣に、もう一度結んでくれる人がいると、わかりましたから」
彼は、何も言わなかった。
ただ、わたくしの手元のゆるい結び目を、しばらく見ていた。それから、不器用に、口の端をひとつ、ゆるめた。
「あなた」
わたくしは、結んだ糸を置いて、彼を呼んだ。「あなた様」ではなく、ただ「あなた」と。
「何だ」
「わたくしの一言を、継いでくださる方が、ようやく、見つかりました」
彼は、わたくしを見た。意味を半分ほど、取りかねた顔で。それでも、こう答えた。
「……ああ。いくらでも、継ぐ」
「半年かけずに、ですわよ」
「それは——」
「約束できない、でしょう?」
「……ああ」
わたくしは、声をあげて笑った。
その不器用な返事が、八年聴いてきたどんな音よりも、わたくしの耳に、温かかった。
窓の外で、遅い雪が、ようやく雨に変わりはじめていた。長い冬が、この辺境からも、ゆっくりと、出ていこうとしている。
灯りの下で、ゆるく結ばれた一つの結び目が、ほどけずに、けれど苦しくもなく、置かれていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、「夜会の影で、誰にも気づかれずに場を回していた令嬢」のお話です。
エルフリーデの才は、剣でも魔法でもありません。北の伯爵と西の子爵を隣にしない、使者の林檎酒の銘柄を覚えておく——ただ、それだけ。地味でしょう。でも、その地味な気配りで、八年、王家の夜会は一度も荒れずに回っていました。なのに当の王太子は、彼女が結んでいた糸を、最後まで見てさえいなかった。「気が利かぬ、華もない」と捨ててしまうのですね。……ねえ殿下、今この広間が平和なの、どなたのおかげだとお思いで。と、わたしも内心ちょっとだけ思いながら書いておりました。
今回いちばん書きたかったのは、声高なざまぁではなく、彼女の「軽口」でした。婚約破棄を告げられて、まっさきに「あ、今日の席次、誰が直すの」と考えてしまう。怒るより先に、場の心配をしてしまう。そういう、ちょっとおかしくて、ちょっと健気な人を、笑いながら応援していただけたら——と思って書きました。荒れていく宮廷のことは、すべて遠い風の便りとして届くだけ。彼女は勝ち誇らず、ただ「あれは、わたくしの糸ではなかった」と静かに受け止めて、前を向きます。
そして、いちばん大切にしたのは、堅実な恋の温かさです。華やかな王太子の対極に、言葉を選ぶのに半年かかる、不器用な辺境伯コンラートを置きました。彼は八年前、彼女のそっとした一言に救われていた。けれど彼女自身は、それをまるで覚えていない。誰にでもしていた気配りの、ただの一つだったからです。覚えている人と、忘れている人。その非対称が、わたしにはいちばん愛おしいところでした。気の利いた言葉を言えず、代わりに蜂蜜や木の実を差し出す。そんな彼に、彼女が「次は言葉もいただきたいですわね」と軽口を返す。気を張らずに笑える、初めての場所。彼女が初めて自分の食事に手をつける、その一口の温かさを、どうか味わっていただけますように。
結び目、というモチーフに、最後の願いを込めました。八年、彼女が固く結び続けたのは、自分のものでない、他人の場の糸でした。ほどけることを、こわがって。けれど辺境で、彼女はゆるく結ぶことを覚えます。ほどけても、隣にもう一度結んでくれる人がいると、わかったから。
あなたの周りにも、きっと、誰にも気づかれないまま、何かをそっと結んでいる手があります。よかったら、今度、見つけてあげてくださいね。
◇◆◇ 「去りし令嬢の、その後の静けさ」シリーズ ◇◆◇
声を荒げることもなく、ただ静かにその家を去った令嬢たち。残された者が、失ってはじめて気づく——名もない献身の重さに。すれ違いと、後悔と、再会の余韻で読ませる、一話完結の短編シリーズです。
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