冷酷と呼ばれる兄が見せた、最後の不器用な溺愛
カリスティア国の王城は朝靄の中にあった。
今日は、この国の第一王女、エルゼ・カリスティアが隣国の軍事大国ヴォルガへ嫁ぐ日である。
城門の前には、豪華な装飾が施された馬車と、彼女を護衛する騎士団が整列し、出発の時を待っていた。
見送りに集まった人々は、ひそひそと囁き合う。
彼らの視線の先には、冷徹な美貌を持つ王太子、ジークハルトが立っていた。
「準備が整ったようだ。早く行きなさい」
ジークハルトの声は、冬の風のように冷ややかだ。
妹の門出を祝う言葉も抱擁もない。彼は、妹の顔すら見ようとせず、遠くの地平線を眺めている。
「まるで厄介払いだな。相変わらず冷徹なお方だ」
「政略結婚とはいえ、実の妹の旅立ちにあれほど無関心とは。氷の獅子と謳われるのも頷ける」
周囲の貴族たちは、憐れみの視線を王女に送る。
しかし、純白のドレスに身を包んだエルゼは、悲しむどころか、薄く微笑んでその背中を見つめていた。
彼女は知っているのだ。
兄がなぜ、あんなにも硬い表情で、あんなにも無愛想に振る舞っているのかを。
彼女の記憶は、十数年前の嵐の夜へと遡る。
幼い頃のカリスティアは、今の平穏からは想像もつかないほど政情が不安定だった。
エルゼが五歳、ジークハルトが十歳の頃。王宮の一部が不穏分子に襲撃されるという事件が起きた。
エルゼは暗い地下の隠し部屋に一人、震えながら隠れていた。外からは怒号と剣戟の音が響いている。
恐怖で声も出せず、ただ膝を抱えていた彼女の前に、扉を蹴破って現れたのは、返り血を浴びた兄だった。
「エルゼ、こっちだ!」
十歳の子供とは思えない鋭い眼光。彼は震えるエルゼの手を強く引いた。
追手はすぐそこまで迫っている。
行き止まりの廊下で、ジークハルトは幼い妹を背中に隠し、まだ重すぎるはずの短剣を抜いた。
「兄様、怖い……」
「下がっていろ。お前には、指一本触れさせないっ!」
その時、兄の背中は今の何倍も大きく見えた。
彼は襲いくる刺客を相手に、肩を深く斬られながらも一歩も引かなかった。
助けが来るまでの数十分間、一言も弱音を吐かずに、ただ「大丈夫だ」と繰り返してエルゼを庇い続けた。
事態が収束した後、兄は父である王から称えられたが、彼はそれ以降、極端に口数が少なくなった。
『弱さを見せれば大切なものを守れない』
あの夜の恐怖が、兄を感情を殺した王太子へと変えてしまったのだ。
それからしばらくして、エルゼが風邪を引いた時、彼は「余り物だ」と言って、果物を持ってきた。
だけどエルゼは、それが険しい山岳でしか手に入らない、珍しい果物だと知っている。
縁談を嫌がって泣いた夜は、一晩中エルゼの部屋の前の廊下を警護の騎士に混じって歩き回っていた。
鎧の擦れる音で、それが兄だとすぐ分かった。
兄は決して「愛している」とは言わない。
でも、言葉になんてしなくても全部分かっている。
「姫様? どうなさいました?」
馬車に乗ろうとしないエルゼを、心配そうな顔で促す侍女の姿が目に入る。
「大丈夫よ。何でもないの」
そう答えながら、もう一度兄の方に視線を向ける。
ジークハルトは依然として、こちらを見ない。
「兄様…」
エルゼが呼びかけると、ジークハルトの肩が一瞬だけ、かすかに震えた。
彼女は周囲の目を気にせず、兄の元へ歩み寄る。
そして、彼の大きな手に自分の小さな手を重ねた。
ジークハルトの手は驚くほど冷たかった。それほどまでに彼は、自分を律し感情を抑え込んでいるのだ。
「別れの挨拶など、不要だと言ったはずだ」
「はい。でも、これだけは言わせてください」
エルゼは背伸びをして、兄の耳元で囁いた。
「あの嵐の夜、兄様が繋いでくれた手があったから、私は今日まで笑って過ごせました。ヴォルガへ行っても、私はカリスティアの王女として、そしてあなたの妹として強く生きてみせます」
ジークハルトの瞳が揺れる。
そして、彼はようやく妹と目を合わせた。
そこには王太子としての冷徹な仮面ではなく、今にも崩れそうな、一人の兄としての顔があった。
「エルゼ……」
彼は、手のひらに隠していた小さな石を差し出した。
それは彼が昔から持ち歩いているお守りだ。
エルゼを守ってくれた時、あの短剣の柄に付けていた飾り石だった。
「精霊の加護がついている守り石だ。……きっと、お前を守ってくれるだろう」
兄は、それをエルゼの手に押し付けると、すぐにまた顔を背けた。
「さあ、行け。………二度と振り返るな。お前の居場所は、もうここにはない」
突き放すような言葉。だけど、隠しきれていない。
その声は、かすかに震えている。
その手は、白くなるほど握りしめられている。
幸せになれ……と声にならずに動く唇。
エルゼは、静かに馬車に乗り込んだ。
ゆっくりと車輪が動き出し、王都の景色が遠ざかっていく。カーテンを少しだけ開けて振り返ると、そこにはまだ兄の姿があった。
ジークハルトは、去りゆく馬車に向かって静かに右手を胸に当てた。それは、カリスティア流の「永遠の忠誠と守護」を誓う最敬礼だ。
貴族たちは『不仲な兄妹』だと噂する。
『冷酷な兄』だと眉をひそめる者もいる。
だけど、彼女は知っているのだ。
不器用で優しい兄の背中を。
馬車の中で、エルゼは守り石を胸に抱きしめた。
「ありがとう、兄様。次は私が、あなたの守るこの国を外から支えてみせます」
朝日が昇り、雪解けの水のように輝く街道を、花嫁の馬車は進んでいく。
エルゼは、もう振り返らない。
きっと新しい土地で強く咲いていける。
最後に交わした会話は短かった。
でも、それで十分だった。
手の中には、守り石の温もりがほのかに残っている。
最後までお読みいただきありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
ブックマーク・いいね・評価、励みになっております。
どんな評価⭐︎でも正直な気持ちを残していただけると参考になりますので、よろしくお願いします。




