↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「気の利かぬ地味な女だ」と捨てられた公爵令嬢——その夜会から、誰も次の一言を継げなくなった

作者: 歩人
掲載日:2026/06/22

「エルフリーデ。婚約を、白紙に戻す」


 そう言われて、わたくしがまず思ったのは——あ、今日の席次、誰が直すの、ということだった。


 いえ、誤解しないでいただきたい。悲しくなかったわけではない。八年も婚約していた殿方に、広間のど真ん中で別れを告げられて、平気な令嬢がいたら見てみたいものですわ。


 ただ、わたくしの頭はそういうふうに出来ていないのだ。


 婚約破棄、なるほど。けれど今夜のこの夜会、北の伯爵と西の子爵の席を、わたくしはわざわざ三つ離して組んである。あの二家は領境の水利で揉めていて、隣同士に座らせると、三杯目あたりで必ず殴り合いが始まる。誰が直すの、これ。それから隣国の使者様。今夜お出しした林檎酒の銘柄、あれは故郷の味に近いと喜んでくださっていたけれど、間違えるとあの方は三日は不機嫌になる。明日からの取り次ぎは、どなたが——。


「……エルフリーデ。聞いているのか」


「は。失礼いたしました、殿下」


 わたくしは慌てて、思考の引き出しを閉めた。


 悪い癖だ。場のことを考えはじめると、止まらない。




 話を、少し戻したい。


 夜会の前というのは、たいていわたくしの屋敷から始まる。


「お嬢様。今夜の席次表、こちらでよろしいですか」


 老侍女のハンナが、紙を一枚、わたくしに差し出した。


「ええと……まあ、ハンナ。北の伯爵様と西の子爵様、隣同士ですわよ」


「あら。いけませんでしたか」


「いけませんとも。あの二家、領境の水利でずっと揉めているのよ。隣に座らせたら、三杯目で殴り合いが始まりますわ」


「……三杯目で」


「ええ。前に一度、四杯目まで待ってしまって、卓がひっくり返りましたの。だから三杯目の手前で離す。これが鉄則ですわ」


 わたくしは羽根ペンを取って、席を三つ、ずらした。あいだには、誰からも好かれる温厚な老臣を一人。


「それから、隣国の使者様。林檎酒は、北の地のものを。あの方、酒の銘柄を間違えると三日は不機嫌になりますの」


「三日も」


「三日も。一度、南の酒をお出ししてしまって、翌日からの取り次ぎが、それはもう大変で」


 ハンナは、目を丸くした。


「お嬢様。よく、そんなことまで覚えていらっしゃいますねえ」


「覚えているのではないの。聴こえてしまうのよ。誰と誰が、隣にいると軋むか。どの席が、ほどけそうか。——困った耳でしょう」


 わたくしは、苦笑した。


 これが、わたくしの仕事だった。誰と誰を離すか。どの来賓に先に酒を運ばせるか。気まずい沈黙が落ちかけた一瞬に、何でもない一言を差し込むこと。


 地味でしょう。自分でも思う。


 でもこの地味さで、王家の夜会は八年、一度も荒れずに回ってきたのですわよ。——と、声を大にして言いたいところだけれど、もちろん言わない。淑女だから。


「お嬢様の才は、立派な才でございますよ」


「あら。剣も魔法も使えませんのに?」


「席をひとつずらすだけで、殿方の殴り合いを止められる令嬢が、ほかにおりますか」


「……そう言ってくれるの、ハンナだけよ」


 わたくしは、ふっと笑った。


 そう。そうなのだ。


 わたくしの結ぶ糸は、誰の目にも映らない。起こらなかったことは、誰にも見えないのだから。


「それで、よかったの」


 とも、思っていた。気づかれぬことこそ、仕事の証だと信じていたから。


 ……いま思えば、そこが、甘かったのだ。




 幾年も、同じことを続けた。


 ある夜会では、隣国の使者が殿下の冗談に気を悪くして、ふと黙り込んだ。広間に、ひやりとした沈黙が落ちかけた。糸が切れる前に、わたくしは何でもない顔で一言を継いだ。


「使者様。あちらの林檎酒は、北の地のものですわ。あなた様の故郷の味に近いと、伺っております」


 使者の硬い頬が、ゆるんだ。


「ほう。故郷の味を、こんな遠い宮廷で」


「ええ。遠い場所でも、舌は故郷を覚えておりますもの」


「いや、まったく。あなたのような方がいて、この国は果報者だ」


「もったいないお言葉ですわ」


 沈黙は、ほどけた。


 殿下は、ご自分の冗談が使者を傷つけかけたことに、最後まで気づかなかった。


「やはり、酒の話は通じるな」


 などと、にこにこと仰っていた。——通じてなどおりませんわ、殿下。あなた様の冗談、危うく国際問題でしたのよ。と、わたくしは扇の陰で、ひっそり思った。


 またある夜は、殿下が他家の当主の前で、こう仰りかけた。


「ところで卿の領地は、相変わらず痩せ地で——」


「殿下。庭の薔薇が、今年はよく咲きましたのよ」


 わたくしは扇をひらいて、言葉を遮った。


「卿のお屋敷の薔薇園も、見事だと伺っております。今年の出来は、いかがでしたの」


「おお、よくぞ聞いてくださった。今年は格別でしてな」


 当主の顔が、ぱっと晴れた。殿下は、自分が何を言いかけたのかも知らぬまま、機嫌よく笑っていた。痩せ地、と言いかけたこと、ご本人はもう忘れていらっしゃる。


 わたくしは、手柄を名乗らなかった。


 名乗れば、それは献身ではなく、取り引きになる。気づかれぬまま場が回れば、それでいい。それがわたくしの信条だった。


 立派な信条でしょう。本当に、立派だと思う。


 ただ、その立派さには、一つだけ落とし穴があった。


 気づかれぬということは——要らぬ者、と思われる、ということでもあったのだ。


 そのことに、わたくしはずっと、目を背けていた。




 婚約破棄を告げられたのは、春の入口の夜会だった。


 その夜、殿下の隣に、見慣れぬ令嬢がいた。


 ベルクハイト伯爵家の、アマーリエ様。緋色のドレスをまとい、よく笑い、よく喋る、それはそれは華やかな方だった。物怖じということを、生まれてから一度もしたことがなさそうな。広間の中央で、太陽のように人を惹きつけていた。


 わたくしは、いつものように広間の隅にいた。場の音を聴きながら。


 まあ、お似合いだこと——と素直に思った。本当に。皮肉ではなく。


 ただ、わたくしの目は、別のところを見ていた。


 アマーリエ様、北の伯爵様の前を横切るとき、もう少し裾を上げないと踏みますわよ。あ、踏んだ。それから今、笑いながら西の子爵様に背を向けましたわね。あの方、ああいうのを根に持つたちで……。


 いえ。もう、わたくしの仕事ではないのだけれど。


 そんなことを考えていたら、殿下がわたくしの前に立った。


「エルフリーデ。話がある」


「はい、殿下」


「婚約を、白紙に戻す」


 その声に、ためらいはなかった。


 広間の音が、すっと引いた。誰もが、聞き耳を立てている。継がれない沈黙が、わたくしのまわりに静かに落ちはじめる。その音を、わたくしは聴いた。聴き慣れた音だった。いつもなら、わたくしが真っ先に拾いにいく音。


「そなたは、よくやってくれた。だが——」


 殿下は、わずかに眉を寄せた。心底、不思議そうに。


「そなたといると、どうも退屈なのだ。気が利くわけでもなく、華があるわけでもない。隅で黙っているばかりで。私の隣には、もっと、場を明るくする女がいい」


 気が利くわけでもなく。


 ……はい?


 わたくしは、危うく口に出すところだった。


 今この広間が平和なの、どなたのおかげだと思っていらっしゃるの。北の伯爵様と西の子爵様、今夜まだ一度も睨み合っておりませんでしょう。使者様、上機嫌でいらっしゃるでしょう。八年、この広間が一度も荒れなかったの、奇跡だとでもお思いでしたの。


 わたくしが結んできた、八年ぶんの席。継いできた、数えきれない一言。逸らしてきた、いくつもの諍い。


 そのどれにも、殿下は気づいていなかった。気づかぬまま、わたくしを「気の利かぬ女」と呼ぶ。


 可笑しい。本当に、可笑しかった。


 わたくしが結んでいた糸を、この方は最初から、見てさえいなかったのだ。


 でも——わたくしは、笑わなかった。怒りもしなかった。広間じゅうの目が、わたくしに注がれている。ここで取り乱せば、せっかく八年保ってきた場の糸が、最後の最後でほどけてしまう。


 わたくしは、深く礼をした。


「かしこまりました、殿下。長らくの御恩、忘れません」


 それだけを言って、背を向けた。


 広間を出るまで、足音は立てなかった。淑女は、去り際にこそ品が出る。母から、そう教わった。だから、ゆっくりと静かに歩いた。


 扉の手前で、ほんの一瞬だけ、足が止まった。


 ふり返りたかったわけではない。ただ——八年聴いてきた、あの広間の音を、もう二度と聴かないのだと思ったら、足が勝手に止まったのだ。


 その一瞬だけ、自分に許した。それが、わたくしに残された、たった一つの未練だった。




 屋敷に戻ると、老侍女のハンナが灯りをともして待っていた。


 わたくしが何も言わずとも、ハンナにはすべてわかっているようだった。長く仕えてくれた人の目は、ごまかせない。


「お嬢様」


「ハンナ。婚約は、なくなったわ」


「……さようでございますか」


「ええ。『気が利かぬ、華もない』ですって。八年も席次を組んできた女に、ずいぶんな言いようよねえ」


 わたくしは、わざと軽く言ってみた。けれど語尾が思ったより萎んでしまった。


 ハンナは、それ以上は問わなかった。ただ、冷えたわたくしの手を両手でそっと包んだ。皺の寄った、温かい手だった。


「お嬢様の手は」


 ハンナは、ぽつりと言った。


「いつも、誰かのために動いておりました。御自分のためには、一度も」


 その言葉に、わたくしは不意を突かれた。


 軽口を続けようとしていたのに、喉のあたりで、何かがつかえた。


「……ハンナ」


「はい」


「わたくしはずっと、誰かの場にいただけだったわ」


 声が、わずかに崩れた。


「夜会の隅で、誰かの糸を結んで。気づかれずに、場を回して。——でも、わたくし自身の場所は、どこにもなかったのね。わたくし、自分がここにいていい者なのか、もう、わからないの」


 ハンナは、何も言わなかった。


 ただ、わたくしの手を、いっそうきつく握った。その握りが、言葉のかわりだった。


 わたくしは目を閉じた。涙はこぼさなかった。こぼせば止まらなくなる。だから飲み込んだ。これまでずっとそうしてきたように。


 窓の外を、遅い雪が音もなく落ちていた。




 その人がリューデンスの屋敷を訪ねてきたのは、雪のとけかけた頃だった。


 ヴァイデン辺境伯、コンラート様。


 北の辺境を守る、地味な領主だという。社交界では、ほとんど名を聞かない。華やかな宮廷とは縁の遠い、土の匂いのする人——と、噂に聞いたことがあるだけだった。


 応接の間で、その人と向かい合った。


 長身で、肩幅が広い。日に焼けた肌に、節くれだった手。仕立ての良い装いも、どこか着馴れていない。襟元を窮屈そうに、指でひとつ、ゆるめた。


 ……正直に申しますと、最初に思ったのは「大きいわね」だった。熊かしら、と。失礼ですわね、わたくし。


「突然の訪い、許していただきたい」


 その声は、低く、飾りがなかった。


「わたくしに、御用でしょうか」


「……御用、というか」


 彼は、言葉に詰まった。何かを言おうとして、うまく言えず、しばらく黙り、それから結局こう言った。


「あなたに、礼を言いに来た」


「礼、ですか」


「ああ。八年前の」


 彼は節くれだった手を、膝の上でひとつ握り直した。


「八年前、私は初めて王宮の宴に出た。辺境の田舎者だ。作法など何も知らなかった。来賓への挨拶の順を間違えて、大恥をかきかけた。広間じゅうの目が私に集まって——息が、できなかった」


 わたくしは、彼の顔を見た。


 覚えのない話だった。八年前の宴。何度も出た。何百という顔を見送った夜会。


「そのとき、誰かが私の隣で、さりげなく言ったんだ。『辺境伯様。北の客人を先にもてなすのが、この国の古い習いですわ。あなた様は、それをよくご存じでいらした』と」


 わたくしの息が止まった。


「私は知らなかった。間違えていた。だが、その一言で、私の失敗は、まるで作法をわきまえた振る舞いのように塗り替えられた。広間の目が私から逸れた。——あなただった。あなたが、私を救ったんだ」


 わたくしは、何も言えなかった。


 覚えていない。本当に、ひとつも覚えていない。八年のあいだに誰にも気づかれず継いだ、数えきれない一言の、ただの一つ。継いだそばから忘れていた。継ぐことが当たり前だったから。


「……申し訳、ございません」


 わたくしは、ようやくそれだけを言った。


「わたくし、覚えておりませんの。あなた様にとっては、忘れられない一言だったのに。わたくしにとっては——」


「何でもない、一言だった」


 彼が、わたくしの言葉を引き取った。


「ああ。わかっている。あなたにとっては、何でもなかったんだろう。だが、私には、忘れられなかった。八年、ずっと」


「八年も、ですか」


「八年も、だ」


 大真面目に、そう繰り返すものだから、わたくしの肩から、ふっと力が抜けた。


 だって、おかしいでしょう。たった一言。わたくしが忘れてしまうような、何でもない一言。それを、この大きな人が、八年も握りしめていたなんて。


「……あの、失礼を承知で伺いますけれど」


「ああ」


「八年のあいだ、ずっと、それを言うために、わたくしを捜していらしたの」


「ああ」


「捜すのに、八年」


「……辺境は、遠い」


 あまりに正直なお答えだったので、今度こそ、わたくしは笑ってしまった。


 ずいぶん久しぶりに、扇のいらない笑いだった。




 婚約の話は、彼ももう聞き及んでいるようだった。


「人づてに、聞いた」


 彼は、言いにくそうに続けた。


「あなたが、その……気の利かぬ女だと言われて、退けられた、と」


「ええ。そう言われましたわ。八年も席次を組んだ女を捕まえて、ねえ」


 わたくしは、淡々と答えたつもりだった。けれど、語尾にほんの少しだけ、棘がにじんだかもしれない。


「気が利かぬ、と。華がない、と。——きっと、その通りなのでしょうね」


「違う」


 彼の声が、急に強くなった。


 自分でも驚いたように、彼は一度、口をつぐんだ。それから、ゆっくりと言葉を探した。


「……気の利かぬ女が、八年前の私を、救えるはずがない。あなたは誰よりも、場が見えている。ただ——その手柄を、名乗らないだけだ」


 わたくしは、目を伏せた。


 この人は、見ていた。八年、誰も見なかったものを。たった一つの一言から、わたくしの八年をたどり当てていた。


「ヴァイデンに、来ないか」


 彼は、唐突にそう言った。


「辺境だ。華やかなものは、何もない。だが——あなたの手が、休まる場所は、あるかもしれない」


「わたくしの、手が」


「ああ。八年、休まなかった手だ。少し、休ませてやってくれ」


 わたくしは、自分の手のひらを見た。


 令嬢の手にしては荒れている。八年、扇を握り、席次を直し、誰かの場を結び続けた手。誰のためにも動いて、自分のためには一度も動かなかった手。


 その手を、この人は、見ていた。


「……熊のお屋敷に、ですの」


「熊?」


「いえ。なんでもありませんわ」


 わたくしは、慌てて口をつぐんだ。声に出してしまった。いけない。


 彼はきょとんとして、それからまた、襟元をひとつゆるめた。


 その不器用な仕草を見ていたら——気づけば、わたくしはこう答えていた。


「……はい。参りますわ」


「いいのか」


「あら。今度は、お確かめになりますの」


「……大事なことだ」


「ええ。参ります。熊のお屋敷でも、どこへでも」


「……熊では、ない」


 大真面目に否定なさるので、わたくしは、また笑ってしまった。




 ヴァイデンの辺境は、噂のとおり、地味な土地だった。


 石造りの小さな館。実りの少ない畑。遠くに連なる、雪をかぶった山々。華やかなものは、本当に、何もない。


 けれど、土の匂いがした。風が、まっすぐに吹いていた。


 館の戸口で、村の老女マルタが、わたくしを迎えた。


「あんた、よう来なすった」


 しわだらけの顔を、くしゃりとほころばせて。


「うちの領主様が、ええ人を連れて帰ったって、村じゅうで噂よ。ささ、寒いでしょ。火にあたんなさい」


「あの……わたくしは、何も、立派な者では」


「あら。立派かどうかは、こっちが決めるよ。あんたが決めるこっちゃない」


「ですが」


「ですが、もなし。領主様が連れて帰った人を、村が悪く言うわけ、ないでしょ」


「領主様は、いつも、こんなふうに、女性を連れて」


「まさか。あの人が女連れで帰ったの、生まれて初めてよ」


 マルタは、からからと笑った。


「八年、あんたの話ばっかりしてたのにねえ。やっと連れて帰ったと思ったら、辺境の田舎に。気の利かない男でしょ」


「……八年、わたくしの話を」


「ええ。宮廷で誰かに救われた、って。名も知らない令嬢に。——その人を捜してるって、酒が入るたびに言ってたよ。毎回、毎回。聞かされる身にもなっておくれ」


 わたくしは、言葉を失った。


 わたくしが忘れてしまった一言を、この人は八年、酒を飲むたびに語っていたらしい。


 ……可笑しいやら、泣きそうやら、よくわからなかった。マルタのからからとした笑いの前で、わたくしは、ただ立ち尽くしていた。




 辺境の暮らしは、静かで、素朴だった。


 夜の食卓は、小さかった。コンラート様と、わたくしと、ときどきマルタ。豪奢な料理はなく、温かいスープと固いパン、辺境の蜂蜜があるだけ。


 その食卓で、わたくしは初めて気づいた。


 誰の顔色も読まなくていい。


 誰が気まずいか、どの沈黙が危ういか、どの席が誰の顔を潰すか——そんなことを、もう聴かなくていいのだ。聴かなくていいのだと、わたくしの耳がようやくほどけていった。


 その夜、わたくしは生まれて初めてのように、自分の食事に手をつけた。


 八年、夜会の席で満足に食べたことなど一度もなかった。場の音を聴くのに忙しくて、自分の皿のことを、いつも忘れていたから。


 温かいスープが、喉をゆっくりと通っていく。


「……おいしい」


 思わず、声が漏れた。


「そうか」


 コンラート様が、ぽつりと言う。


「……おかわりは」


「いただきますわ」


「……まだ、一口だぞ」


「ええ。でも、二杯目があるとわかっていたほうが、一杯目を、ゆっくり味わえますの」


「……なるほど」


 大真面目にうなずくものだから、わたくしは、つい笑ってしまった。


 彼は、気の利いた言葉を言おうとして、言えなかったらしい。少し考えて、それから、こう続けた。


「……よかった。食べる人で」


「あら。それ、誉め言葉ですの」


「私のなかでは、最上級だ」


「あなた様は、言葉を選ぶのが、お下手ですのね」


「……ああ。昔から、そうだ」


「八年前のあの一言も、よくよく思えば、ずいぶん回りくどい礼でしたわ。北の客人がどうの、古い習いがどうの、と」


「……あれでも、半年、考えた」


「半年も?」


「言葉を選ぶのに、半年かかった」


 わたくしは、また笑った。スープの匙を置く間もなく。


「では、伺いますけれど。お館の作法は、いつもどなたが」


「マルタだ。私より、ずっと口がうまい」


「まあ。心強いですこと」


「ああ。私が黙っていても、あれが勝手に喋ってくれる」


「黙っていらっしゃるの、得意でしょうから」


「……得意だ」


 胸を張って言うものだから、彼もばつが悪そうに、口の端をひとつ、ゆるめた。


 気まずさを埋めようと、誰かが必死に一言を継ぐ——宮廷では、いつもわたくしの役目だった。けれど今、わたくしの代わりに、その一言を継いでくれているのは、目の前の、不器用な人のほうだった。


「気の利いたことを言おうとすると、いつも言葉に詰まる。だから——」


 彼はふいに立ち上がると、棚から何かを取って、わたくしの前にことりと置いた。


 辺境の、木の実だった。脈絡もなく。


「……これは」


「うまい。食べてくれ」


 それだけだった。


 わたくしは、その不器用な木の実を、しばらく見つめた。


 言葉が足りないかわりに、この人はいつも、何かを差し出す。蜂蜜を。木の実を。火のそばの席を。八年前の、忘れられない一言を。


 それは、どんな美辞麗句よりもまっすぐに、わたくしの胸に届いた。


「いただきますわ。——でも、次は、言葉も、いただきたいですわね」


「……善処する」


「半年、かけずに」


「それは、約束できない」


 わたくしは木の実をひとつ、口に入れた。素朴な、けれど確かな甘さが、舌の上でゆっくりとほどけた。




 辺境にも、宮廷の噂は風に乗って届いた。


 ある日、行商の便りを読んでいたマルタが、面白そうに声をあげた。


「ねえお嬢さん。あんたのいた王宮、えらいことになってるらしいよ」


「あら。どうなさったの」


「夜会が、毎回荒れてるんだって。客の順番を間違えて、隣国の使者様がぷりぷり怒って帰っちまったとか」


 わたくしは、繕い物の手を止めた。


「……まあ。林檎酒の銘柄、間違えましたのね、きっと」


「林檎酒?」


「あの使者様、銘柄を間違えると三日は不機嫌になりますの。それから、北の伯爵様と西の子爵様、たぶん隣同士に座らせてしまったのではないかしら。あの二家、放っておくと殴り合いますのよ」


 マルタは、ぽかんとした。


「あんた、辺境にいながら、王宮の喧嘩まで言い当てるのかい」


「言い当てるのではないわ。八年、その地雷を踏ませずに来ただけ。踏む人がいなくなったら、そりゃあ、踏むでしょう」


「……ありゃ。それ、ぜんぶあんたが捌いてたのかい」


「ええ。『気の利かぬ女』が、ね」


 わたくしは、肩をすくめた。


 不思議と、勝ち誇る気持ちは湧かなかった。


 ねえ殿下。あれ、ぜんぶ「気の利かぬ女」がやっていたことですのよ。——と、ほんの少しだけ思って、それから、思い直した。いえ。意地悪はよしましょう。淑女ですもの。


 わたくしが結んでいた糸は、はじめから、わたくしのものではなかったのだ。あれは王家の場の糸。わたくしは八年、ほどけぬように結び続けただけ。糸が手を離れれば、ほどけるのは当たり前。わたくしの手柄でもなければ、罪でもない。ただ、結ぶ者がいなくなった。それだけのこと。


 便りには、もう一行、こう書かれていたという。


「殿下が、誰もいなくなった広間で、長くお一人で黙っておられたそうな」


 マルタが、それを読んで首をかしげた。


「この殿下ってのが、あんたを捨てた間抜けかい」


「マルタ。間抜けは、言いすぎですわ」


「だってそうだろ。あんたみたいな掘り出し物を捨てて、自分で広間をめちゃくちゃにして、ひとりで黙りこくってるんだろ。間抜け以外の何だい」


 ……否定できなかった。淑女として、努力はしたのだけれど。


「もう、わたくしには関わりのないことですわ」


 わたくしは、その便りを火にくべた。紙がゆっくりと縮れて、灰になった。


「何の便りだ」


 コンラート様が、戸口から声をかけた。


「遠い、誰かの話ですわ。——ところで、あなた様。蜂蜜、もう少しいただいても?」


「……いくらでも」


「まあ。今夜は、言葉が短くて済みましたわね」


「短いほうが、間違えない」


 彼が、ぼそりと言うので、わたくしはまた、笑ってしまった。




 春が来ると、辺境の村はにわかに忙しくなった。


 雪がとけ、畑が動きはじめる。種をまく順、水を引く順、誰の畑から手をつけるか。村の者たちが戸口で言い争っているのを、わたくしはたまたま見かけた。


 古い水路の使い方をめぐって、二軒の農家がぎこちなく睨み合っている。どちらも引かない。あいだに立った若い衆が、おろおろするばかりで言葉を継げずにいる。


 その光景に、わたくしの耳がひとりでに動いた。


 ほどけかけた糸の、あの軋み。八年聴き分けてきた音だった。


 ……いけない。もう、わたくしの仕事ではないのに。


 そう思ったのに、気づけば二人のあいだに立っていた。困った癖ですわ、本当に。


「あの。差し出口でしたら、お許しくださいね」


 二人が、けげんそうに、わたくしを見た。


「上の畑から水を引けば、こぼれた分が下の畑にも回りますわ。先に使うほうが損をするのではなく——あとに使うほうへ水を送ることになります。だから、順番を争うものではないのかもしれませんわね」


 二人は、顔を見合わせた。


「……なるほどなあ。そういや、昔は、そうやってたわ」


「先代が、よう言うとった。水は、上から順に、分け合うもんだと」


 張り詰めていた糸が、ふっとほどけた。二人はばつが悪そうに笑って、それぞれの畑へ戻っていく。


「助かったわ、お嬢さん」


 通りかかったマルタが、わたくしの肩を、ぽんと叩いた。


「あんた、そういうの得意なんだねえ。人と人のあいだに立つの」


「……得意、でしょうか」


「ええ。あの二人、放っといたらひと月は口きかなかったよ」


「あら。それは放っておけませんわね」


「ほうら。やっぱり得意だ」


「マルタ。それ、誉めてくださってます?」


「もちろんだよ。うちの宝だね」


 マルタは、からからと笑って畑のほうへ歩いていった。


 わたくしは、しばらくその場に立っていた。


 宮廷では、誰もわたくしに礼など言わなかった。気づかれぬことが、仕事の証だったから。けれどここでは、ほどいた糸を人が見ている。助かった、と言ってくれる。肩を叩いてくれる。


 わたくしの手が、誰かの役に立っている。それを、誰かが見ている。


 たったそれだけのことが、八年こらえてきた胸の奥を、じんわりと温めた。


 ——わたくしは、ここにいて、いいのかもしれない。


 初めて、そう思えた。




 辺境の暮らしのなかで、わたくしの手は少しずつ別のものを覚えていった。


 繕い物の糸を結ぶこと。畑の苗を結わえること。マルタに教わって、保存食の袋の口をきつく結ぶこと。


 手柄にもならない、誰の顔も立てない、ただの暮らしの手仕事。


 ある日、わたくしの繕い物を見て、マルタが噴き出した。


「お嬢さん。そんなに固く結んだら、ほどくとき難儀するよ」


「あら。しっかり結べていますでしょう」


「しっかりしすぎだよ。これじゃ、はさみがいる。あんた、なんでも固く結びすぎるねえ。ほどけないように、ほどけないように、って」


 わたくしは、手を止めた。


 ほどけないように。


 ……八年、わたくしが場の糸にしてきたことだった。ほどけぬように、ほどけぬように。誰の顔も潰れぬように。誰一人、恥をかかぬように。固く、固く、結び続けてきた。


「……癖、なのですわ」


 わたくしは、小さく笑った。


「ほどけることが、こわかったのかもしれません。ずっと」


 その夜、コンラート様が、わたくしの繕い物を手に取った。


 固く結ばれたわたくしの結び目を、節くれだった指で、しばらく見ていた。


「あなたの手は」


 彼が、ぽつりと言った。


「人を、結ぶ手だ」


 わたくしは、彼を見た。


「八年、誰の場でも、ほどけぬように結んできた手だ。誰も、それに気づかなかった。だが——その手は、確かに、人と人を、結んでいた」


 彼は、わたくしの手を見ていた。荒れて、節くれだった、令嬢らしからぬ手を。


「私は、その手を」


 彼は、また言葉に詰まった。


 しばらく、黙っていた。今度ばかりは、わたくしも口を挟まず、待った。


 それから彼は、襟元をゆるめることもせず、まっすぐにわたくしを見た。


「私は、その手を、結びたい」


 火が、ぱちりと爆ぜた。


「うまく、言えない。気の利いたことは、何も。だが——あなたとなら、長く、静かに、笑っていける気がする。派手なものは、何もやれない。蜂蜜と、木の実と、この辺境しか。それでも、よければ」


 わたくしは、その不器用な求婚を、聴いた。


 飾りのない、まっすぐな声だった。八年前、わたくしを覚えていてくれた、あの声。場を明るくする女がいい、と言ったあの方の、対極にいる人の声。


 胸の奥で、八年こらえてきたものが、ようやく、ほどけた。


「……あなたは」


 声が、崩れた。気づけば、淑女の丁寧な言葉づかいが、するりと外れていた。


「あなたは、本当に、言葉を選ぶのが下手ね」


 わたくしは、笑おうとして、失敗した。代わりに、目から、ひと滴こぼれた。


 八年、こらえてきた涙だった。望めば崩れてしまうと、ずっと自分に言い聞かせてきた、その涙。


 けれど、その涙は——苦くは、なかった。


「でも」


 わたくしは、こぼれたものを拭いもせずに、言った。


「その下手な言葉のほうが、わたくしには、どんな美辞麗句より、まっすぐに届きますわ」


「……それは」


 彼が、わずかにたじろいだ。


「了承、ということで、いいのか」


 わたくしは、思わず、泣き笑いになった。


「あなたは、そういうところも、お下手ね」


「どういう、ところだ」


「人が泣いて、笑っているときに。『了承ということでいいのか』とお訊きになる方は、なかなかおりませんわ」


「……すまない。確かめたかった」


「ええ。わかっておりますとも」


 わたくしは、こぼれたものを指で拭った。それから、ようやく、まっすぐに彼を見た。


「ふつつか者ですが——いいえ。気の利かぬ、地味な女ですが」


 わたくしは初めて、その言葉を、自分から口にした。けれど、もう、痛くはなかった。むしろ、少しだけ、可笑しかった。


「そんなわたくしで、よろしければ」


 彼は、長いあいだ、わたくしを見ていた。


 それから、ようやく、節くれだった手を、そっとわたくしのほうへ伸ばした。乱暴に奪わない手だった。一度ためらって、それから、わたくしの手を、静かに包んだ。


「気の利かぬ女など、どこにもいない」


 彼が、ぽつりと言った。


「ここにいるのは、私が八年捜していた人だ」


 ……まあ。


 半年かけずとも、そういうことが言えるのではありませんか。


 と、思ったけれど、今度は、口に出さなかった。


 手のひらの熱が、八年冷えていたわたくしの指に、ゆっくりと、移ってきた。




 その冬、わたくしたちは辺境の小さな館で、ささやかに祝言をあげた。


 宮廷の夜会のような華やかさは何もなかった。村の者たちが集まって、マルタの作った素朴な料理を囲み、辺境の蜂蜜酒でわたくしたちを祝ってくれた。


「ほうら、お嬢さん。今日くらい、皿を気にせず食べなさいよ」


「ええ、マルタ。今日は、誰の席次も直しませんわ」


「あったりまえだろ。あんたが主役なんだから」


 わたくしは、その夜、何度も笑った。


 扇の陰の作りものの笑みではなかった。心の底からほどけた、八年ぶりの、わたくし自身の笑いだった。


 夜が更けて、客が帰り、館にわたくしとコンラート様だけが残った。


 わたくしは、繕いかけの布を手に取った。糸を結ぶ。けれど、もう固くは結ばなかった。ほどけてもいいように。いつでも、もう一度結び直せるように。


「ずいぶん、ゆるく結ぶようになったな」


 コンラート様が、向かいに腰を下ろして言った。


「ええ」


 わたくしは、結んだ糸を、灯りにかざした。


「ほどけることを、こわがらなくなりましたの。——ほどけても、隣に、もう一度結んでくれる人がいると、わかりましたから」


 彼は、何も言わなかった。


 ただ、わたくしの手元のゆるい結び目を、しばらく見ていた。それから、不器用に、口の端をひとつ、ゆるめた。


「あなた」


 わたくしは、結んだ糸を置いて、彼を呼んだ。「あなた様」ではなく、ただ「あなた」と。


「何だ」


「わたくしの一言を、継いでくださる方が、ようやく、見つかりました」


 彼は、わたくしを見た。意味を半分ほど、取りかねた顔で。それでも、こう答えた。


「……ああ。いくらでも、継ぐ」


「半年かけずに、ですわよ」


「それは——」


「約束できない、でしょう?」


「……ああ」


 わたくしは、声をあげて笑った。


 その不器用な返事が、八年聴いてきたどんな音よりも、わたくしの耳に、温かかった。


 窓の外で、遅い雪が、ようやく雨に変わりはじめていた。長い冬が、この辺境からも、ゆっくりと、出ていこうとしている。


 灯りの下で、ゆるく結ばれた一つの結び目が、ほどけずに、けれど苦しくもなく、置かれていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


 今回は、「夜会の影で、誰にも気づかれずに場を回していた令嬢」のお話です。


 エルフリーデの才は、剣でも魔法でもありません。北の伯爵と西の子爵を隣にしない、使者の林檎酒の銘柄を覚えておく——ただ、それだけ。地味でしょう。でも、その地味な気配りで、八年、王家の夜会は一度も荒れずに回っていました。なのに当の王太子は、彼女が結んでいた糸を、最後まで見てさえいなかった。「気が利かぬ、華もない」と捨ててしまうのですね。……ねえ殿下、今この広間が平和なの、どなたのおかげだとお思いで。と、わたしも内心ちょっとだけ思いながら書いておりました。


 今回いちばん書きたかったのは、声高なざまぁではなく、彼女の「軽口」でした。婚約破棄を告げられて、まっさきに「あ、今日の席次、誰が直すの」と考えてしまう。怒るより先に、場の心配をしてしまう。そういう、ちょっとおかしくて、ちょっと健気な人を、笑いながら応援していただけたら——と思って書きました。荒れていく宮廷のことは、すべて遠い風の便りとして届くだけ。彼女は勝ち誇らず、ただ「あれは、わたくしの糸ではなかった」と静かに受け止めて、前を向きます。


 そして、いちばん大切にしたのは、堅実な恋の温かさです。華やかな王太子の対極に、言葉を選ぶのに半年かかる、不器用な辺境伯コンラートを置きました。彼は八年前、彼女のそっとした一言に救われていた。けれど彼女自身は、それをまるで覚えていない。誰にでもしていた気配りの、ただの一つだったからです。覚えている人と、忘れている人。その非対称が、わたしにはいちばん愛おしいところでした。気の利いた言葉を言えず、代わりに蜂蜜や木の実を差し出す。そんな彼に、彼女が「次は言葉もいただきたいですわね」と軽口を返す。気を張らずに笑える、初めての場所。彼女が初めて自分の食事に手をつける、その一口の温かさを、どうか味わっていただけますように。


 結び目、というモチーフに、最後の願いを込めました。八年、彼女が固く結び続けたのは、自分のものでない、他人の場の糸でした。ほどけることを、こわがって。けれど辺境で、彼女はゆるく結ぶことを覚えます。ほどけても、隣にもう一度結んでくれる人がいると、わかったから。


 あなたの周りにも、きっと、誰にも気づかれないまま、何かをそっと結んでいる手があります。よかったら、今度、見つけてあげてくださいね。


◇◆◇ 「去りし令嬢の、その後の静けさ」シリーズ ◇◆◇


 声を荒げることもなく、ただ静かにその家を去った令嬢たち。残された者が、失ってはじめて気づく——名もない献身の重さに。すれ違いと、後悔と、再会の余韻で読ませる、一話完結の短編シリーズです。


☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次作の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。