第十三話 地に堕ちた夢――上海・徐州
――あの日、
彼らは「行ってみたい」と笑った。
中国・上海。
その名は、まだ遠い“観光地”だった。
だが――
その街は、もう別の顔をしていた。
⸻
1937年8月。
上海。
「前へ! 前へ出ろ!」
怒号が、石畳に反響する。
銃声。
爆音。
叫び声。
すべてが混ざり合い、
街はすでに“街”ではなかった。
「……っ!」
Cは、建物の陰に身を伏せる。
視界の端で、ガラスが砕け散った。
かつて人が行き交っていた通り。
その面影は、どこにもない。
――ここが、あの上海なのか。
ふと、思い出す。
「でっかい建物が並んでて――」
誰かが言った。
「観光にはいいな」
あの時の笑い声。
「……違う」
Cは、小さく呟いた。
「こんなの……聞いてない」
次の瞬間。
――ドォン!!
爆発が、空気を裂いた。
「動け! 止まるな!」
上官の声。
足が勝手に動く。
考える余裕などない。
ただ、撃つ。
ただ、進む。
その繰り返し。
路地の奥。
倒れている人影が見えた。
軍服ではない。
――民間人。
一瞬、足が止まる。
「……」
だが。
「行け! 振り返るな!」
背後から怒鳴られる。
Cは、歯を食いしばった。
目を逸らす。
――見なかったことにした。
それが、正しいのかも分からないまま。
銃声は、止まらない。
街は燃え続けている。
そしてCは理解する。
ここはもう――
“観光地”ではない。
“戦場”だ。
⸻
1938年5月。
徐州。
「……くそ、重いな」
Aは、泥に足を取られながら前進する。
雨が降っていた。
地面はぬかるみ、靴は沈む。
「隊長、前方に敵影!」
「分かってる!」
声を張る。
だがその声も、どこか鈍い。
疲労が、全身にまとわりついていた。
――終わらない。
どれだけ進んでも。
どれだけ撃っても。
戦いは、終わらない。
「……前進!」
号令をかける。
部下たちが動く。
その顔は、泥にまみれていた。
誰も笑っていない。
当然だ。
笑える状況ではない。
「……」
ふと、Aは思う。
――あいつら、今どこにいるんだろうな。
上海に行ったC。
海に出たB。
それぞれの場所で戦っているはずだ。
「……生きてるか」
小さく呟く。
返事はない。
当たり前だ。
ここにはいない。
だが。
「……生きてろよ」
それだけは、願った。
――バン!
銃声。
すぐ近くで、部下が倒れた。
「っ……!」
血が、泥に混ざる。
赤と茶色が、区別できない。
「担架! 早くしろ!」
叫ぶ。
だが、返事は遅い。
誰もが限界だった。
Aは、歯を食いしばる。
――判断しろ。
進むか。
止まるか。
救うか。
見捨てるか。
すべてが、一瞬で決まる。
「……前進だ」
低く、言った。
声が震えていた。
それでも、言った。
「前へ出る!」
部下が動く。
倒れた兵を、置いて。
「……」
Aは、一瞬だけ目を閉じた。
そして、開く。
もう振り返らない。
振り返れば、進めなくなる。
戦場とは、そういう場所だった。
雨は、止まない。
泥は、消えない。
そして――
誰も、元の場所には戻れない。
⸻
(つづく)
第十三話をお読みいただき、
ありがとうございました。
本話では、
「一般兵視点の戦闘描写」に
焦点を当てています。
――夢は、同じ場所にありました。
ですが、その姿は、もうどこにもありませんでした。
次回、戦争はさらに広がっていきます。




