第十話 林 明浩
継承とは、
受け取る瞬間よりも――
渡す瞬間の方が、
ずっと静かに訪れる。
これは、
仲村工房の一つの時代が
終わる日である。
2025年。
沖縄。
仲村工房。
工房の朝は、
昔と変わらない。
潮の匂い。
染料の匂い。
乾きかけた布。
だが――
一つだけ、
変わったことがあった。
作業台の前に立つのは、
継。
健太。
彩乃。
三人だった。
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「この色、もう少し薄く」
健太が言う。
継が頷く。
「了解です」
彩乃が布を広げる。
「この柄、海外受けしそう」
工房は、
動いていた。
確実に。
前へ。
だが、
奥の座敷だけは、
静かだった。
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仏壇。
その前に、
一枚の写真がある。
美咲。
穏やかに笑っている。
その前に、
湯呑みを置く男がいた。
隆司だ。
「……美咲」
隆司は、
小さく笑った。
「やっと休めるな」
⸻
数日前。
美咲は、
静かに息を引き取った。
大きな病気ではない。
年齢だった。
最期まで、
工房のことを気にしていた。
『継なら大丈夫』
『健太もいる』
『彩乃もいる』
そして、
最後にこう言った。
『隆司』
『もう、いいよ』
隆司は、
その意味を理解していた。
工房を、
次の世代に渡す時が
来たということだ。
⸻
隆司は立ち上がる。
障子を開ける。
工房を見る。
継がいる。
健太がいる。
彩乃がいる。
隆司は、
小さく笑った。
「……任せたぞ」
その日。
隆司は、
工房を去った。
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引退。
隠居。
そういう言葉が、
一番近い。
だが、
本人はこう言った。
「ただの長い休暇だ」
誰も止めなかった。
そして、
仲村工房は、
完全に次の世代へ引き継がれた。
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その数日後。
一人の男が、
工房を訪れた。
「すみません」
静かな声だった。
継が顔を上げる。
「はい?」
入口に、
男が立っていた。
スーツ。
整った髪。
年齢は三十代半ば。
だが、
その目は、
少しだけ冷たい。
「ここが」
男は言う。
「仲村工房ですか?」
継が答える。
「はい」
男は、
ゆっくり工房の中を見渡した。
紅型。
道具。
布。
男は、ほんのわずかに笑った。
「美しいですね」
継は言う。
「ありがとうございます」
男は、一歩近づく。
「実は、お話がありまして」
健太が腕を組む。
「営業ならお断りだ」
男は、静かに首を振る。
「違います」
一拍。
男は名刺を差し出した。
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「林 明浩です」
空気が変わる。
継は、名刺を見る。
そこには、
こう書かれていた。
『林グループ CEO』
中国系大企業の社長。
⸻
彩乃が、
小さく息を呑む。
林明浩は、
穏やかに言った。
「あなた方の紅型。
少し、興味がありまして」
継が聞く。
「……どの作品ですか?」
林は静かに言った。
「日米地位協定」
だが、その瞬間。
仲村工房の空気が、凍った。
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林は笑う。
「その紅型、買わせてください」
「もちろん、正当な価格で」
だが、その目は、
笑っていなかった。
継は、小さく言った。
「……売りません」
林は、少しだけ笑った。
「そうでしょうね」
一歩、継に近づく。
そして、こう言った。
「ですが」
「その紅型は、
世界が欲しがります」
林は、振り返る。
「また来ます」
そう言って、
工房を出ていった。
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沈黙。
彩乃が言う。
「……何あれ」
健太が言う。
「やばい匂いしかしない」
継は、
倉庫にある紅型を
見つめていた。
そして、
初めて思う。
この布は、
本当に
工房のものなのか。
それとも
もっと大きなものなのか。
"戦い"は、
まだ始まったばかりだった。
⸻
(第十話 了)




